2019年7月25日木曜日

ヴィラ神楽坂から

ルネ・ド・セカティ『わが日本の歳月』
René de Ceccatty "Mes années japonaises"

めて読む著者である。ルネ・ド・セカティ(1952 - )は小説家(随筆家)・劇作家・翻訳家として非常に多くの著作がある(ウィキに列挙されているだけでも150点以上)。翻訳はイタリア語からの仏訳(ピエル・パオロ・パゾリーニ、アルベルト・モラヴィア等)と日本語からの仏訳(夏目漱石、大江健三郎、横溝正史、三島由紀夫等)であり、日本語翻訳の方はすべてNakamura Ryôji(この名前ネット検索では特定できない)との共訳ということになっている。
 Roman(小説)と言っていいのだろうか。本書はルネ・ド・セカティの自分史のほとんどすべてであり、その自分を形成した最重要な要素に「日本」があり、その関わりの(ほとんど)すべてを詳らかにした246ページである。日本愛などと定義できるものではない。日本との出会いが彼にとっての「第二の誕生」であったのだから。
 話者(ルネ・ド・セカッティ)は1977年9月に初めて日本の土を踏んでいる。成田空港が反対運動の激化で開港延期となり、羽田に着いてモノレールで都内に入っている。その時25歳。作家として初めて出版社と契約が取れた時期。職業的には北フランスで高校教師(哲学)をしていたが、兵役に代わる外国での教職活動として東京で2年間、かの九段の学校で教鞭を取ることになった。すでに東京のフランス村となっていた神楽坂界隈が彼のホームグラウンドになるのだが、その宿舎にあてられた「ヴィラ神楽坂」の窓に聞こえてくる石焼きイモ屋台の呼び声や、ちり紙交換軽トラックのアナウンス、よその学生寮のマージャンの音といったものに反応して快いカルチャーショックを。この40年前の衝撃の記憶を、話者はまめに保管しておいた母やその他の人々とやりとりした書簡をもとに再構築しようとする。ネットやE-メールなど遠い遠い未来だった頃のことである。ありがたき亡き母の証言、その残された書簡だけがこの自分史に客観的な視点を与えている。さもなければこの本は、意識的にも無意識的にも取捨選択された記憶断片の自身に都合のいい寄せ集めになっていたかもしれない。おまけにこの話者は前述のように非常に多作の(私小説的作品の)書き手であり、その時その時の恋愛関係で小説をぼんぼん書いてしまっている。だからこの作品の中でも、「だれだれとの関係のことはどれどれの小説で書いている」という断り書きが何箇所にも現れる。おいおい、これではこの著者の熱心な読者でない者にはとても読みづらい本ではないか、と思われる。大丈夫。それは全然重要なことではない。
 彼はゲイである。それを隠したことはない。しかしこの77年の日本渡航の前に、ルネはセシルという女性と恋仲になり、東京には「夫婦」として移住する。セシルも先進的な女性であり、闘士的な活動もする芸術家(画家)であり、おそらくこの男をゲイと知りながらも全く新しい男女関係という冒険に賭けていたのかもしれない。少なくとも一時的にはこの二人は熱愛するのだ。だがこの脆い関係はすぐに壊れ、セシルは東京でどんどん不幸になっていく。逆にセシルからの罵詈雑言泣き言を散々浴びせられながらも、ルネはどんどん東京と日本の魅力にとりつかれ、「第二の誕生」と言うべきメタモルフォーズを実現していく。日本に関して全くの素人だったわけではない。若くして作家・演劇人としてデビューしていた話者はその豊富な教養の中に日本は含まれていたし、渡航前には日本の近代/現代作家(漱石、芥川、三島...)の仏訳本を読み漁った。渡航後は苦労しながら日本語習得にもつとめ、週刊「ぴあ」で映画・コンサート・演劇などのイヴェントを探せるようにもなった。それから在東京のフランス人ゲイ・コミュニティーや日仏学院の男子学生たちとも深く交流するようになり、その世界の深部へとどんどん入っていく。こんなだからセシルはどんどんどんどん不幸になっていき、ルネの家族をはじめ友人たちにもルネの裏切り不貞を言いふらし、ルネに対して極端に攻撃的になっていく。地獄のようだったと表現したりもするが、実のところルネはセシルの不幸を頓着していないのだ。
 頻繁に恋に落ち(その度に小説に書いてしまう)、その果てにリョウジ(ナカムラ)という最重要のパートナーと出会うわけだが、この作品で奇妙なのは、このリョウジとの関係がどのようにパッショネートなものであったかを書き綴っている部分は一切ないのだ。話者が日本文学の奥の奥まで入っていく道先案内人となった、フランス語を完璧にあやつるこの長年の公私のパートナーに関して、書き方があまりに淡々としているのではないか。この二人は京都、鎌倉、金沢、七里ガ浜、尾道... その他日本の文学史跡を探訪し、ルネは日本(文学)を内在化できるほどに理解を深めていった。その結果、十数年に渡るリョウジと共同での日本文学のフランス語訳はウィキペディアに載っているものだけでも35点もある。大江健三郎、夏目漱石、谷崎潤一郎、三島由紀夫、安部公房、井上靖、河野多恵子、津島佑子...。その中には道元「正法眼蔵」というたいへんなものまで含まれている。この二人は1990年代には場所をブルゴーニュ地方の田舎家に移し、そこに十余年篭って日夜翻訳に没頭することになる。
