2021年11月1日月曜日

しゃれこうべと呼ばれた女

Patrick Modiano "Chevreuse"
パトリック・モディアノ『シュヴルーズ』

作のキーワードのひとつが "Art de se taire"、つまり沈黙する術、口をつぐむワザ、ということ。この"art”は処世術という言葉における"術”、身に付けた"作法"のような意味である。だから沈黙する術と言っても、やみくもに黙秘することではなく、言外のほのめかしをただよわせながら、この先は絶対に口を割らず沈黙ではぐらかすという術なのだ。あからさまにではなく、相手がおのずとこれ以上の深入りをシャットアウトされてしまうような逃げ方。この小説に登場するのは多くを語らない人たちばかりです。重要なほのめかしは数語で終わり、その意味するところはこちらの想像通りなのかどうかもわからない。そして本作の主人公はそれを深追いすることができない。それを突っ込んで聞くことによって、相手の罠にはまるかもしれないという恐れがある。だから彼もまた沈黙する術をわきまえなければならないのである。
 モディアノの小説に慣れ親しんでいる読者にはおなじみのこの曖昧模糊・五里霧中な雰囲気の中で、言ったことの途中で止めてしまう登場人物たち。その断片の数々を記憶に蘇る新しい手がかりを頼りになんとか全容を再構築していこうとする。しかし頼っているのは記憶なのでそれ自体が不確かなもの。モディアノの名人芸は、不確かなものを不確かなままでおぼろげな筋立てができていく妙。
 小説の始まりはラジオから聞こえてきたシャンソンである。今から50年ほど前しょっちゅうラジオにかかっていたセルジュ・ラトゥールの"Douce Dame(優美な貴婦人)"という歌。


