2019年1月9日水曜日

ボロは着てても心の錦

"Les Invisibles"
『見えない女たち』

2018年フランス映画
監督:ルイ=ジュリアン・プチ
主演:オードレー・ラミー、コリンヌ・マジエロ
フランス公開:2019年1月9日

 ルコジが大統領だった時代(2007-2012)から使われている言葉で「アシスタナ assistanat」というのがあります。これはフランスの社会保障制度に基づく、困っている人々への生活保護や無料医療などのシステムを、なにか過剰のもののように見做す人たちが言い始めた表現です。国庫は底をついているのに、この保護システムを悪用して、仕事をしない(例:長期失業者で職安の斡旋を拒否したり再就職する努力をしないが失業手当や生活保護はしっかり取る)人々が多すぎる、という考え方です。この「悪用者」たちは、貧困は自分の責任で陥ったという罪悪感がない。努力すればそこから抜け出せるという意欲もない。黙っていても国が保護してくれるという甘えがある。この過度な寛容を許したのはミッテラン等左派政権時代の悪しき遺物であり、そのような余裕など一切無くなった今日、社会保障制度の悪用を許すわけにはいかない、と、サルコジの時代にこのアシスタナ狩りが始まったというわけです。本当に本当に困窮している人々などごくごく少ないはずである、あとは「自力」で「自己責任」で生きてもらおう、という政策で、それによっていろいろな予算が削減されました。
 映画はこのアシスタナ狩りに関してはサルコジ時代よりは少しは人間味を増したオランド→マクロンの治世の現代が舞台で、場所は失業率は高い北フランスの地方都市です。その地方公共団体(市)が運営する困窮女性たちを日中に保護するセンターをめぐる物語です。このセンターの名前は"L'Envol"(飛翔)というのですが、このセンターでソーシャルワーカーたちの助言と指導によって女性たちが社会復帰&自立を果たして飛び立って行ってほしい、という意図の名前ですね。ところが市側の年間の統計によると、このセンターから自立して社会復帰した女性たちは全体の4%しかなく、残りはこのセンターの居心地の良さに依存して居座っている、と。これはソーシャルワーカーたちが甘すぎるからだ、と。病院の入院患者と同じように、完治しなくてもある程度の安定状態になったら出て行ってもらわなければ困る、と。その結果が出なければ、市としてはこのセンターを閉鎖するしかない、と。
 ここに集まる女性たちは、失業手当が切れてしまった無収入者だったり、元犯罪者だったり、元セックスワーカーだったり、身寄りのない外国人だったり...。だが、最低限清潔であること、寝る場所は自分で見つけること、など絶対に譲らない誇り高さがあります。映画はコメディー仕立てですから、多少誇張してわがままな女性たちのようにも描かれますが、この誇り高さは本物です。この映画に登場するこのホームレスの女性たちは、女優たちではなくそういうことを経験した(している)素人さんばかりなのです。この映画でいいなあと思ったのは、これらの女性たちが自分たちの素性を隠す(生きていく上のノーハウ)偽名がみな誇り高いのです:レディー・ダイアナ、エディット・ピアフ、チチョリーナ、ビヨンセ、フランソワーズ・アルディ(この人、本当にそっくり。瓜二つ)、ブリジット・バルドー、ブリジット・マクロン(!)...。彼女たちは朝のセンター開門からここに集まり、お茶やお菓子を食べ、シャワーと身繕いをし、おしゃべりを楽しみ、ソーシャルワーカーによる研修を(生半可に)受け、夕方には路上に散っていきます。これがもうこれ以上できなくなる、というニュースからこの映画は始まります。
 誇り高い彼女たちは、それ見たことか、行政なんぞ結局あてにならないんだ、とセンターを見捨てて、ガード下のホームレスのテント村に寄り集まります。しかし行政はこの不法野営を強制的に撤去してしまい、行き場所がなくなります。行政が連れて行こうとする絶対的にベッド数の足りない公営の浮浪者夜間収容施設(しかも男女混合!)といいう限りなく不安で危険な寝場所を拒否し、女たちは再び"L'Envol"センターの門を叩くのです。
 主人公のソーシャルワーカー、オードレー(演オードレー・ラミー)とその上司のマニュ(演コリンヌ・マジエロ。この素晴らしい女優に関しては近々に別記事で紹介します)の奮戦がここから始まります。市から社会復帰指導センターとして設置された施設なので、センター利用者を宿泊させることは禁止されているのですが、マニュは市に秘密で施設の一部を彼女たちの宿舎として提供する。そして市が望むように数ヶ月のうちに彼女たちを更生自立・社会復帰させることで、オードレーとマニュの「市民的不服従」を正当化しようというプランなのです。
 しかしこの映画は、その熱血ソーシャルワーカーたちの意気を汲んだホームレス女性たちが必死の努力で応えて見事に社会復帰していく、というイージーな美談の方向には行きません。手仕事アトリエ、廃品リサイクル、再就職活動、これを心理治療を兼ねた集団でのセラピーアトリエを通じて少しずつ進化していく。この心理療法を引っ張っていくのが、ボランティアのブルジョワ婦人のエレーヌ(演ノエミー・ロヴスキー)で、自ら離婚と家庭崩壊の危機にありながら、ボランティアにあらゆる個人的問題を超える生き甲斐を見出そうとする健気なキャラですが、毒もあるコメディー映画ですから、その辺のブルジョワ茶化しは痛快なほど。そしてこの「違法」女性再生工房は、過去も肌の色も宗教も違うが貧困という共通項で結集した女たちのユートピア的コミューンになっていくのですね。オードレーとマニュは、社会から見放された「見えない女たち」が少しずつ自信を取り戻していく様子を見て、勝利は近い、と思うのですが....、しかし....。

 オードレー・ラミーは、売れっ子女優アレクサンドラ・ラミー(ジャン・デュジャルダンの元妻)の妹で、テレビのシットコムやコメディー映画の脇役のような出番が多かった。いつも怒っているような口調が特徴。この映画の主役で、かなり一本気なソーシャルワーカーの役どころははまってましたね。理論はないけれど、気で勝る社会派の顔。私たちが2018年11月からたくさん見てきた怒れる「黄色いチョッキ」の女性たちとシンクロするキャラクター。
 そしてコリンヌ・マジエロ、この映画の「市民的不服従」のリーダー。戦い半ばにして、「違法アトリエ」を密告され、市の責任者から強制的に解散を命じられた時、私たちが仕事をするのはこういう女性たちが活き活きと生気を取り戻す姿を見るためではないのか、と抗言します。正しい。圧倒的に。この女優の素晴らしさは別記事で長く書きます。

 ラストシーン。機動隊に囲まれて、全財産である重いショッピングバッグを両手に抱えてセンターの門を出ていく女たち、こうべを高く、笑みを浮かべたり、中指を立てた腕を突き上げたり...。しかし消えることはない。この国で、この映画を撮った頃には「見えない人たち」であった「黄色いチョッキ」の民衆は、今見える人々です。この国で、 服従しないことは、今、民衆の多数派がやっているのです。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『見えない女たち』予告編


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