2021年11月7日日曜日

ヴェロさんのアメリカ

まだ人生が終わったわけではないが、わが生涯を通じて(レコード/CDにおいて)最も聴いたアーチストはビートルズでもローリング・ストーンズでもなく、ヴェロニク・サンソンである。それが年を追うごとに72年/73年の圧倒的な魅力を加速度的に失っていってもである。ファンというものはそういうものだ。それが2016年のアルバム "Digues, dingues, donc..."を最後に新譜を買わなくなったし、コンサートも(声が出ない状態を知っているので)行かなくなった。もともとこの人のライヴは好きではない。フランスで見るからだろうが、ファンたちのサポートで支えてもらっているようなパフォーマンスがいやだった。テレビのショー番組での「生演奏」も見て(聞いて)いられない。ゴシップ誌やネットメディアで見るのは、(フランソワーズ・アルディと同じように)その"病状”や芸能ネタばかりで、どうにも興味のいだきようがない。私は古いレコード/CDだけでいい。それだけでファンを続けよう。2008年12月にワーナーから出た全集(CD22枚+DVD4枚)は聴くほどにまだまだ発見がある。
 音楽誌ラティーナに連載していた「それでもセーヌは流れる」(2008〜2020年)では2度まとまった記事を書いているが、その2度目は2015年、ヴェロニク・サンソンの(ミセス・スティーヴン・スティルスとしての)アメリカ滞在期に関するものだった。それまでイメージされていた「暴君的な夫に命の危険さえあった悪夢のような年月」という俗説をかなり否定する、”歴史修正”的な見直しと、アメリカ期に録音された5枚のアルバムの再評価の試みだったようだ。われながら、発見のある面白い記事だった。再録します。

★★★★  ★★★★  ★★★★  ★★★★ 


この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2015年3月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。



タバコを買いに行くわと言って出たきり帰ってこなかったヴェロニク・サンソンのアメリカ時代


(In ラティーナ誌2015年3月号)


バコを買いに行くわ」と言って出たきり、二度と戻ってこない。これがヴェロニク・サンソンの伝説だった。

   時は1972年3月、ファーストアルバム『アムールーズ』が出て、23歳の誕生日も近い頃、ヴェロニクは公私とものパートナー(恋人でありプロデューサーでもある)ミッシェル・ベルジェと連れ立って、オランピア劇場にマナサスのコンサートに行く。1970年にクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングとして歴史的傑作『デジャ・ヴ』を世に送った当時のスーパースター、スティーヴン・スティルスの新しいバンドである。そのライヴに二人(とりわけヴェロニク)が魅了されたことは間違いない。偶然にその翌日彼女が所属していたレコード会社WEAのフランス支社に、同じWEA所属のスーパースター氏が表敬訪問していて、ヴェロニクとスティルスは支社長ベルナール・ド・ボッソンの室で初対面する。その時のスティルスの顔を「まるでテックス・アヴェリー動画に出て来る赤ずきんちゃんを見たオオカミのよう」だったとボッソンは後日回想している。同じソファーに腰掛け話し出す二人。スティルスは既にアルバム『アムールーズ』を聞いてその才能を確信していて、会う前からそのアメリカ版を自分がプロデュースできたらと考えてたよ、とミス・サンソンに言った。よく言うよ。初対面なのに長々としゃべってしまった。おもむろにヴェロニクは「私もう行かなくちゃ」と席を立った。するとスティルスも「俺ももう出るよ」と。
 「私は彼の手を取り、夢中でシャンゼリゼ大通りを走って横断した。そして自分がどうしていいんだかわからなくなって、じゃあ、さよならって、彼をそこに放っておいたの」。

   伝説ではここで握手のシーンがある。エモーションのあまりどれほど強く握ったのだろう、ヴェロニクは通りを渡り、背後かなたにスティーヴが消え去る頃、彼の手袋がまだ手の中に残っていたことに気付くのである。

   スティルスとマナサスは世界ツアーを続け、その10月にパリに戻ってくる。ヴェロニクのアルバムは「フランス初の大型シンガーソングライター」と世界で絶賛され、既にセカンドアルバムを準備中で、その中には(後日に明白になるのだが)スティルスとの出会いにインスパイアされた曲が何曲か録音されている。アルバムタイトル曲である『私の夢の向こう側(De l'autre c
ôté de mon rêve)』の意味が、スティーヴン・スティルスとアメリカであるということを恋人のミッシェル・ベルジェは知らずに、淡々とスタジオ録音作業を続けている。そのスタジオにスティルスが訪れている!ベルジェとヴェロニクは17区の新居に引っ越したばかりだった。そこは室内が真っ白に塗装され、白いピアノが置かれていた。その春ベルジェとサンソンが連名で設立した音楽出版社の名前は「白いピアノ(piano blanc)」だった。