 ルネ・ド・セカティには失礼だが、この共同翻訳というのは両者の割合がどの程度のものなのか疑問がある。ほとんどはリョウジ・ナカムラの仕事ではないか。全プロセスの最後のフランス語文として雅文化するところがセカティの主な役目ではないか。ファイナル・タッチ係、それはそれで重要で決定的な役割ではあるが。日本文学/文化への理解がどれほど深いかが決め手なのだから。だからこの「共訳」では二人の立場はフェアーではなく、主任と助手のようなヒエラルキーがあったのではないか。「日本文学狂」的な尋常ならぬ熱情で短期間でこの分野のエキスパートとなったルネとて、リョウジの既に蓄積された莫大な知識と情報なくしては、できることは限定されていたと思うのが自然である。いみじくも私は「フェアーではない」と数行前に書いたが、このフェアーでないことが二人の関係の限界だったと私は読む。そのことは本書には書かれていない。
 この話者は日本を愛し、日本で第二の誕生のような人生の大転換を果たしたが、日本人になろうとか、日本学を極めようとか、そういう意思は薄い。ただ凡百の「日本通(nipponophile)」や「日本専門家(japonologue) 」たちとは一線を画したい。このあたりの自分の立場、日本を深く理解し愛していてもあんたたちとは違うんだ、という個人的で親密な日本との関わりが強調されているから、この本は存在する価値があり、「極私的」日本愛と言ってもいい視点こそが本書の魅力なのだ。言い訳も躊躇もある。ただ、昭和期の神楽座を練り歩く石焼きイモ売り屋台の呼び声メロディーのように、いいものはいいのだ、という理屈なしの愛着は説得力を超えるものがある。
 21世紀の現在、日本通のフランス人たちはフランスにも日本にもゴマンといるし、私にしてみればマンガやアニメの領域でなくてもその種の若いフランス人たちには全く歯が立たないほどだ。情報量ということだけではなく、ものの理解・解釈においても。しかし私とほぼ同世代であるルネ・ド・セカティは、1970年代、どのような「予備知識」で日本を見ていたろう。この本でも話者にとって重要な影響となったとされているが、70年代フランスと日本の知識人たちの必読書となっていたのがロラン・バルトの日本論『表徴の帝国 (L'Empire des signes)』(1970年)であった。 バルトは1966年と69年、数度来日+滞在し、この日本論を書き上げたのだが、来日のきっかけは九段の日仏学院の招待であり、67年冬は学院の宿舎に滞在していた。10年後のルネ・ド・セカティと同じ神楽坂の風景を見、袋町の小径の雑踏に揉まれていたことだろうか。話者は先達バルトに敬意を払いつつも、今やその日本論のディテールについて訂正・批判できるものをたくさん手に入れてしまった(p201からp216でバルトに関する考察)。しかたない。しかしバルトよりも多くのものを発見し、日本理解を深めた自分は、それを肥やしにして「専門家」になることも望んでいないし、ましてリョウジなしには先には進めないだろう。1985年にセカッティーはフランスで聖フランシスコ・ザビエルの日本での行状を題材にした評伝小説"L'Extrémité du monde"を上梓する。これを手にしたリョウジはその中の「ザビエルは日本を発見した」という表現におおいに難色を示す。ザビエルの前に日本は存在していなかったような、覇権主義的で植民地主義的な表現だ、と。この辺の無意識に身についてしまったような西欧優越世界観を引きずっているということを身を持って知った話者は、ある種の微妙な事柄には「沈黙」(遠藤周作の作品も引き合いに出している)することを決意するのだが...。
 恋多き人であり、90年代にはエイズ死を身近に体験しながら、私小説を何編も書いてきた。パゾリーニや大江健三郎と親交してきたことは、その多作さにどう反映しているのだろうか。恋(と死)のことばかりで文学人を通せてきた稀有な人かもしれない。九段・神楽坂のフランス語文化圏で人生を変えてしまったフランス作家、今、日本は遠きにありて思うものなのだろう。

カストール爺の採点:★★★☆☆

René de Ceccaty "Mes années japonaises"
Mercure de France 刊  2019年4月 250ページ 18ユーロ 

(↓)ラジオRCJ(ユダヤ系コミュニティー放送局)の文学番組で、新刊『我が日本の歳月』について番組主キャロリーヌ・グットマンのインタヴューに答えるルネ・ド・セカティ。


(↓)2013年マルタン・プロヴォ監督映画『ヴィオレット - ある作家の肖像 - 』、このシナリオを手がけたのがルネ・ド・セカティ。



 

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