2019年1月29日火曜日

必殺セロト人

ミッシェル・ウーエルベック『セロトニン』
Michel Houellebecq "Sérotonine"

 J'ai connu le bonheur, je sais ce que c'est, je peux en parler avec compétence, et je connais aussi la fin, ce qui s'ensuit habituellement.
 私は幸福を体験した、私はそれが何かを知っている、私はそれを専門知識をもって語ることもできる、そして私はその終わりも知っている、いつもそれに続いてやってくるものだ。
福の終わりと共にやってくるのが、死にいたる病 = dépressionデプレッシオン である。話者フローラン=クロードは46歳で、農業省に勤める高級公務員で、父母が残した巨額の遺産もあり、経済面での心配はないどころか、独り者ゆえこの先何十年だって収入なしでも楽に生きていける。しかし幸福が過去のものになってしまったがゆえに、その生が長くないことを察知している。小説の導入部はデプレッシオンの深刻化のプレリュードであるが、ちょっとどうしようもない。どうしようもないから深刻化するのだが。パリ15区ボーグルネル地区の高層マンション29階に、20歳年下の日本人女性ユズとカップルの生活を送っているが、ウーエルベックはそういう経験があるのだろうか、この日本女性のどうしようもなさは果てがない(このことだけで日本の読者が騒ぎ立てることもあるだろう)。どうせ時を待たず破局するものとわかっているが、ユズの極端な性遊やその両親との極端に煩雑な家族ドラマにガマンがならなくなったフローラン=クロードは、その頃はまだ少しは生に執着があり、29階からユズを突き落として牢獄で余生を暮らすことを避け、フランスで毎年12000件あるという「蒸発」の道を選ぶ。13区のメルキュールホテル(喫煙可ルームのある稀少ホテル)に身を隠したまではよかったが、フローラン=クロードはこの孤独に急激に消耗してしまい、自分を身繕いする体力も失うほど衰弱する。
 診察したアゾットと名乗る医師(小説の後半どんどん良くなっていく、人命を救うために医者になったという聖人寄りのパーソナリティー)は、新世代の抗うつ剤であるカプトリックス(一応念のため言っときますが架空の薬です)を処方する。これが幸福ホルモンとも呼ばれるセロトニンの分泌増加促進に画期的な効果があるということで、小説タイトルにもなる重要度でこの薬の効果が話者フローラン=クロードの生と死のカギとなるのである。しかしこれには副作用もあり、性欲を減退させてしまうのだ。この薬に依存し、この薬なしには生きられなくなるこの男には、この性機能がなくなっていく変化は、「幸福」をますます過去に遠ざけていく。なぜなら幸福は性と一体だったから。小説の前半が特にそういう表現が多いと思うのだが、ウーエルベックの描く "chatte" (まんこ)と "bite”(ちんこ)の快楽は本当に幸福で本当に愛だった。小説の終わり近くに、話者が20世紀初頭の独仏文学の2作品、トーマス・マン『魔の山』とマルセル・プルースト『失われた時を求めて』を引き合いに出して、西洋文明の崩壊の初期の重大な証言者だった巨匠二人が、かたやもう手の届かない若さと美しさを渇望して身悶えし、一方は上流社交世界でのすべての体験を虚しく捨て去り花咲く乙女たちとの淡い恋心だけが記憶として見出される、という二つの失われた幸福を、雄々しくいきり立っていくちんこと湿っていく若いまんこの美しさに替えたらどれほど明白か、と論じるパッセージあり(p333〜335)。ここ、すごいですよ。
 蒸発者は自分を捜索する身寄りはいない(日本人ユズなど全く眼中にない)ので、カプトリックス錠の効果で自殺衝動をほどよくコントロールできて、比較的自由に最初はパリ13区を徘徊する。主人公はうつ的人間ではあっても、十分な透明性があり、カフェ・レストランの風景の一部にもなれる。また十分に俗人でもあり、高級ベンツで見栄を張るところもあり、熱心なTVウォッチャーでもある。しかし徘徊はモディアノ小説のように、過去が喚起される場所に偶然入り込んだりもする。モディアノと違って過去を鮮明に記憶しているこの男は、深々と回想して過去の逃げ去った幸福を悔やむのである。クレール、ケイト、そしてカミーユ。そのすべての幸福の瞬間は逃げていくのだが、男は毎回それを逃げたままにしているのだ。あとを追わない。言い訳をしない。人がよく言うようなセリフを一言言えばいいのに言わない。去っていく幸福をそのまま見送りながら立ち尽くしてしまう男なのだ。取り返せないものと知りながら、そのままにして不幸になるのだ。これ、身に覚えのある読者は少なくないと思いますよ。フツーじゃん、と悲しく認める類じゃないですか。ウーエルベックのクローンのようにヘヴィースモーカーであり、エコロジーを鼻で笑ってディーゼル車を運転し、シニカルな言動の多いこの人物でありながら、この「なぜ別れたのかわからない」引力の弱さだけは、「並みだなあ」の悲哀に親しみを覚えよう。
 メランコリックなパリの徘徊者となったフローラン=クロードは、絶対来てはいけなかった魔界のような場所、国鉄サン=ラザール駅に磁力で引っ張られるように入り込んでしまう。紅茶づけのマドレーヌを必要とせず、この場所でのカミーユとの最初の出会いをあらゆるディテール込みで鮮明に思い出してしまった彼は、いてもたってもいられずカミーユとの過去をたどる旅に出かけてしまう。
