2007年9月9日日曜日

マジでヤキを入れる



 マジッド・シェルフィ著『ヤキ』
 Magyd Cherfi "LA TREMPE"

 ゼブダの作詞家・ヴォーカリスト、マジッド・シェルフィの2冊めの本です。1作めの"LIVRET DE FAMILLE(家族手帳=戸籍謄本)"は2004年に出ていて、その前年にゼブダは活動休止しています。短編小説集のようなスタイルの本で、マジッドの初ソロアルバム"CITE DES ETOILES"(2004)に呼応する、トゥールーズの北郊外のシテの人間模様を自伝的に綴ったものでした。
 その続編の『ラ・トランプ(ヤキ)』も2作目のソロアルバム"PAS EN VIVANT AVEC SON CHIEN"(2007)と4ヶ月の時差で発表されています。ただし、この時差は重く、アルバムはサルコジ候補者の時期、本はサルコジ大統領の時期に出ています。CDアルバムの「犬と一緒に生きるのではなくて」というよくわけのわからないタイトルは、この本の2番めの短編の題になっていて、やっとどういう状態でこの言葉が出て来たのかを理解できます。
 それは犬嫌いの母親と犬好きのソーシャル・ワーカー兼修道シスターの心の触れ合いのストーリーで、シスターの飼っていた犬が近所の悪ガキたちに誘拐され、虐待の末、生け贄として殺されそうになるところを、実はその悪ガキたちと一緒に遊んでいた少年マジッドが、悪ガキたちの側にありながら最後のところでこの犬を助けてしまうのです。そしてシスターのところに連れ戻すと、母親はその行いをほめるだけでなく、シスターと初めて和解してしまうという結末なのですが、母とシスターの観点の違いは、神は人間に人間を作るように教えてあるのに、シスターはそれをしていない、ということなのでした。人間のつとめを果たさなければ神の道は人に説けない。シスターも子供を作らなければならない。マジッドは母に「でもシスターはできないよ」と言うのですが、それに対して母親は「犬と一緒に生きていたらできないよ Pas en vivant avec son chien。」と結論するのでした。名人落語のような一席です。
 『ラ・トランプ』は冶金の工程で、窯で赤熱させた金属を出して水で急冷させることで、「焼入れ」という訳語が辞書にありました。マジッドにはいろいろな思いがあると思います。だんだんいびつに変容していくサルコジ流の社会にもう一度ヤキを入れ直したいという気持ちもあるでしょう。あるいはゼブダの休止というのは、熱かった自分たちが急激な冷水に打たれてしまったということでも考えているでしょう。
 第一話の「ゼブダの夜」はおそらくゼブダで最も苦渋に満ちた体験を書いたものでしょう。たぶんその夜にゼブダは終わった、という最後の夜のことだと私は読みました。それはある町の招きで、その町のシテ(低所得者向け公営高層住宅街)で無料コンサートを開くというものだったのですが、トラックで楽器を積んで7人組ゼブダが行ってみると、そこは彼らでさえ知らないような違う空気があり、ステージのセッティングをしていると寄ってきた住民の子供たちと話をしようとすると、トルコ系移民のようでフランス語すら話すことができないのでした。主催側スタッフが来て、この町はゼブダを迎えられて光栄です、あなたがたはフランスのマルチカラー文化の鑑です、みたいな褒め言葉が出て来るのですが、マジッドはとてもいやな予感を抱きます。その言葉とさっき見たフランス語を話せないトルコ小僧たちとの大きな隔たりを感じたからです。ゼブダはゼブダで、ロックンロールは(ひいては彼らの音楽は)それを越えられるものがあるから、彼らは人々の前で存在できているのだ、という自負がありました。しかし、その夜、ロックンロールは何も越えられないのです。シテの人たちが集まりコンサートが始まり、一部の人たちの熱狂をよそに、後方でビールを飲んでいる一団がいます。何曲かの後、ステージにものが投げられてきます。紙コップからペットボトルから、やがてもっと固いものが飛んできます。マジッドとムースとハキムは、メチャクチャに楽しもう、と客を乗せていながら、そのメチャクチャな楽しみを違うやり方で行う群衆の前で、彼らは退散せざると得なくなったのです。もはや演奏できる状態ではない。観客は抑えがきかない。物がどんどん飛んで来る中、楽器をたたみ、トラックに乗り込み、ゼブダはその夜町のホテルにも泊まらず、帰路につきます。言わば潰走です。マジッドはそのトラックの中で、ゼブダのひとりひとりのメンバーの寝顔を見ながら、この冒険が今夜終わってしまったのだ、ということを感じます。
 その他、兄が12歳で職業コースに入れられたことを、カビリア(アルジェリア)移民の母が、息子の社会的な「死」として悲しむ第三話「青の作業着」も、気丈な母親の激しく地球的な人間味がよくあらわれた作品です。そして20年間一緒に暮らしている女性との、冷えてしまった関係を、弁解でない言葉で解決のないことを一生懸命さがしている自分を吐露する第七話「破局」も泣かせます。これもロックンロールの死と同様、納得を越えた不可抗力のように思えます。
 最後に第八話として付け加えている「国民としての身分証明と、何人かの保守系ブール(アラブ人)について」という、サルコジ大統領誕生前後の状況についての省察があります。「フランス人になることができないのはアラブ人と黒人である」というサルコジをはじめとした保守系の人々の思想と政策を、なんとかソフトに味付けしようとしてブール(マグレブ移民第二世代)出身の大臣が次々に登場していますが、マジッドはその保守系ブールが自分たちの親と自分たちの歴史を打ち消すことになることを自覚していない、と怒りを露わにします。この部分は物語ではなくオピニオンです。
 言わなければならないことが、音楽で表現しきれなくなったのは、ゼブダの潰走からのことだと思います。マジッドは人情物語の優れた書き手です。そしてブールのオピニオンを的確に表現してくれる論客でもあります。まだしばらく書いていてくれても、十分に私には有益な著者です。ゼブダがどんどん遠のいていくようですが、マジッドの道はこれでいいのかもしれません。

 Magyd Cherfi "LA TREMPE" (Actes Sud刊 2007年8月 164頁 15ユーロ)

 

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