   スティルスがパリでの日程を終え、アメリカに帰る時、悪魔の誘惑、彼はサンソンの分の航空券を用意して、空港で彼女を待っている。心の決まらない女は荷物を持って空港に行くものの「あ、パスポート忘れちゃった」と臭〜い芝居をして、一時はその夢を断ち切ろうとフランスに留まり、ロックスターはひとり機中へ。

   しかし...。沖からの呼び声はヴェロニクを狂わせる。ベルジェと新生活を築いていると信じている両親と姉には何も言えない。セカンドアルバムのヴォーカル吹き込みが終った時、彼女は歌手のニコレッタ(「あなたの生きるべき人生を生きるのよ、お金はいつでも好きな時に返して」)から航空券代を借り、録音スタジオワークの合間に「タバコを買いに出てくるわ」と言い残し、そのまま帰ってこないのである。


   2015
年2月、4月に緑寿(66歳)を迎えるヴェロニク・サンサンが4年ぶりに大規模なツアーに出ている。ショーは"Les Ann
ées Américaines"(アメリカ時代)と銘打たれ、彼女がアメリカに滞在していた時期(オフィシャルには1973年から81年)に制作した5枚のスタジオアルバム:


"Le Maudit"
(邦題『悲しみの詩』1974

"Vancouver"

(『想い出』1976

"Hollywood"
(
『想い出のハリウッド』1977

"7
ème"
(『愛の微笑み』1979

"Laisse-la vivre"

(『ときめき』1981

に収められた曲から演目を構成したものになっている。同時期にグラッセ社から『ヴェロニク・サンソン - アメリカ時代』(ローラン・カリュ&ヤン・モルヴァン共著)という評伝本も出版され、またレコード会社ワーナー・フランスからは同名のCD2枚組の編集盤もリリースされた。


 このアメリカ期は「ミセス・スティルス」であった時期である。これまでこの時期は、音楽的評価よりも前に(芸能誌的な多くの情報によって)プライヴェート面における多くの問題の方が強調されていたようなきらいがある。曰く、スティーヴン・スティルスとも蜜月時代は短く、ミッシェル・ベルジェとの悔いある別離、アメリカ生活での孤独、アーチストとしての行き詰まり(アメリカでの成功がない)、ドラッグとアルコールへの転落、暴力的な夫との長い離婚訴訟...等々。不幸なヴェロニク・サンソンというイメージはその歌詞にも多く、ミッシェル・ベルジェが1992年に亡くなった後で、アメリカ期に書かれたほとんどの曲がベルジェへの悔恨・懺悔・永久の愛のメッセージであると告白して、ベルジェ未亡人であるフランス・ギャルと重度の確執関係となっている。愛のない結婚、異国での孤独、アルコール... それだから心に響いて来る音楽もある。この才能あふれるシンガーソングライターは一級の私小説作家の面を持つ。自らの生きざまが音楽になったのだ。だから...とファンたちは妙に納得して、悲劇のヒロインの音楽に感動していたのだ。

 ところが、本当にそうだったの?前掲のカリュ&モルヴァン共著本『アメリカ時代』は、視点がこれまでの評伝本とは大いに異なっている。170 x 240ミリ版130ページのカラー図版本でまず驚くのは多くの未発表写真で、とりわけハワイでの日焼けした水着姿や、テニスする姿、ビーチで煙草を吸う姿に驚かされる。それらはリラックスしたヴェロニクのリゾート満喫の美しい笑顔があり、スティルスと子供クリストファーの顔も優しい。なにか過去を書き換えているような印象すらある。

 40年を経て『アメリカ時代』が見直される。同時にスティルスとの関係も。冒頭で紹介したようなサンソンとスティルスの電撃的な恋は、今までこんなにディテールが伝えられたことはない。この新著の中では手袋を握りしめて消え去ろうとするヴェロニクに向かって男は"I will marry you!"と叫ぶのである。嘘だぁ。