 小説はここからバス=ノルマンディー地方を舞台にした一種のロード・ムーヴィーとなっていく。ここで唐突に私からみなさんにこの小説を読む際に、かたわらにミシュランのノルマンディー・ロードマップを用意することをおすすめしておきます。2010年ゴンクール賞作品『地図と領土』のテーゼ「地図は実際の土地よりも興味深い(La carte est plus intéressante que le territoire)」をこの小説と地図を見ながら実証できます。
 元農業省の役人であり、パリの国立農業高等師範校ENSA(通称"アグロ")卒業の農業エリートである彼は、ノルマンディー地方農林局(DRAF)で、ノルマンディーの三大チーズ(カマンベール、ポン=レベック、リヴァロ)のうち、世界的に名の知れたカマンベールでない後二者を国際的にプロモーションするというミッションで働いたことがある。そのDRAFに研修に来ていた獣医科の学生だったカミーユと恋に落ちるのだが、DRAFの上司はフローラン=クロードと同じパリのアグロで学生だったエムリックという男。これが素晴らしくいい奴なのですよ。小説の副主人公と言っていい。実際小説の4分の1ほどの分量はエムリックの農民闘争に費やされていて、この小説の社会・状況的なディメンションをぐわ〜っと膨らませて、またもやウーエルベックの予言的ヴィジョンに驚かされることになる。
 エムリックはノルマンディーの歴史的名家(11世紀ギヨーム征服王に就いてイングランド平定に功をなした貴族をオリジンとするアルクール Harcourt家)の子孫であり、土地に古い人間たちからすればまだ「城主のおぼっちゃま」と敬われたりもしていた。名門出のエリートとしてDRAFの要職を務めたのち、代々所有してきた土地の一部を譲り受けて酪農業者として独立する。乳牛3百頭を化学飼料を使わずに飼育し、原乳を製乳会社に納品する。ところがEUの共同農業政策は、他のEU加盟国の安い原乳の自由流通を促進し、フランスの酪農者たちは過酷な価格競争を余儀なくされ、原価割れで卸さざるをえないところまで苦境に立たされている。農家の廃業や自殺の話はあとを絶たない。エムリックは先祖代々が積み上げてきた富や土地を削ることで赤字補填をして酪農を続けてきた。家が持っている歴史的城館を "Hôtel de charme"(内装・景観を売りに、グルメレストラン、ワインカーヴ、フィットネス施設などを完備した滞在型観光ホテル)に大改造して本業の補填収入を得ようと企てるが、見事に失敗する。その上、これまた土地の貴族系家柄出身の才媛であった妻のセシルは長年エムリックの酪農業の困窮を支えてきたのに、ついに切れて、城館ホテルに宿泊した英国人著名ピアニストに誘惑されるまま、娘二人を連れ立って英国に移住してしまう。
 朝5時に起床して牛たちの世話をし、夜は会計帳簿と睨み合い帳尻合わせに没頭する、1週7日、1年365日、こればかりをしてきても赤字は止まることを知らず、親の土地を切り売りしていく。経営は好転の可能性は限りなくゼロ。口少なくなりアルコール(これが土地の酒カルヴァドスではなく安ウォッカであるという悲しさ)摂取量ばかり増えていくが、腐ってもノーブルな血の流れるエムリックは、優れたオーディオ装置でヴィンテージのロックレコードを聴くという密かな娯しみを失わない。もうこのどん詰まりの状態で、もはや何も語ることがなくなったエムリックとフローラン=クロードの間に、ディープ・パープル、1970年西ドイツ、デュースブルクでのライヴの海賊録音レコードの「チャイルド・イン・タイム」が流れ、話者がこの例外的なジョン・ロード、イアン・ギラン、イアン・ペイスの一音一音に打ち震えながら、エムリックと自分の断末魔の姿を想う、というこの小説で最も美しいパッセージ(p227〜228)があるのだ。
 農業省の役人だったフローラン=クロードは、EUとフランスの農業政策の加担者だった。フランスの農業従事者数は20年間で半数に減ったが、EU標準からすればそれでも多い。価格競争で負けてもっともっとフランスの農業が衰退することがEUの農業経済バランスを健全にする。フランスはEUのためにフランスの農業を見殺しにする。フランスの地方部がこのように見殺しになっている光景はノルマンディーだけではなく、全フランスであることは、現実に2018年11月から起こっている全国規模の民衆蜂起運動を見れば明らかであるが、小説は予言的にノルマンディー農民に「武装蜂起」させるのだ。
 「城主のおぼっちゃま」エムリックは、それにふさわしいノーブルなホビーとして狩猟/射撃をマスターしており、銃砲コレクションも弾薬も所有している。エムリックと同じように困窮している周囲の酪農家たちは、EU内から安い原乳をノルマンディーの製乳会社に運んでくる原乳トレーラー群を幹線道路封鎖によって阻止するという抗議行動を企てている。大型トラクターなど大型可動農機で、高速道路出口から分かれて製乳会社に通じる道を通行止めにする。やがてすぐに機動隊がやってきて、封鎖を解除しようとするだろう。「城主のおぼっちゃま」は言わば「領民」に武器を配るのである。そして自らは自家用の四駆ピックアップの屋根にスナイパーライフルを構え、封鎖ピケ隊の先頭で機動隊の出動を待っている。機動隊は抗議農民たちが銃砲を持っていることを察知するや、テロ事件対策用の突撃狙撃エリート隊を最前線に送る。絶対に最初に発砲してはならない、とエムリックは心に決めている....。
 死者:農民側10人(エムリック含む)、警察側1人。 
 領内の苦しむ農民たちのために権力に歯向かって戦い、非業の死をとげた領主のような、代々続くアルクール家に武勇伝として残るような高貴なエムリックの死。しかしわれわれにはそのようなものを尊ぶ文化が、ノルマンディーにもフランスにもヨーロッパにも残っていないのだ。西欧はとうの昔に死んだ。

