2021年5月4日火曜日

羚羊はどこへ行った - リズィー・メルシエ・デクルー頌

(2021年5月4日記)

「2019年ノスタルジー」がとても強い私である。コロナ禍のなかった時代というのはついこの間のことではなく、遠いかなたのことに思える。そしてたぶんあの頃の世界には二度と戻れない。コロナ・パンデミックのなかった春というのは今から2年前を振り返るしかない。あの2019年5月、私の記録するところでは私は3本の雑誌原稿を書き、2件のブログ記事を上げ、4本の映画を観て、5本のCDを買い、病院に3回通い、娘の運転で遠出を2回(ドーヴィル、シャルトル)していて、ハードディスクには84枚の写真を残している。こんなにたくさんのことがたったひと月(美しい5月)でできていたのだ。夢のようではないか。リズィー・メルシエ・デクルーの原稿のことは(とても苦労したので)よく覚えている。1週間ほどで書いたが、参考にしたシモン・クレール著『リズィー・メルシエ・デクルー/金環食』(2019年3月刊)のおかげで知り得たリズィーの生涯のほぼ全容はめまいがするほど衝撃の連続だった。その生きざまを詩人アルチュール・ランボーに重ねたのは私だ。この記事をここに再録しながら(はるか昔のような)当時の興奮を懐かしむ、これが私の「2019年ノスタルジー」である。

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この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2019年6月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

ランボーのように生き果てた女
リズィー・メルシエ・デクルーの軌跡


(In ラティーナ誌2019年6月号)


 

  20151020日(バタクラン・テロ襲撃事件の3週間前)、パリ、オランピア劇場のステージでパティ・スミスは沈痛な面持ちで目を潤ませながら「エレジー」(1975年彼女のファーストアルバム『ホーセズ』の最終曲)を歌い、葬送曲のようなピアノコードに乗せて「私たちの友人たちが今日ここにいないことが本当に悲しい」と語り、ゆっくりとそれらの名を読み上げていき、観衆はそのひとつひとつにオマージュの拍手喝采を捧げていった : ジェームス・マーシャル・ヘンドリックス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリン、ブライアン・ジョーンズ、ジョー・ストラマー、カート・コバーン、リズィー・メルシエ・デクルー。この最後の名が告げられた時、喝采は止み、重い沈黙が流れた。
 

 これはシモン・クレールによる評伝『リズィー・メルシエ・デクルー/金環食』(20193月プレイリスト・ソサイアティー刊)の序章(p17)に書かれた一部を抄訳したものである。その中にあるオランピアに流れた沈黙というのは、今やフランスでもリズィー・メルシエ・デクルーというフランス女性アーチストはほとんど記憶されていないということ、そしてこの彗星のように夭折したロックヒーローたちと同列とは誰も思っていないということ。だがパティ・シミスはこのフランスの親しかった友のことを忘れはしない。二人を結びつけたもの、それは19世紀の少年詩人アルチュール・ランボー(1854-1891)であった。20173月、パティ・スミスはその倉の中で少年ランボーが詩作をしていたと言われる北フランス・アルデンヌ地方の農家を買い取るほどのランボー崇拝者として知られる。(↓写真:パティー・スミスとリズィー 1976年)
 1975
年暮れ、パリ・レアールのレコード&雑貨ショップ「ハリー・カヴァー」で成功した金を元手に、ミッシェル・エステバンとリズィー・メルシエ・デクルーのカップルはニューヨークに移住し、ラモーンズ、テレヴィジョン、スーサイドなどNY初期パンクシーンの牙城になりつつあったクラブCBGBにも近い、ラファイエット通りに320平米のロフトを借り、その保証人として名を貸したエステバンの友人パティ・スミスがこのロフトをシェアする。すぐさま19歳リズィーと29歳パティはランボー詩と錬金術について語り合い、惹かれ合い、魅せられ合った。

