2007年9月12日水曜日
天気が良すぎて働けない
レ・パリジエンヌ「全録音集 1964-1969」
LES PARISIENNES "L'INTEGRALE"
「ア・ラ・モード」という言葉は60年代から既に日本で通用するカタカナ・フランス語でした。この4人の若いパリ女性はとてもアラモードで,レナウンわんさか的で,資生堂花椿的です。クーレージュやジバンシーやパコ・ラバンヌが衣装を担当していたようです。
60年代の国営テレビORTFのヴァラエティー番組"AGE TENDRE ET TETE DE BOIS"(司会アルベール・レネ)のレギュラー楽団のリーダーであったクロード・ボーリングに,若き作曲家/プロデューサーであったベルギー人,ジャン・クリューガー(フランス語読みではクリュジェ)が,せっかくこの人気番組に出ているのだから,何か新しいものを作ろうよ,アメリカ流のジャジーなガールズ・グループなんかどうかな,と進言したのがことの始まりです。ディキシーランド・ジャズ一辺倒だったボーリングは,一転してここでテンポの早いフォックストロット曲を作ってみます。そして作詞家のフランク・ジェラルド(のちにポルナレフ「ノンノン人形」「愛の願い」などを書くヒット作詞家です)のところに持っていって,このテンポの早いモダンな曲に「天気が良すぎて働けない Il fait trop beau pour travailler」といううってつけの詞をもらいます。
そしてこの曲の録音に当時はまだ裏方歌手であったニコル・クロワジール(「男と女」の3年前),ダニエル・リカーリ(サン・プルー楽団「ふたりの天使」),そしてあと二人のコーラスガールを集合させます。これがレ・パリジエンヌの第一回めの録音でした。ボーリング+クリューガー+ジェラルドの3人はこれがヒットするとは思っていなかったようです。しかしラジオでの受けが非常に良く,あわててしまいました。
このテレビ番組"AGE TENDRE ET TETE DE BOIS"のある回にダンサーとして出演した若い女性レイモンド・ボルンスタインが,ボーリングのところにやってきて,実は歌手になりたいのだけれど,と相談します。ボーリングにはこれは渡りに舟で,さっそく彼女に「天気が良すぎて」を聞かせてみます。「これが気に入ったら,あと3人歌って踊れる子を探してグループを作るよ」。ボーリング+クリューガー+ジェラルドは多くの女の子たちをオーディションし,アンヌ・ルフェビュール,アンヌ=マリー・ロワイエ,エレーヌ・ロンゲを採用し,レイモンド・ボルンスタインをリーダーとする女声コーラス・クワルテット,レ・パリジエンヌはここでやっと「姿かたち」を持ったのです。つまり,記念すべきデビュー盤で彼女たちは歌っていなかったのです! テレビ時代ならではのエピソードです。
そしてこの4人はニコル・クロワジールから歌唱指導を受けて,2枚目のレコードから実際に彼女たちが歌うようになります。歌って踊れてファッショナブルな4人娘はテレビのおかげで大変な人気を獲得し,このグループは年に3回の頻度でシングル盤を発表し,7年間活動を続けます。
2007年フレモオ&アソシエ社は,権利保有者のユニヴァーサルから初めて社外リリースの許可を得て,レ・パリジエンヌがフィリップス・レーベルに1964年から69年までに残した全録音71曲をCD3枚組ボックスで復刻しました。快挙です。これまではユニヴァーサル・フランスからベスト盤(19曲)がありましたが,3.7倍のヴォリュームですから。
ルノー4Lのようにポップでエレガントで,焼きたてのバゲット・パンのようなパリっぽさ,あまりハモらずにほとんど4人がユニゾンで歌うスタイルもしゃれていました。映画「ボルサリーノ」の音楽などでも知られるジャズマン,クロード・ボーリングの軽快ジャジーなメロディー&リズムと,フランク・ジェラルドの都会的な皮肉とエスプリたっぷりの歌詞もパリ的でした。
そして,ちょっと注目していただきたい,重要なことがあります。それはジャン・クリューガーの存在です。このベルギー人は父親がジャック・クリューガーという音楽プロデューサー兼パブリッシャーで,親子2代の業界人です。息子ジャンは作曲家・プロデューサーとして,のちにダニエル・ヴァンガルドと組んで,世界的な活動をすることになります。クリューガー/ヴァンガルドは,ライター/コンポーザー/プロデューサーとして,70年代にカリブ・ラテンのバンド,ギブソン・ブラザースをはじめ,ディスコのオタワン("D.i.s.c.o."!),そしてフレンチ・カリビアンのバンド,ラ・コンパニー・クレオールをヒットさせ,今日のダンス・ミュージック愛好家たちからも高い評価を受けています。(ダニエル・ヴァンガルドはダフト・パンクの片割れトマ・バンガルテールの父親です)。
このレ・パリジエンヌの全録音集71曲にも,作曲者としてジョン・クリューガー,ダニエル・ヴァンガルドが個別にクレジットされているものがあり,その上クリューガー/ヴァンガルド・コンビの作品も3曲含まれています。クリューガー/ヴァンガルドになると,これまで軽妙ジャジーだったレ・パリジエンヌの世界が,俄然レア・グルーヴと化してしまいます。ベースラインが違ってしまうんですね。ワウ・ギターなんかも入ってきますし。
CD2の20曲めにクリューガー/ヴァンガルド作曲,フランク・ジェラルド作詞の『ヤマモト・カカポット』という歌があります。ミディアム・ファンキーなこの歌をレ・パリジエンヌは偽・日本語とフランス語で歌っています。それはそれで衝撃的な1曲です。その3年後の1971年,この歌はクリューガー/ヴァンガルドの偽・日本サイケ・グルーヴ合唱団「ヤマスキ・シンガーズ」によって再録音され,その際には完璧なメタ日本語で歌われています(ヤマモト,モトクタサイ)。日本でも好事家たちの間で話題の「ヤマスキ・シンガーズ」のオリジナルがレ・パリジエンヌで用意されていたとは,たいへんな驚きでした。
近いうちに「ヤマスキ・シンガーズ」もここで紹介しましょう。
3CD FREMEAUX & ASSOCIES FA491
(12ページブックレット:クロード・ボーリングとフランク・ジェラルドの対談つき)
フランスでのリリース : 2007年9月10日
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4 件のコメント:
これ、すごい情報だと思うんですよ。それこそ「好事家たちの間で話題」になって当然な。このブログを読んで喜んでいる人はいっぱいいると思うのに、僕ばっかりコメント付けてます。ありがとうございます。ヤマスキに続いて買ってしまいそう。
かっち。さん,コメントありがとうございました。
レ・パリジエンヌのユニゾン歌いというのは,実はバナララマに継承されていくのです。ジャン・クリューガーの「ヤマスキ」レパートリーである「アイエアオア」は,"Aie A mwana"(なんと日本語からスワヒリ語になってしまう)となってバナナラマのデビューを準備してしまうのです。ジャン・クリューガーのストーリーはかなり面白いです。
えぇー。クリューガーってバナナラマの人なんですか。こんな展開があるならば、精々コメント付け続けます。
かっち。さん,コメントありがとうございます。
ジャン・クリューガーの公式サイトがあります。
http://www.jeankluger.com/
それによるとヤマスキの「アイエアオア」が"Aie Mwana"となって70年代にクリューガーのレーベル BiramからBLACK BLOODというバンドがリリースして欧州大ヒットになります。このブラック・ブラッドのヴァージョンをバナナラマがカヴァーしてレコード・デビューした,という話です。クリューガーが直接バナナラマをプロデュースしたということではないです。
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