この歌を聞いたのはガラガラに空いたヴェトナム料理レストランで、主人公ジャン・ボスマンスの向いにはひとりの女がいて、この歌をうっとりした顔で聞き入って、歌詞を口ずさんだりもしていた。女の名前はカミーユ・リュカ、だが人は彼女を「しゃれこうべ(髑髏)Tête de mort」と呼ぶ。なぜこんなあだ名かと言うと「その冷徹さゆえであり、無口で人を寄せ付けないところがあるから」だと。日中は会計職の雇われ人であるこの"しゃれこうべ”がどのようにしてボスマンスに近づいてきたのかはこの小説ではわからない。
 ボスマンスという人物はモディアノの小説では既に数作で登場していて、当ブログで紹介している分では2010年発表の小説"HORIZON”の主人公であり、作家/著述家であることからモディアノの化身と見なされている。今度の小説では、ボスマンスが書いた自伝的オートフィクション小説にその読者が(実在とされる)登場人物の消息について作家に情報を書き送るという挿話があり、内容がわれわれ読者には杳として見えないその小説内小説に、あらたに不確かな証言を加えるという、濃霧に包まれた作品世界に重ねて濃霧を追加するようなモディアノ節がある。
 あの頃20代だったボスマンスは駆け出しの作家で、その放浪癖のような不安定さであらゆる出会いを拒まなかった、それでいて誰にも心を許していないような警戒心もあった、そんな孤独な魂を漠然と感じさせる。ディテールは語られないが作家はそのような小説を書いていたのだろう。そしていつも大きな恐怖が迫ってくる予感がしていた。それが何だったのかをほのめかす記憶の断片がひとつ、またひとつと蘇ってくる。その断片をひとつひとつジグソーパズルのように貼り合わせていくわけだが、断片は曖昧であり、記憶であるから真偽は判然としない。これがなんとか形にするのがモディアノの名人芸である。
 セルジュ・ラトゥールの歌で呼び戻された"しゃれこうべ”と呼ばれた女の記憶。この小説の全編を通してみてもその名に由来する冷徹さはあまり感じられないが、多くを言わない人物であることはわかる。しかしボスマンスとは親密な関係だったことはうかがえ、後に明らかになる彼女の負わされた役割から翻って考えても、ボスマンスを傷つけまい、ボスマンスを守りたい、という秘められた態度すら了解される。そして小説後半には"しゃれこうべ”の15区のアパルトマンがボスマンスの隠れ家にもなっている。敵なのか味方なのか、愛人なの庇護者なのか、それはほとんど語られない。
 いずれにせよその頃のボスマンスは"ヒモ"のように"しゃれこうべ”について回っている。その行きつけの場所のひとつがパリ16区オトイユ地区にある個人アパルトマンのサロンで、そこは夜な夜な人々が集まってなにやら"組織”の社交サロンのようなさま。一体何の集会なのかはボスマンスにはわかっていない。そしてある日そこから、"しゃれこうべ”の女ともだちのマルティーヌと共に車で「寄り道するところがある」と連れて行かれたのがシュヴルーズ。パリの南西30キロの古い城下町と自然公園。マルティーヌが新しく借りることになっている館の下見に。車窓から見える景色に蘇ってくるボスマンスの子供時代の記憶。マルティーヌの新居の家主の名前=ローズマリー・クラヴェルを聞かされた時、ボスマンスの心のざわざわは激しくなるが、それを女ふたりに気づかせてはいけない。
 この小説では登場人物たちすべてがこうなのだ。こちらの手の内を見せてはいけない、動揺を悟られてはいけない。言葉少なになんとかこちらの誘いに乗せようとしているような。
 小説全篇でボスマンスは二度シュヴルーズに連れてこられる。二度めは"罠”だと気づかなければおかしいほどの露骨さで。だがボスマンスは罠とは気づかないふりを続けなければならない。
 背後で動く犯罪の匂いのしみついた男たち。"しゃれこうべ”とカフェで待ち合わせすると、いつも彼女の隣にいるミッシェル・ド・ガマという男。"しゃれこうべ”が会計係として以前勤めていたサン・ラザール駅近くのホテルで同僚だったと言う。そのホテルをド・ガマと二人で共同経営しているというギイ・ヴァンサンという男。"しゃれこうべ”はヴァンサンの事務室で会計仕事をしていた。ド・ガマはボスマンスに"しゃれこうべ”の元の仕事場を見せたいから、とホテルに招待する。ボスマンスは不思議なほど何も拒まない。言われるがままにホテルに行き、"しゃれこうべ”にヴァンサンの事務室を案内してもらうが、そのシーンにド・ガマは同行しない。事務室にある写真、置物、そしてヴァンサンの日程の書かれたアジェンダ...。"しゃれこうべ”は何も指示していないのに、あれこれのものをボスマンスに見せ、写真とアジェンダを盗みボスマンスに提供する...。さらにもうひとり、"組織”の集会サロンのあるオトイユの大きなアパルトマンの借主であるルネ=マルコ・エリフォールという男。ボスマンスは遠い記憶の中で、ド・ガマ、ヴァンサン、エリフォールの三人が監獄の中で意気投合した仲間であるというほぼ確信的な情報がある...。
 私はここでほぼ種明かしをしなければこの記事が続けられないので、書いてしまうが、ボスマンスの記憶が蘇れば蘇るほど、すべてが自分を陥れる罠だった、ということがわかっていく。"しゃれこうべ”もマルティーヌも怪しげな男3人もすべてグルだった。これはこの小説に書かれていないことも読み取らなければわからない。まずボスマンス(=モディアノ)が、両親に育てられず、施設(寮)や養親のもとで子供時代を過ごしたということはこの小説では書かれていない。そしてその養親のひとりが、裕福な独り身女性(=ローズマリー・クラヴェル)だったことも書かれていない。このクラヴェル夫人の館があったのがシュヴルーズであり、少年ジャン・ボスマンスはこの環境に土地勘が芽生えるほどの期間住んでいた(こともこの小説には書かれていない)。記憶として書かれているのは、派手な外車(アメ車)に乗ったならず者風な男がこの館に出入りしていたこと。ある日この館で大掛かりな内装工事が始まり、壁が打ち抜かれ、床に穴が掘られ、その後元どおりにされる。少年ジャンはその工事の一部始終を見ている。クラヴェル夫人がサロンで電話で話していて、ほかの言葉は聞き取れないが、ジャンは彼女がはっきりと「ヴァンサンが監獄から出てきた」と言った言葉だけは鮮明に覚えている。さらにボスマンスの記憶では館を警察が家宅捜索を敢行してあるものを探すのだが、その傍らにいた少年ジャンに警官が「子供の証言は必要ないな」と言い、放っておくのである...。
 ある犯罪、ある隠匿、現金か財宝か、その隠し場所の手がかりを握るたったひとりの目撃者がこの子ジャンであった、と悪党どもは考えた、ということも小説には書かれていない。
 十数年後、この宝物を執念深く追い続ける悪党ども(すなわちド・ガマ、ヴァンサン、エリフォール、あるいはその背後にもいる複数の人物)は、ボスマンスを見つけ出し、その薄れているであろう記憶を取り戻させようと、"しゃれこうべ”を接近させ、シュヴルーズとローズマリー・クラヴェルの記憶を鮮明に取り戻すよう、シュヴルーズとその他さまざまな場所に連れ出すという、時間をかけた大掛かりな記憶蘇生喚起を試みるのである。しかしそのそぶりは見せてはいけない。語ってもいけない。しかし悪党のひとり(ド・ガマ)は詰めのところで焦って本性を出してしまう...。
 お立ち会い、私がじりじりした挙句こんなレジュメを書いてしまったことを信用してはいけない。この小説はこんなに単純ではないし、登場人物たちは鍵になるセリフなど一言も吐かない。しかし私のような読者は「書かれていないこと」をここまで読んでしまうのだ。そして私の読みは諸説あるひとつにすぎない。冒頭でのべた "L'art de se taire"、沈黙する術の会得者ならば、私のようにベラベラ講釈してはいけないのであり、私は文学上最も無粋なことをしているのである。(言外と行間を)ここまで読ませるか? ー というのがこの小説の狙うところであり、モディアノはまた私をはめてしまった、と読後うなってしまう。
 富豪女性ローズマリー・クラヴェルの確証のない末路、消えてしまった悪党どもの行先、マルティーヌ、"しゃれこうべ”... 。50年後の今はすべて幽霊である。記憶とは幽霊のことなのである。

Patrick Modiano "Chevreuse"
Gallimard 刊  2021年10月7日、160ページ、18ユーロ
 
カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)フランス5文芸番組「ラ・グランド・リブレーリー」で『シュヴルーズ』を語るパトリック・モディアノ(2021年10月)
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