 少年の面影もあったこの英語の下手なフランス娘は、ぼうぼうで木の葉が絡んでいるかのような野生的な髪を銀色に染め、スリムな皮パンツにアイロン糊の効いた男もののシャツを着て、NYローワー・イーストサイドのアーチストたちのミューズになっていく。パティ、リディア・ランチら女友だちだけではない。多くの男たちもリズィーに惹かれていった。その中で激しく恋仲になったのが『ブランク・ジェネレーション』(1977)のロッカー、リチャード・ヘルだった。二人が一緒に仲睦まじく写っている映像はNY初期パンクのドキュメンタリー映画『ザ・ブランク・ジェネレーション』(1976年、エイモス・ポー監督)で見ることができる。ランボーとジャン・ジュネの信奉者だったヘルは詩集や小説も多く発表するのだが、1999年発表の自伝的フィクション小説『とかげの目』の中でリズィーをモデルとしたフランス女性クリッサとの関係はこう描かれる。

「二人は一緒に本を読み、詩を作り、デッサンを描いた。ある夜二人はお互いに小便をかけあった。すべてのシーンは固定カメラショットのスローモーションのようだった。それはまさに画面に雨の降る白黒映画だった。この世の欲せられうるすべてのものは僕たち二人を結びつけたごく細密な繊維の中に凝縮していたし、二人はそれをボロボロになるまで使い切った。」
 この激しく短かったヘルの恋の残り火は、実はリズィーの最晩年まで燃え続けていたということは後で述べる。

 1956
12月、リズィー・メルシエ・デクルーは、身元不詳の父親(リズィーの晩年に関係を回復する)と愛情の乏しい母親の間にパリで生まれ、レ・アール地区に住む叔母の夫婦に預けられた。ルノー工場で働く夫ロジェと叔母モーリセットの間に子供がなかったので、実の子のように育てられるが、40平米しかないそのアパルトマンには浴室がなく台所で体を洗うような暮らしぶりだった。1960年フランス政府は「パリの胃袋」と言われたレ・アール市場を9年計画で南郊ランジスに移動する大工事を開始し、レ・アールは巨大なクレーター状の空洞と化していく。工事の騒音と行き交うトラックの間で少女時代を過ごしたリズィーは、詩と絵(ボザール校の夜学でデッサンを学んでいた)と音楽に夢中でリセには退屈しきっていた。レ・アールのティーンネイジャーたちはロックの流行に敏感で、町には古着屋やストリート・ファッションの店も軒を並べていた。1972年、マルク・ゼルマティ200811月号本連載「パンクの祖マルク・ゼルマティに聞く」参照)がレコードショップ「オープン・マーケット」開店、英米のインディー輸入盤でパリ中のロックフリークたちで賑わうようになる。それと競うように1973年、ミッシェル・エステバンが「ハリー・カヴァー」を開店、こちらはレコードもさることながらグッズ(Tシャツ、バッジ、アクセサリー
)で若者たちの人気をさらった。このレ・アールの2つのショップは互いに反目し合いながら、パリの初期パンク/ニュー・ウェイブ・シーンの温床となって、どちらの地下倉庫もロックバンドの練習場となって近所の苦情は絶えなかった。そんな町の中でリズィーは風変わりなファッションの野生的な少女として目立っていた。リズィーの住むアパルトマンの向かいに住んでいたエステバンは、長い期間この少女を観察していたが、ついに74年のある日少女に「うちの店で働いてみないか」と声をかける。二人の長年の共同作業はここから始まるのだが、美大出のショップ店主エステバンは既にその界隈のドンのような25歳、一方リズィーは17歳。ここから彼女は「ハリー・カヴァー」の運営(特にファッショングッズ)に関わり、店の発行するロックファンジンの編集者/ライターとしてアメリカのパンクシーンの紹介したりして、しだいに彼女自身もレ・アールの「顔」になっていった。

 何度も渡米してアメリカのシーンに詳しかったエステバンは、ニューヨーク特集のためにひとりで現地長期滞在を計画していたが、出発2ヶ月前にリズィーの妊娠が発覚。18歳だった彼女は中絶を決意。エステバンはその状態で若い愛人をパリに残すのはしのびないと、手術後に二人で渡米するよう計画を変更した。時は1975年暮れ。