 事件後逗留先だったエムリック領地内のバンガロー小屋を、エムリックから射撃練習用に預かっていたスナイパーライフルを隠し持って去り、話者のノルマンディー・ロードムーヴィーは、いよいよ過ぎ去った最大の幸福だったカミーユとの幸福の再構築という不可能に向かっていく。冬のノルマンディーの極深部で展開する狂おしい(接触のない)ストーカー物語のようだ。インターネットは簡単にカミーユが獣医として開業した動物診療所の住所をつきとめ、フローラン=クロードは向かいのカフェに身をひそめて獣医病院のドアの開閉を偵察している。20年前と何ら変わらないカミーユの姿を認める。そして何日かの偵察で、カミーユに幼い子供(男児)がいることがわかる。診療所のある町から何キロも離れた湖畔の集落の一軒家にカミーユは子供と二人で住んでいる。話者の追跡と偵察から割り出した想像で、小説は物語を膨らませていくが、それは全く事実と違うかもしれない。うつ病者の手前勝手な想像のストーリーでは、カミーユは子供の父親とも他の人間関係も遮断して、子供の養育だけを人生の柱にして静かに生きているはずである。ここでフローラン=クロードが再登場しても、彼女は最愛の息子を選択するはずであり、自分に勝ち目はなく、過去の幸福が再構築されるわけはない。

はっきり言えば、もしも私が牡鹿かブラジルの雄猿だったら、この問題は問われることもないだろう:哺乳類のオスがメスを手に入れるためにする最初の行動は、自分の遺伝子の優越性を保証するという目的で、その前に生まれた子供を全滅させることである。この習性は最初の人類にあっても長い間保持されていた。(p300〜301)

 つまりフローラン=クロードはカミーユと再び幸福になるには、その子を殺さなければならないと考えるようになるのだ。カミーユの知らぬうちに暗殺し、カミーユがその悲しみから癒えた頃に自分が再登場すれば、幸福の再構築は不可能ではない、と。 
 湖畔の家の対岸の冬季休業中のレストランに忍び込み、誰もいない備蓄貯蔵室に何日も寝泊まりし、エムリックから預かったスナイパーライフルを構え、対岸の家に4歳の少年が射程の中に入る時を待っている。そしてついに引き金に指がかかる時は来る。しかし...。

 ノルマンディー・センチメンタル・ジャーニーは絶望的に終わり、パリに戻ったフローラン=クロードは、これまでのカプトリックス錠の効果ではコントロールが全くきかなくなり、アゾット医師に倍量(最大許容量)である20mgのカプトリックスの処方を求めるが、このうつ病者の内分泌異常は死に至る寸前まで進んでしまっている。アゾット医師はこう言う:J'ai l'impression que vous êtes tout simplement en train de mourir de chagrin(あなたはごく単純に悲しみのせいで死につつあるようです)(p316)

 文明は死に、ヨーロッパとフランスと農業は死に、過去の幸福に憑かれた男の旅は悪く終わり、その肉体も死んでしまう。ウーエルベックはこの際にキリストと神の不完全さの理由も問うのですよ。この男のように「ごく単純に悲しみのせいで死ぬ」私やあなたの死は、セロトニン値などで決められてたまるもんですか。大いなる悲しみばかりが読後に数日残ってしまう、とてつもなく大きな小説です。

Michel Houellebecq "Sérotonine"
Flammarion刊 2019年1月4日  350ページ 22ユーロ

カストール爺の採点:★★★★★

(↓)『セロトニン』発表時(2019年1月4日)のニュースTVフランス24のルポルタージュ。


(↓)1970年、ディープ・パープル「チャイルド・イン・タイム」ライヴ。



 
 

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