第一次大戦終戦から100年、11月11日(終戦記念日)の大セレモニーを前に、大統領マクロンが北東フランスの古戦場各地を訪問、その中で11月6日、最大の激戦地にして慰霊メモリアルのあるヴェルダンで、慰霊セレモニーに参列したひとりの退役軍人叙勲者との会話:
退役軍人:大統領閣下に敬意を表します。
大統領:お元気ですか?
退役軍人:閣下ご自身は?
大統領:あなたたちとこの場を共有できて光栄です。
退役軍人:いつ不法滞在者(サン・パピエ)たちを国外に追放していただけますか?
大統領:ははぁ、滞在許可と難民権のない人たちのことですね。信用してください、その人たちを...。私たちはその仕事を続けますから。
退役軍人:やってくださいますか?私はそのことを他の人たちに言っていいですか?
大統領:あなたはそのことを人に言ってもいいです。 でも私たちが保護すべき人たちは...
退役軍人:それは誓って閣下の言葉ですね?
大統領:そうですとも、私が言ったことです。しかしわが国にたどり着く人たちは...
退役軍人:私は閣下の言葉を記憶にとどめます。
大統領:しかしわが国にたどり着く人たちには、私たちはより有益である必要があります。まず対処の仕方において。住むところに窮している人たちには屋根を提供しなければなりません。
退役軍人:正直な人たちであれば、私はそれに賛成します。
大統領:自分たちの自由が脅かされたゆえに国を逃げてきた人たちは保護しなければなりません。
退役軍人:そうかもしれませんね。
大統領:しかしそうでない人たち...
退役軍人:しかしその人たちをここに置くのは「トロイの木馬」(敵が侵入するためのからくり)ではありませんか?
大統領:しかし自国で自由に生きられるにも関わらずわが国に来る人たちは送り返さなければなりません。これが私の答です。
退役軍人:私は閣下のお答にたいへん満足です。
このやりとりに対して、レイラ・スリマニが激しく怒っている。モロッコ系フランス人作家で2016年のゴンクール賞を受賞したスリマニは、2017年の大統領選挙の第二次投票(マクロン vs マリーヌ・ル・ペン)の際、公然とマクロンへの投票を訴え、新大統領に評価されて2018年春に大統領の私的任命による「フランス語文化圏担当官」のポストをもらった言わば「マクロン身内」であった。自由な論客レイラ・スリマニはそんなことに意を介さず、11月9日、ル・モンド紙に激しい批判のトリビューンを寄稿した。
11月6日、ヴェルダンにてひとりの退役軍人がエマニュエル・マクロン大統領にこう問いかけた「 いつ不法滞在者たちを国外に追放していただけますか?」ー このかしこまった表現の優雅さと巧妙さに注目したい。この退役軍人を私は知っている。と言うよりむしろ、私はこの人を認知する。この苦味のある声、この辛辣な口調、彼が「不法滞在者(sans-papiers)」という時の音節を吐き出すような高飛車な言い方。フランスにいるあらゆる外国人たち、すべてのアラブ人たち、すべての黒人たち、すべての滞在許可を持つ者たちと持たない者たちは確証するだろう「このような意見は日増しに一般的になっている」と。
私たちの往来でぶつぶつ言う人たちは日増しに増えている。バスの中で、肌の黒い人たちが多すぎるように見え、自分たちのフランスは変わってしまったと繰り返し嘆くことで自己満足している人たち。辱める人たち、食ってかかる人たち、罵る人たち、あなたにサービスを提供することを拒否する人たち、イスラムに対して悪罵する人たち。「(民族)大交替」(註:ヨーロッパ大陸でヨーロッパ諸民族がアフリカ諸民族によって放逐されるという、フランス極右思想家ロベール・カミュの説)、「トロイの木馬」(註:ギリシャ神話のもじりで、現在の難民大移動が次に来る非ヨーロッパ民族大移動の布石となっているとする説)を嘆く人たち。自国がここであるにも関わらず、私たちに「自国へ帰れ」と言う人たち。
この退役軍人の質問に対して大統領は庇護される権利のある人たちは受け入れるが「自国で自由に生きられるにも関わらずわが国に来る人たちは送り返さなければならない」と答えた。「閣下のお答に満足です」とその勇敢な退役軍人は胸をそらせた。しかしながら、この男が追放することを望んでいる人たちをエマニュエル・マクロンはもっと厳格さと冷静さをもって防御するべだったと私には思われる。「サン・パピエ(sans-papiers = 紙を持っていない人 = 滞在許可証を持たない人 = 不法滞在者)」という言葉で括られる人たちに関してそのような言い方をするものではないときっぱりと答えるべきだった。彼の言う「複合的思考」を弁護するべきだった、なぜなら移民の問題というのはそれが人間的で、苦悩に満ち、実存的であるがゆえにどれほど複合的で複雑なものか、ということを。
いわゆる「サン・パピエ(紙を持たない人)」たちはサン・ヴィザージュ(顔を持たない人)たちではないことを彼に思い起こさせるべきだった。人が好き勝手に攻撃的に憂さ晴らしができる抽象的な人物たちではないのだ。彼らは学生であり、ベビーシッターであり、料理シェフであり、社会学研究者であり、著述家であり、病人介護者であり、親であり、子供であり、家族ヘルパーである。吐き気を催させる言説を前に、誰が彼らの弁護をしてくれるのか。この国に彼らは溶け込み、仕事をし、愛し、生き抜こうとしているにも関わらず、彼らが追求されたり侮蔑されたりすることに関して誰が憂慮してくれるのか。大統領は「私たちはその仕事を続けますから」と言った。この間にも、何日も何年も仕事をし続けているのはこれらすべての移民たちであり、それは誰もが知っていることなのに、彼らが不当な扱いを受けていることには目を閉ざしてしまう。
「自由に生きられる」? それはどういう意味なのか? 人間の尊厳がなくても人は自由に生きられるのか? 人が飢えている時、手当てをする病院がない時、子供に入学手続きをした学校にトイレや黒板がついていない時、それでも人は自由に生きられるのか? 希望もなく、抗議示威行動をする権利もなく、表現することも、自分のセクシュアリティーに従って生きる権利もない時、それでも人は自由に生きられるのか? アフガニスタンでは人は自由に生きられるのか? その国に多くの「サン・パピエ」たちは強制送還されていて、彼らの運命が残虐な現実に落としこまれるのを見ながら、それでもその国で自由に生きられるのか?
別の質問を立てよう。今日アフリカのいくつの国で男も女も自由に生きられるのか?その土地を発つことは人間の生活の一部である。パリに出てくるために地方を旅立つように、倦怠や絶望から逃げ出すように、人は違う地平を求めてその土地を後にする。おのおのが正当に持っている幸福を求める権利は、なんびとによってもないがしろにされるべきものではない。なんびとたりとも、軽々しさや優越感をもって流謫者たち、影の労働者たち、紙(パピエ)はないかもしれないが権利は持っている目に見えない人たちのことを語る権利はないはずである。そして彼らの権利の第一のものは、人間として尊重されることであり、目を見つめて話されることである。そして守られること。
レイラ・スリマニ(ル・モンド紙 2018年11月9日)
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