2013年3月3日日曜日

レコード店に行き、さまざまなことを知る

 2013年2月22日、フランス国営の音楽FM局FIPで"DITES 33"なるアナログレコード専門番組を初めて聞きました。この日のプログラムは、パリで「老舗」と言われている独立レコード店4店のボスに来てもらい、音楽業界全体の大不況やヴァージン・メガストアに代表される大型店の倒産閉鎖の危機をものともせず、「町の小さなレコード屋」として愛され続けている各店の苦労話や、その店が持っている一般には知られざる「ヴィンテージ盤」を番組で聞かせるというものでした。出席したのは、11区サン・セバスチアン通りの「ベティノズ・レコードショップ」(4店の中では最も新しく、1999年開店)のベティノ、11区フェデルブ通りの「ル・シランス・ド・ラ・リュー(Le Silence de la Rue)」のクリストフ・ウアリ、18区モンマルトルの「エグゾディスク」のラリー・ドベイ、そしてこの4店の中では私が最も親しくしている5区モンジュ広場近くの「パリ・ジャズ・コーナー」のアルノー・ブーベ。
 私はレコード・コレクターだったことがありません。今もレコード棚、CD棚は自宅のサロンや事務所の隅にあることはありますが、人に自慢できるものなど何もない。80年代から90年代にかけては、ずいぶんと買っていたけれど、もっぱらフナック・モンパルナス店とフナック・レ・アール店での買い物で、町のレコード店にはほとんど足を向けたことがありませんでした。
 アナログ・レコードは5〜6年前から勢いを取り戻し、フナックなどの大型市販店が音楽ソフト(特にCD)の売り場をどんどん縮小している状況の中で、パリではアナログ・レコード店が少しずつ増えていて、地下鉄の中でも「レコード袋」を手にした若者たちをよく目にするようになっています。レコード復興のシンボル的なイヴェントで、2007年にアメリカで始まった「レコードストア・デイ」は、フランスでも2011年から始まり、フレンチーで素敵な名前の「ディスケール・デイ」というイヴェントになり、2012年のディスケール・デイは全国で156店が参加するほとの規模になりました。冒頭で紹介した国営音楽FM局のFIPが、アナログレコード専門の番組"DITES 33"(毎週木曜日19時から21時の2時間)を開始したのが2012年9月のこと。このレコード・ルネッサンスは私たち「業界」の人間たちが騒いでいることだけではなく、一般音楽ファンにもたしかな現象として捉えられていると言えましょう。
 2月22日の番組は本当に面白く、クセのあるレコード店主たちがその音楽愛やその苦労話を語り、その店で展開される客たちとのヒューマンなコミュニケーションによって好きな音楽が分かち合える喜びがよく伝わってきました。私のよく知らないレコードショップの世界です。こんな人たちと話したいなあ、という気にさせてくれる幸せな2時間でした。で、本当に会いに行きたいなぁ、という気になったのです。今月の連載原稿は、このパリの人間臭いレコードショップの世界を紹介してみようか、と。

 2月28日、 ロック・シンガーのダニエル・ダルクが、11区の自宅で死体で発見された、というニュースが流れました。元タクシー・ガール。80年代のポストパンク/ニュー・ウェイヴのバンドでした。ストラングラーズのジャン=ジャック・バーネルが協力していたこともあって、当時はそれなりに注目されていたバンドで、トーキング・ヘッズの前座のステージでヴォーカリストのダニエル・ダルクが腕の静脈をカミソリで切ったという極端なパフォーマンスも話題になりました。86年にメンバーがオーヴァードーズで死んだのがきっかけでバンドは解散。ダルクはソロアーチストとして活動したことになっているけれど、第一線のシーンには出て来ない。2004年にシンガーソングライターのフレデリック・ローと二人三脚で作ったアルバム "Crêvecoeur"が6万枚を売り、再浮上、このカムバックはヴィクトワール賞 "新人賞”を獲得するという、奇妙な一幕もありましたが、それ以後は2枚のアルバム、そして次のアルバムも待望されている、というある種安定したアーチスト生活だったと言えます。
 しかし、私は11区のオーベルカンフ通りに事務所を持っているので、11区に住んでいるこのアーチストと数度すれ違ったことがあるのですが、朝だろうが昼だろうが、大声で怒りの言葉を独語しながら、定まらない目で歩道をおぼつかない足でふらふら歩いている姿を、ああ、この人はこの世界にいない人だ、という印象で見ていました。