 ここからリズィーはニューヨークでパティ・スミス、リディア・ランチ、リチャード・ヘル、ジャン=ミッシェル・バスキア等との出会いを通じて、いわゆる「ノー・ウェイヴ」と呼ばれるアンダーグラウンド・シーンのど真ん中に位置するようになる。音楽的にはフリー/ノイジー/アヴァンなDNA(アート・リンゼイ)、ジェームス・チャンス、リディア・ランチなどのポストパンクを括る呼称だが、商業的な「ニュー・ウェイヴ」に対するアンチとして全くもって非商業的な性格を称して「ノー・ウェイヴ」と呼ばれたと言われる。リズィーはまずパティ・スミスとリチャード・ヘルの後押しを得て、詩+写真+デッサンで構成された本『デジデラタ』(1977)を発表するが、それに飽き足らず勢いで買ってしまったギター(フェンダー・ジャズマスターモデル)の虜になり自己流で弾いていくうちに斬新なアイデアが音になっていった。遅れてニューヨーク入りしたディディエ・エステバン(ミッシェルの弟、ギタリスト)とデュオを組み、絡み合う二台のノイジーギター、プリミティヴなパーカッション、そしてリズィーの呪文・擬音・短詩・呻きのヴォカリーズが介入するアヴァンな音楽が生まれ、1978年アート・ギャラリー「ザ・キッチン」で初ギグが行われた。同年7月このカオス的バンドはスタジオ入りし、1分程度の曲を6曲録音し、EP化した。このバンドは虐殺された女性革命家ローザ・ルクセンブルクと、詩人ランボーゆかりのアフリカの地イエメンを合わせて「ローザ・イエメン」と名乗った。この誰も買うわけのないEPレコードをレーベル創立第一作としてリリースしたのがZEレコーズだったのである。

  イラク系英人富豪実業家のマイケル・ズィカ(Zikha)とミッシェル・エステバン(Esteban)の二人によってニューヨークで設立され、二人の頭文字
ZEを合わせてZEレコーズと名付けられたこの独立レーベルは、非商業生を標榜しながらもスーサイド(アラン・ヴェガ)、キッド・クレオール&ザ・ココナッツ、ジェームス・チャンス、ウォズ(ノット・ウォズ)などで成功し、当時のインディーシーンで最も注目されるレーベルとなっていく。誰も気を止めなかった第一作ローザ・イエメンに続いて、1979年リズィー・メルシエ・デクルー名義のファーストアルバム『プレス・カラー』が制作され、ミュータント・ディスコ(ZE周辺のノーウェイヴ寄りディスコ作品群)の典型例とされる「ファイアー」(アーサー・ブラウン68年ヒット曲のカヴァー)を含み、今日までリズィーで最も評価の高いアルバムとなっているが、当時はほとんど売れていない。その印象的なアルバムジャケットの横顔は、エステバンの発案で長かった髪をハサミで野生的に切り落とし、ランボーを思わせる散切り頭の少年風貌(ヌード)を、ホテルの部屋の白壁にスライド映写機の明かりで照らして陰影を強調した白黒写真。23歳。リズィーの最も世に知られたポートレイトである。

