2018年9月15日土曜日

いつも心にホホマニを ー ラシッド・タハ頌

シッド・タハが9月11日の夜心不全で「眠りのうちに」亡くなりました。59歳でした。80年代から同時代で追ってました。支持してました。私も移民の端くれですから。Carte de Séjour(キャルト・ド・セジュール=滞在許可証)というバンド名に込められた「B級市民」の意思表示を私も共有しました。ラシッドはフランス国籍を取らなかった。アルジェリア国籍の外国人居住者だった。理由はともあれ、私もフランス国籍を取らない頑迷で誇り高い外国人だった。2度楽屋で会って二言三言言葉を交わしたことがあるが、アルコールがひどくて全然聞き取れなかった。この人には話してもホラ&大言壮語が返ってくるだけだと言われていたが、聞き取れなかったけどそういうことだったろう。ましてや面識のないアジア人である私とは。だけど支持してましたよ。

 私は多くは語れませんよ。だけど、84年「ホホマニ Rhorhomanie」の衝撃はストレートだったし、向風三郎の『ポップ・フランセーズ』本でも「ホホマニ」はかなり熱く書いた記憶がある。デビュー時からカンタベリー派英人スティーヴ・ヒレッジ(元ゴングのギタリスト)がなぜこれに惚れ込んでプロデュースを買って出たのかもなんとなくわかった。ずっと後年、アルコール+ドラッグ+女性関係がこのおセンチな万年少年を消耗させていったのもなんとなくわかった。多くは語れませんよ。悲しいけれど熱心なファンではなかったから。だが、テレラマ誌のワールド欄主筆のアンヌ・ベルトーが素晴らしい追悼記事を書いてくれた。よくわかります。ラシッド・タハ、お見それしました。今、本当にいたわしい気持ちになっています。以下アンヌ・ベルトーによるタハ追悼記事の全文訳です。

この歌手は心臓発作のため59歳で亡くなった。ライとシャービを今日の嗜好にアップデートさせた、トラッシュであると同時に気高い煽動者であった。
すでに数年前から彼が衰弱していたのは周知のことだった。しかし彼は毎回帰ってきた、時には虫の息だったけれど、常に大きな顔をして帰ってきた。だから彼は不死身なのだとみんな思うようにもなっていた。ラシッド・タハ、80年代の伝説的なバンド、キャルト・ド・セジュールのリーダー/ヴォーカリスト、私たちの贔屓のアラブ・ロックンローラーは2018年9月11日火曜日の夜、心臓発作で59歳(数日後の9月18日に60歳になるはずだった)という阿呆のような年齢で亡くなった。タバコを咥えながら、嘲るような眼差しで、帽子を目深におろして私たちに決別の挨拶をする姿が見えるようだ。それは「ブラック=ブラン=ブール」(註:90年代、特に98年W杯優勝の時に言われた、黒人=白人=アラブ人の調和的共同体)のフランスの殿堂の入り口に所在なく姿を見せ、バーのカウンターはどこかと問い、そこに肘をついたとたん威嚇的大声で「糞食らえってんだ!」と言い放つ姿のような。
ほぼ40年前、これと同じ激情でもって彼はリヨンでキャルト・ド・セジュールというロックバンドを結成した。移民排斥法であったストレル法(1977年)とボネ法(1980年)への反撃として。このバンドは尊大さあふれるアラブ語ロックを連発し、人々の意識を目覚めさせた。第二世代となったマグレブ出身者のフランス社会は火をつけられたように盛り上がった。バンドがマグレブの古いしきたりであるマリアージュ・アランジェ(親族同士で調停契約して決められる結婚)を告発した場合も含めて。マグレブ第二世代はそのスポークスマンを得たのだ。1986年パスクワ(内相)の移民法に反撃し、オラン(アルジェリア)生まれで10歳でフランスに上陸した少年は、コーラン教育学校から修道院系中学校への転校を経て、28歳の皮肉をこめてシャルル・トレネの「優しいフランス Douce France」(それは彼が成長した70年代のフランス:最初はアルザスで、父親がブーサック社繊維工場で工員の職を得た。ついでヴォージュ地方...)をカヴァーした。「彼は勇ましく闘士的で、運動における仲間意識を体現していた」とジャック・ラングは敬意を表して悼んだが、当時ラングはこのキャルト・ド・セジュールの「優しいフランス」のシングル盤を、ラシッド・タハとシャルル・トレネと一緒に国会前で議員たちに配ったのだった。