 3月2日、私は件のレコードショップのルポルタージュ原稿のために、フェデルブ通りの「ル・シランス・ド・ラ・リュー」に行きました。店主クリストフ・ウアリ(上の写真は、ル・シランス・ド・ラ・リュー店内のウアリとダニエル・ダルク)とは会うのがこれが3度目でした。いろいろな話を聞いたあとで、ダニエル・ダルクの話題になりました。私はウアリがダルクの親しい友人だったことを知っていました。前述の「ディスケール・デイ」のプロモーションで、2012年ディスケール・ディ参画者の有力店のひとつ「ル・シランス・ド・ラ・リュー」がダニエル・ダルクをゲストにしたイヴェントを企画していたのも知っていました。そのヴィデオもYouTubeで見ることができます。
 ダニエルは木曜日に亡くなったのだけど、その3日前の月曜日にはその店「ル・シランス・ド・ラ・リュー」に来ていた。いつものようにダニエルはクリストフに「ビールをくれよ」とねだった 。クリストフはしばし店をダニエルにまかせて、近くのスーパーでビールを買ってきて、店の営業中にも関わらず、二人でレジ・カウンターでビールの杯を交わした。その時、ダニエルはクリストフに唐突に「俺がどうしてこんなにビールが好きになったのか」という話をし始めたのだ。つまり、自分がいかにしてアルコール中毒になったかということの次第を初めてクリストフに明かしたのです。クリストフは長い間ダニエルとダチだったけれど、いつも冗談ばかり飛ばしているダニエルがこんな神妙になったのは初めてだったと言います。
 ダニエル・ダルクは本名をダニエル・ロズームと言い、ロシアのボルシェヴィキ革命を逃れてフランスにたどり着いたロシア系ユダヤ人の子孫です。つまりセルジュ・ゲンズブールと似たルーツを持っているわけです。ことはダニエルの祖母が被ってしまった悲劇に由来するのです。1942年7月、ヴィシー政権とナチス・ドイツに導かれたフランスのゲシュタポはパリ圏で「ユダヤ人一斉検挙」を行います。その被検挙者数13152人(そのうち子供が4115人)がパリ15区にあった室内競輪場(Vélodrome d'hiver、直訳すると冬期競輪場、その略称が"Vél d'hiv" ヴェル・ディーヴ)に一時的に収容された(その後ドランシー駅からポーランドの収容所に送られガス室で果てることになる)ので、この事件は後世に「ヴェル・ディーヴの一斉検挙」 と呼ばれて記憶されることになります。ダニエルの祖母はこの時にゲシュタポに捕えられた。ダニエルの未来の父はこの時18歳だった。なんとか母親を救い出そうとした彼は、何杯も何杯もアルコールを飲んで度胸をつけて、パリのゲシュタポ本営に乗り込んで行った。「僕の母は何も悪いことをしていない。なのに逮捕されてどこかに収監されている。これは何かの間違いだから、母に会わせてくれ、母を釈放してくれ」と訴えた。この嘆願はフランスのゲシュタポの下っ端から上層部にまで伝わり、最後にはドイツ人のナチス士官にまで登っていった。ダニエルの父は、自分の勇気がもうすぐ結ばれる、その願いがもうちょっとで叶えられる、と感じていた。ついに会うことができたナチス士官は、ダイレクトなフランス語で彼に言った「おまえの母親のことは忘れろ。おまえの母親のためには誰も何もできない。それよりもおまえだ。私たちはおまえの母親のようにおまえを即刻捕えて収容所に送ることもできるんだ。おまえ自身のことを考えろ。ここから今すぐ走って逃げて行け。おまえのことは今から数分間だけ目をつぶることができる」。彼は痛恨の無念を覚えながらも、そこから走って逃げるしかなかった。その事件が彼を重度のアルコール中毒者にしてしまうのです。そしてそのDNAはその子ダニエルまで伝わってしまうのです。ダニエルは若くして、アルコール浸けドラッグ浸けになってしまい、それから抜け出すことは決してなかった。2月28日の死因も、アルコールと薬物の混合によるものとされています。その3日前に、クリストフ・ウアリはそんな話を聞かされているのです。

