2019年7月16日火曜日

シコさんに叱られそう

2019年7月13日付けリベラシオン紙に南仏カマルグのバンド、ジプシー・キングスの軌跡が3面にわたっての記事で。
 このバンドに関しては向風三郎の『ポップ・フランセーズ』(2007年)ではこう紹介されている。
 旅する者の王者たちジプシー・キングスは、南仏プロヴァンス地方アルルのはずれのキャラバン野営地のジタン(ヒタノ)であった。近くには野生の白馬が駆ける湿地帯カマルグが広がり、ジタンの聖地サント・マリー・ド・ラ・メールでは毎年5月、聖女サラを讃える祭りのために何十万というジタン巡礼者が訪れる。アルルの名高い歌手ギタリスト、ホセ・レイエスは息子たちを演奏家に育て、父子でロス・レイエスという楽団を組んで、コート・ダジュールの富豪ヴァカンス客たちの宴に出演していた。一方モンペリエにダリにも賞賛される天才ギタリスト 、マニタス・デ・プラータを筆頭とするジタンの音楽一家バリアルド家があり、マニタスの甥にあたるディエゴ、パコ、トニノの3人がホセ・レイエスの死後にロス・レイエスに参加している。その時からレイエス家から3人(ニコラ、パブロ、アンドレ)、バリアルド家から前述の3人、そして故ホセ・レイエスの娘婿のモロッコ人ジャルール(シコ)・ブーシキを加えて合計7人が新ロス・レイエス(未来のジプシー・キングス)であり、これは名門ヒタノ家族連合のスーパーバンドであった。
ジプシー・キングスが地球規模のヒット曲「バンボレオ」と「ジョビ・ジョバ」を世に送ったのは1987年のことだった。あれから30余年、バンドは本家、分家、正系、傍系いろいろ分裂しながら、「ジプシー・キングス」という金看板商標の使用をめぐっていろいろもめてきた。特に有名なエピソードがジャルール・シコ・ブーシキの独立(1992年)で、上に引用したようにこのシコはモロッコ人(つまり非ヒタノ)であり、ホセ・レイエスの娘マルトと結婚してこの世界に入ったが、オリジナル・ジプシー・キングスのスポークスマンのようにメディアのインタヴューではひとり目立ってしゃべっていた。ほかのメンバーが口下手と言うか、ほとんど前に出ない。リベラシオンの記事で、エリック・クラプトンに夕食を招待された時、”俺たち英語しゃべらないから"と言い訳しているが、夕食の席で何もしゃべらなかったのは、しゃべり屋のシコが脱退したからと思われる。そのシコは92年に新ジプシー・キングスとして独立したかったのだが、名前の使用に関して訴訟沙汰にまでなり、結局「シコ&ジプシーズ」となった。しかしこの新バンドはジプシー・キングスのレパートリーを演目とするので、一般の人は「ジプシー・キングスなんじゃないの?」とどうでもいいような反応だった。音楽業界およびメディアへのハバの効かせ方の違い、言わばシコの政治力の違いで、シコ&ジプシーズは本家ジプシー・キングス(ニコラ・レイエス&トニノ・バリアルド)を凌駕してメディアと世界市場に露出して、ジプ・キン演目+古今東西有名曲のルンバ・フラメンカカヴァーという商業路線で成功していく。
  唐突にブライアン・ジョーンズを引き合いに出す。私は熱心なファンではないし、のめり込んでストーンズを聞いたこともない人間だが、ブライアン・ジョーンズに関しては良い印象がない。それはミュージシャンとしての資質よりも、マネージメントおよびリーダーシップに長けた人物として最初期ストーンズの看板だったからであり、音楽よりも「政治」をやっているタイプという印象である。これはシコ・ブーシキと全く重なる点で、カンテ・ホンドのしぼりあげるようなヴォーカルもなく、超絶ギターラ・フラメンカのテクニックもなく、非ヒタノ人の分際でジプシー・キングスのフロントマンでありよくしゃべる。ブライアン・ジョーンズが初期ストーンズの顔だったように、シコ・ブーシキはジプシー・キングスの顔だった。なんで?と思う。