 「タバコを買いに」と行方不明になった娘の居場所を、父ルネ・サンソンは国際警察機構(インターポール)を使ってつきとめる。第二次大戦のレジスタンスの英雄であり、政府高官をつとめた(因みに70年大阪万博のフランスパビリオン館長でもあった)ルネだからできたことだが、この誇り高いフランス名士は娘を強引に娶ろうとするテキサス野郎に「きみは娘を本当に幸せにできるのか?」と問うた。それに対するスティルスの答は「僕は世界で千八百万枚のアルバムを売った男ですよ」。

 それは見当外れの答ではない。このスーパースターはこのフランス娘に音楽アーチストとしての最良の環境を準備してやるのである。

 「一緒に歌うのは息子のためだけだね。僕はアーチストとしての彼女に口出しはしない。もちろんできることがあれば助けるさ。でも彼女は十分才能がある。僕は道具を与えたいだけなんだ」(スティルス、ローリングストーン誌197412月)。コロラドとロサンゼルスとハワイに家を持ち、ポール・マッカートニーやスティーヴィー・ワンダーと知り合い、最良のミュージシャンたちと最良のスタジオで録音する。駆け出しのシンガーソングライターだったフランス娘は、その恵まれすぎた環境に気後れすることなく傑作アルバム"Le Maudit"(『悲しみの詩』1974)を作った。これは絶対にフランスではできなかったことなのだ。

 「ブルースは僕の国から生まれたものだが、彼女はブルースのすべてを持っている」と1989年にスティルスは書いている。悲しみはヴェロニクの中にあり、それを源に音楽を作っていくようなアーチストの作業に最適な環境を与えるというのが、スティルスの役目であり愛情であった。ロンドンで満杯熱狂のウェンブリー・スタジアムでのライヴの主役を果たした数日後、パリのオランピア劇場の愛妻のステージでは後方で黙々とベースを弾く、というスティルスの姿は当時奇異に見えたであろう。

 夫婦の日々には天国と地獄がある。アルコールとドラッグと暴力、猟銃、放火、殺し屋、後半は信じられないほど恐ろしいエピソードが続き、限界をはるかに超えた時点で二人はやっと離婚できた。「もう前世のことさ!」とスティルスは言う。「今や彼女は僕の一番の親友さ。僕のすべてを理解していて、何も隠せない。僕の心がブルーになった時、誰に電話すべきか、今僕は知っている」。
 

 ヴェロニク・サンソンの「アメリカ時代」は結婚・出産・離婚と5枚のアルバム。コロラドの高山、西海岸のセレブリティー、ハワイのヴァカンス...40年後、66歳のヴェロニクは目を細めて、あの時の歌の数々を再び私たちの前で歌ってみせるのである。老いなければわからないこともあるのだ。


(ラティーナ誌2015年3月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓)”LES ANNEES AMERICAINES"ツアーのDVDのティーザー

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

記事の共有、ありがとうございます。

>アルコールとドラッグと暴力、猟銃、放火、殺し屋、後半は信じられないほど恐ろしいエピソードが続き、限界をはるかに超えた時点で二人はやっと離婚できた。

猟銃のエピソードは、翻訳してくださったパリジアンの記事でわかりましたが、放火と殺し屋というのもあったのですね。

激しい人生ですね。放火というのは誰が誰の家を放火したのでしょうか?
殺し屋は誰が殺されそうになったのでしょうか?

興味深々です!

Pere Castor さんのコメント...

匿名さん、コメントありがとうございます。
スティーヴン・スティルスとの一連のエピソードは、主に2000年代に評伝本や雑誌インタヴューで語られています。これは1970年代当時には証言できなかったことだと思いますが、時間が経ち、長い年月極端に険悪な関係だったスティルスともようやく雪解けた頃に、過去の戦慄的なできごとを笑い話のように語ることができるようになった、ということなのだと解釈できます。殺し屋エピソードは、彼女がいたアメリカショービズ的環境では(金さえあれば)簡単に殺し屋を雇うことができ、狂乱状態になるとどんな攻撃をしかけてくるかわからないスティルスを威嚇するためにプロの殺し屋の電話番号を何度か回しかけたことがある、という程度の話です。本当かどうかはわかりませんね。

匿名 さんのコメント...

カストール爺さま、お返事ありがとうございます。ヴェロニクのほうが雇おうとしたということですね。放火もヴェロニクが考えていたことでしょうか(笑)。