3月1日午後、私はパリ5区のパリ・ジャズ・コーナーに行って、店主アルノー・ブーベ(右写真。パリ・ジャズ・コーナー入口前のアルノー)に話を聞いています。彼は18 歳で南仏アルデッシュ地方からパリに出てきて、19歳でノートル・ダム寺院に近いセーヌ河岸で「ブキニスト」となって、古絵はがきや古雑誌を売っていました。それがブキニストの屋台を使ったジャズ・レコード・ショップになって、2年も経たずにパリ5区に店を構えるレコードショップに成長していきます。そんないろいろな話を聞いたあとで、パリ・ジャズ・コーナーにはどんなセレブリティーの顧客がいるか、という話になりました。ジャズ評論家やジャズ・ミュージシャンはもちろんのこと、小説家、大学教授、映画俳優など、驚くような名前がたくさん出てきました。
 その中で、アルノーは私たちにはあまり知られていないと思ったのでしょう、小さな声である女優の名前を言いました。ミレイユ・ペリエ。 ミレイユ・ペリエ? ミレイユ・ペリエ! 「ミレイユはジャズ・ファンで良く店に来るよ」という話から、私は驚くべきスクープを聞かされることになったのです。
 「ミレイユ・ペリエは私も大好きだよ。とりわけレオス・カラックスの『ボーイ・ミーツ・ガール』から強烈にファンになった」と私が言うと、「ああ、おまえ『ボーイ・ミーツ・ガール』を知ってるのか... 実は....」とすごいことを話し始めたのです。
 レオス・カラックスはレオス・カラックスになる前、アレックス・デュポンだった。アルノー・ブーベは未来の映画監督がアレックスだった時からの知り合いだった。そしてアレックスは「セーヌ川」のイメージをフィーチャーした映画を構想していた。それが未来の『ボーイ・ミーツ・ガール』だった。たしかに今思えば、『ボーイ・ミーツ・ガール』は天の川とセーヌ川がごっちゃになった映画で、彗星の接近で熱が上昇した地上で、少年が出会う前から愛してしまった少女と出会うストーリーでした。アレックスはその構想のさなかに、セーヌ川の河岸でブキニストをしている若者アルノー・ブーベと知り合いになります。アレックスは強烈なインスピレーションを受け、セーヌ河岸の「ボーイ」のイメージをアルノーの実像と重ねていきます。「俺、おまえを使って映画を作るよ」とアレックスはアルノーに主役をプロポーズします。
 映画の構想は決まった。"ガール"は当時アレックスと恋仲にあったミレイユ・ペリエと決まっていた。この構想とシナリオを持って、アレックスはフランス映画協会に行き、制作補助金を申請します。それがなければ制作に入れない。ところが待ち時間は長い。待てども待てども制作補助金は下りない。もうすぐだから待機しておけ、とアレックスはアルノーに言うのだが、どうせアテにならない話とアルノーは思っていた。やがて夏が来て、アルノーは貯まった金で長い間夢見ていたアフリカ大陸(セネガル)行きを挙行してしまうのです。携帯電話もe-メールもない時代、アルノーは全くフランスから連絡がつかない状態です。ところがこの1ヶ月の間に、フランス映画協会は新人監督「レオス・カラックス」に制作補助金を与えてしまうのです。そうでなくても少ない制作予算、映画は数週間で制作されなければならない。レオス・カラックスは連絡の取れないアルノーの起用をあきらめて、ダチの演劇俳優、ドニ・ラヴァンに主役をゆだね、 『ボーイ・ミーツ・ガール』 はアルノー抜きで制作され、完成するのです。
 「あれが俺だったら、今頃フランスの映画界は変わっていたかもしれないし、俺もこんなレコード屋なんかしていないかもしれない」とアルノーは豪快に笑いながら言うのでしたが、私はいつまでたっても「これ、本当の話なの?」という疑いは消えません。

 なにか、今回の取材は「濃い」ものがあります。 3月4日にエグゾ・ディスクのラリー・ドベイに取材しますが、またすごい話が出て来るのではないか、とちょっと怖いです。

(↓「ディケール・デイ」のPRのためのクリストフ・ウアリ&ダニエル・ダルク出演のヴィデオ)


(↓1984年公開のレオス・カラックス初長編映画『ボーイ・ミーツ・ガール』予告編)

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