話は飛んで、この7月ラティーナに「サン・トロペの60年代の栄華と退廃」について記事を書いて、その関連でこのブログにも「プリティー・シングスとサン・トロペ」という記事を載せた。その舞台になったのがサン・トロペ半島の南側のビーチ、パンプロンヌの浜辺のクラブ・レストラン「レピ・プラージュ」で、60年開店のこのクラブの最初からの常連にブリジット・バルドーがいた。このクラブのスタッフのひとりで2年間(長い!)にわたってバルドーの恋人だったボブ・ザギュリーが制作したテレビ番組「ブリジット・バルドー・ショー」(1968年1月1日放映)に、バルドーが「ギターのピカソ」と絶賛したマニタス・デ・プラータがバルドー邸(サン・トロペ、ラ・マドラーグ)で彼女の目の前で弾くシーンがある。ブリジット・バルドーはカマルグのジタン音楽の有名人ファン第1号であり、マニタスのプロモーションに大きく貢献したのだが、10年後その甥っ子たち(+α)の楽団ロス・レイエス→ジプシー・キングスもバルドーのサン・トロペの宴には欠かせないものとなり、バルドーによって中央メディアの知るところとなったのだった(写真1978年、サン・トロペのバルドー&キングス)。
(リベ記事の一部)
1978年のある日、ギター商人から紹介された仕事でパンプロンヌのレストランの誕生日パーティーで演奏することになった。行ってみたらそれはバルドーのパーティーだった。パリジアン紙のインタヴューでシコ・ブーシキは「それは最高のパーティーだった。彼女は踊り、歌い、ジタン音楽を褒めちぎった」と語っている。次の日、彼女はバンドを自宅ラ・マドラーグに招き、ひとりのジャーナリストがそこで取材していた。バンドは彼女と一緒に写真に写り、そこから彼らの成功物語は始まった。「40年前、誰も俺たちのことを真に受けなかったのに、彼女は知り合いすべてに電話しまくり、このバンド最高よ、と喧伝したんだ」(シコ・ブーシキ、ラジオRMCでの発言)
閑話休題。今度のリベラシオンの記事で知ったシコ・ブーシキに関する意外な事実。モロッコ人の父とアルジェリア人の母の間に生まれたシコにはアハメドという名の兄がいた。アハメドはノルウェー人女性と結婚して(94年冬季五輪の町)リレハンメルに住み、レストラン給仕として働いていた。それが1972年のある日、身篭った妻の目の前でアハメドはイスラエルの秘密警察モサードによって殺害されてしまう。人違い! モサートはアハメドを、ミュンヘン・オリンピック人質事件の首謀者でパレスチナテロ組織「黒い9月」のリーダー、アリ・ハッサン・サラメと混同したのだった...。この事件に深く衝撃を受けたシコは、後年(有名になってから)ユネスコを通じて中東和平・イスラエル/パレスチナ紛争解決にコミットした活動を積極的に行うようになり、1994年にはノルウェーで開かれたオスロ合意の1周年記念式典において、シコ&ジプシーズはシモン・ペレスヤセル・アラファトの前で歌ったのであった。この平和活動を讃えられて、2016年シコ・ブーシキはフランソワ・オランド大統領からレジオン・ドヌール勲章を受けている(上写真)。
 リベ記事は皮肉を込めてバルドー、ペレス、アラファト、オランドに目をかけられるとはタダモノではない、と結論するのだが、 どんなものか。音楽的成果は「ジョビ・ジョバ」、「バンボレオ」、日本のテレビ主題歌、CM、「空耳」ネタにとどまっているのじゃないですか?

(↓)ジプシー・キングス 「ジョビ・ジョバ」(ライヴ1990年USA ツアー)



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