1989年のバンド解散のあと、このシンガーは90年代にソロアーチストとして飛翔する。よりロックで、よりエレクトロに。彼は冷やかし付きのライマン(ライの歌い手)で、アルジェリアの古典的楽曲を当時のパンク的嗜好で再生(アルバム "DIWAN"と"DIWAN 2")し、「ヤー・ラヤー」(アルジェリア人ダフマン・エル・ハラシのシャービ名曲)をダンスフロアーにも通用する世代を超えたヒット曲に変えてしまった。そして1998年その「1.2.3 ソレイユ」の仲間たるハレドとフォーデルと共に満杯のベルシー総合室内運動場を踊り狂わせたのだ。その後の10年、彼は「シャービのジョー・ストラマー」だった。テット・レッドのクリスチアン・オリヴィエと「テキトワ」(警察による人種差別的顔面判断への抗議)を、クラッシュのミック・ジョーンズと「ロック・エル・カスバ」を歌った。その他、ブライアン・イーノ、U2、コールドプレイとも共同作業した。
しかしその後、反逆児はその頂点から堕ちてしまう。ある者たちは彼は終わったと言い切った。飲酒、あらゆる種類の過剰摂取、そして彼が絶対語ることがなかった遺伝子系の病気、それらが彼の偉大さを失わせ、それはステージの上にまで露呈し、彼が最悪の状態を人前に晒しさえした。
2011年のある夜、私たちがリラ(パリ郊外)の彼の自宅アパルトマンで取材した時、彼がそのドアを開けたとき仰天した様子だった。みっともない出で立ちで、両脚はふるえていて、私たちとのアポを完全に忘れていたことは明らかだった。私たちをサロンに置き去りにして、外套をはおり、「ここを動かないでくれ、ちょっと買い物をしてすぐ帰るから!」と。30分後シャンパーニュの瓶2本を持って戻ってきた。シャンパーニュをグラスに2度注ぐ間に、彼が選曲するのに何度もいらいらしたあげくやっと見つけたバシュングの "Blue Eyes crying in the rain"をバックグラウンドで聴きながら、私たちの会話はあらゆる方向に拡散した。「プチ・ブーニュール petit bougnoule」(北アフリカの貧乏小僧)だった子供時代のことや、「窓と女を金網張りで閉ざす土地の愚かなアラブ人たち」のこと、ジダンのこと、作家アズーズ・ベガグ(シラク大統領期の機会均等推進担当大臣だった)にレジオン・ドヌール勲章候補に推薦されたが拒否した話などなど...。
彼は息子のアイレス(Eyles。職業マヌカン)のことも語った。「母親はフランス人?」という質問に、彼は「アルジェリア人と公言すべきだ!」と答えた。それから彼の失恋話も。かつてはするどく辛辣な言葉のプレイボーイとして鳴らしたタハだが、そんな彼にもブルースも優しい心もあったのだ。実はちょうどその夜も「ランデブー」の約束があったのだ。再び彼は姿を消し、5分後に再登場したときには、すみれ色のパンタロン、白革のバブーシュ靴で王子様のように変身していた。
私たちのインタヴューはタクシーの中まで続き、ヒット曲しかかけないFMラジオを聴きながら、話題はコーランにまで及んだり、脈絡もなく「カビリア人はみんな牡蠣を開けられるが、みんな牡蠣が大嫌いなんだ」と話が飛んだ。 行き先はシャングリ・ラ、5つ星高級ホテル、足をふらつかせながらもロックスター氏は大君のように入場し、うやうやしくドアボーイに案内されていった。夜も更け、彼の少数の取り巻くグループに向かって「さあ、みんなVIPラウンジに行こうぜ!」と呼びかけたところで、私たちはそのエネルギーに負けてしまい、そこでおいとますることにしたのだ。
これこそがラシッド・タハだった。トラッシュと気高さの混じり合い、お祭り騒ぎと厳しさの混じり合い、大仰なハッタリと単純さの混じり合い。メニルモンタン通りカフェ・デ・スポールとビュット・ショーモンの丘ローザ・ボヌールの常連、その気になればバブーシュ靴をはいてシャンゼリゼ大通りを行進することもできる。
その2年後(2013年)、アルバム "Zoom"(ブライアン・イーノ、ミック・ジョーンズ、ロドルフ・ビュルジェとのコラボレーション作)で再びシーンの前面に戻ってきた。ウーム・カルトゥーム、カート・コバイン、エルヴィス・プレスリーの幽霊に憑かれ、ゲンズブール風霊感に包まれた暗いアルバムであった。トリアノン劇場でのコンサートで、私たちは往年の大いなる宵のラシッド・タハの復活を見た。弱ってはいるが、才能あるマンドール奏者にして素晴らしいヴォーカリストでもあるハキム・ハマドゥーシュに支えられ、格の違いを見せつける未体験のロックンロールを展開した。ロドルフ・ビュルジェとミック・ジョーンズを従えて不朽の名曲「ヤー・ラヤー」を歌い出すときに、タハは「この歌はあんたたちも爺と婆なんだってことをわからせてくれるだろうよ、この間抜けども!」とわめいた。

最近録音を終え2019年にBelieveレーベルから発売されることになっているアルバムの曲 "Je suis africain(俺はアフリカ人)"もうすぐ聞けるのだろうか?もちろんだ。フランス国籍を申請したことなど一度もなかったラシッド・タハはアルジェリア人であり、マグレブ人であり、ロックの言語を話すことで彼はガリア人(フランス人)たちや海峡の向こう側のポップスターたちを結集させることができたのだ。
2016年、「ライの30周年」イヴェントで私たちは再び彼に会うことができた。メニルモンタンのカフェ・デ・スポールのテーブルにつき、周りにはハキム(ハマドゥーシュ)、プロデューサーのミッシェル・レヴィ(フランスの"ムッシュー・ライ")、そして近所の友人たちがいた。大口叩きで酔っ払い、だが決して一本の線を見失うことはない男、彼のことはそう記憶しよう。彼はハキムに隣の薬局に「歯の接着剤」を行かせたのだ。たった今落としてしまった切歯の端まできらめく男なのだ。一言で言えばユニーク。

アンヌ・ベルトー
(Web版テレラマ、2018年9月12日)

(↓)"Ya Rayah" 1997年オフィシャルクリップ


(↓)9月13日、フランスのニュース専門TV局FRANCE 24の16分追悼特番。

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