 最初の恋人だったミッシェル・エステバンが目の前で次から次へ恋人を変えていくリズィーを見ながらも、彼女の制作のバックアップを惜しまなかったのは、出会った時から少女の潜在的才能を確信していたからであり、遅かれ早かれ世界的に認知されるアーチストになると疑わなかったからだ。順風満帆だったZEレコーズは、1980年、カリブ海ナッソー(バハマ)のコンパス・ポイント・スタジオ(アイランド・レコーズ社主クリス・ブラックウェルが77年に建設した当時最もハイプな録音スタジオ)にリズィーを送り込み、アフリカとカリブのビート音楽を取り込んだ前衛的ワールド・ファンキーなアルバム『マンボ・ナッソー』(ベナン出身のウォーリー・バダルーがプロデュース)を制作させた。
 後年「すべてにおいて早すぎた」と評される彼女の音楽であるが、ほとんど無視されたリズィーの2枚のアルバムの後、ZEレコーズはズィカとエステバンの分裂により活動休止を余儀なくされる。1983年エステバンは(数少ないリズィーの音楽の理解者)仏CBS社長アラン・レヴィに助けを求め、南アフリカのミュージシャンたちと共同でアルバムを作りたいというリズィーの企画を通させる。歴史的にはポール・サイモンのアルバム『グレイスランド』(1986)の3年前、アパルトヘイト撤廃(1994年)の9年前、ガチガチの人種差別政策下のヨハネスブルグの象徴的黒人居住区ソウェトで西欧白人女性ミュージシャンが現地黒人ミュージシャンたちと一緒に録音スタジオに入ることなど全く考えられなかった時代である。そのアフリカ行きを、リズィーは崇拝する詩人ランボーと同じルート(エジプトからナイル川に沿い、アスワン、スーダン、エチオピアに至る)を経由して20日かけて南下するという冒険の資金までCBSレコードに負担させたのである。その投資の甲斐あり、ズールー・ジャイヴとムバカンガとリズィーの歌唱(初めて彼女がメロディーを歌った!)の見事なミクスチャーアルバム『リズィー・メルシエ・デクルー』(別称『ズールー・ロック』)は、リズィー初のヒットアルバムとなり、シングル
Mais où sont passées les gazelles?”(羚羊はどこへ行った?)チャート上位に昇った。

 悲劇はここからで、このCBSのアルバムの曲目作者クレジットがかなり曖昧であり、南アフリカ既存楽曲にリズィーが詞をつけたものも彼女が作者ととられる表記だったため、音楽メディアはこれを「盗作」や「第三世界音楽の文化収奪」であると一斉に攻撃したのである。当時のワールドミュージックの中心的推進者だったラジオ・ノヴァは、かのヒットシングルはマハラティーニとマホテラ・クイーンズの歌「Kazet(カゼット)」とそっくりである(元歌が同じなので当然なのだが)とリズィー盗作キャンペーンを張った。リズィーの一時的な栄光はたちまちにして「盗作者」「文化収奪者」汚名に転落し、これはその後もずっとついて回るのである。

 早すぎたワールドビートのパイオニア、リズィー・メルシエ・デクルーは1986年ブラジル録音の『ワン・フォー・ザ・ソウル』(ほとんど演奏になっていないチェット・ベイカーと共演)、1988年にロンドン録音の『サスペンス』(NY時代の友人マーズのマーク・カニンガム制作)と2枚のアルバムを発表するが、途中で長年の盟友ミッシェル・エステバンにもサジを投げられ、音楽シーンから姿を消していく。(↓リズィーとチェット・ベイカー「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」1986年)
 
  一般に知られることのなかったその後の隠遁生活に関しては前掲のシモン・クレール著の評伝本によって明らかにされ、自動車も免許もない状態で中央フランスの人里離れた寒村に籠り、無一文で絵画制作と庭園造りにいそしんでいたことや、グアドループ島で妻子ある男の隠れ愛人としてロビンソン・クルーソーのような生活をしていたことがわかった。

 2003
年、パリで直腸ガンと診断されながらあらゆる治療を拒み衰弱していき、パリ14区の病室で夢を見ていた。その夢とは終生の場所としてコルシカ島の海辺の町サン・フロランで生き絶えること。この最晩年のリズィーの前に最初期のNYの恋人リチャード・ヘルが現れ、私財を売った金5000ドルをリズィーに差し出し、コルシカ行きの夢を叶えてやるのである。47歳、2004420日午前5時、サン・フロランでリズィーは息絶える。故人の遺志で、その遺体は113年前にランボーが灰にされたのと同じマルセイユの火葬場で焼かれ、遺灰はコルシカの海に撒かれた。私はこう思う:19世紀の彗星詩人アルチュール・ランボーは20世紀に女に生まれ変わり、同じように夢破れ、人知れず21
世紀の夜明けに死んでいった、その名はリズィー・メルシエ・デクルー。

(ラティーナ誌2019年6月号 - 向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓リズィー・メルシエ・デクルー「ハード・ボイルド・ベイブ」from アルバム『プレス・カラー』1979年)


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