2020年6月15日月曜日

ロックよ永遠に - 追悼マルク・ゼルマティ

 

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2008年11月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

 

2020年6月12日から13日の夜半、パンク・ロック開祖者にして音楽プロデューサーのマルク・ゼルマティが心不全で他界した。75歳だった。90年代から2000年代、私がYTTという会社を運営していた頃、よくきつい口調で説教された恩人である。その思い出として、この記事を再録します。安らかに。合掌。




伝説の"オープン・マーケット"
パンクの祖マルク・ゼルマティに聞く
(in ラティーナ誌2008年11月号)


 1972年、パリ1区。かつてエミール・ゾラが小説『パリの胃袋』(1873年)に描いた巨大な中央市場レ・アールはその3年前1969年に南郊外ランジスに引越し、その跡にぽっかり空いた穴は都市再開発工事現場に変わってしまった。公園、地下ショッピング街フォローム、美術館ジョルジュ・ポンピドゥー・センターなどができるのは1977年以降のことである。昼から街娼たちが舗道の上に立ち並び、セックスショップが軒を連ねるサン・ドニ通り、精肉問屋や生地問屋や縫製工房などがかたまってある、およそファッションやカルチャーとは無縁であったこの地区に、マルク・ゼルマティはフランスで最初のアンダーグラウンドショップを開店した。その名は「オープン・マーケット」。
 1972年のフランスは日本と似ている。かの1968年5月革命が鎮静化し、運動に固執して続けるグループは極左化して地下に潜り、それに反してしらけた若者たちは急速に政治から離れたが、68年から衰えることなく「性の解放」だけは広く一般化し、この部分でのカトリック的旧モラルはやっと崩れたのである。ケルーアックやバロウズを読み、米西海岸のサイケデリック・ロックを聴き、(過度に政治化しない程度に)ベトナム戦争に反対し、ヒッピー風俗を生活様式に取り入れ、なにを置いてもとにかくたくさんセックスをした時代である。
 ゼルマティのオープン・マーケットはその名の通り最初はただのオープンスペースで、蚤の市のような陳列台を並べた複数の店子が、レコード(主に輸入ブートレグ盤)、インド産の衣類やアクセサリー、Tシャツ、ポスター、ファンジン、地下出版物などを売っていたのだが、パリで唯一のアンダーグラウンド/カウンターカルチャーショップとして知られるようになるや、他の店子を追い出してゼルマティだけの店になる。コアなヒッピー・グッズ、シチュアショニスト系の発禁ポスター、そしてレコードはニューヨーク・ドールズ、ラモーンズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、イギー・ポップ&ストゥージズ、MC5などであった。これらのバンド名はその当時の欧州では全く知られていなかった。
 ゼルマティは1972年に独立レーベル「スカイドッグ」も発足させている。既に二人とも故人であったジミ・ヘンドリックスとジム・モリソンのジャムセッションアルバム『スカイ・ハイ』を皮切りに、フレーミング・グルーヴィーズのミニLP『グリース』、キム・フォーリー、MC5などに続いて、1976年にはイギー・ポップとストゥージズ『メタリック・KO』を世に出して10万枚を売った。それと並行して1974年に独立レコード配給会社ビザール・レコーズを設立、既存の大手配給会社にはビジネスが難しいと見なされたガレージロック系のレコードを一手に引き受け、ロンドン、アムステルダム、パリ、バルセロナをつなぐ欧州のロック・シンジケートを築いていく。
 さらにプロモーターとして、ニューヨーク・ドールズ、ドクター・フィールグッド、ダックス・デラックスなどを世界規模でツアーさせ、オーガナイザーとして1976年と77年南西フランスのモン・ド・マルサンで「フレンチ・パンクロック・フェスティヴァル」(76年はザ・ダムド、エディー&ザ・ホットロッズなどをメインにして600〜700人の観客動員であったが、77年はザ・クラッシュ、ザ・ポリスなどを加えて集客は4000人を超えている)を成功させた。
 これがマルク・ゼルマティを伝説の人にした72年から77年にかけての仕事である。そしてレ・アールの店オープン・マーケットは、奇しくも後の世が「パンク元年」と呼んだ1977年に閉店している。
 私がマルクを知ったのは90年代初めの頃で、彼のレーベルであるスカイドッグと時々仕事するようになったためであるが、その強烈な口の悪さのため、最初私は本当に苦手だった。一度ならず「おまえはロックを全くわかっていない」とこき下ろされた。また世相の話になると「俺はフランスに絶望している」、「フランスの滅亡は近い」という苦言が繰り返される。「日本人のおまえが何を好き好んでこんなフランスに住んでいるのか」と不思議がられた。 80年代からプロモーターとして何度も日本に行っていて、ギター・ウルフやミッシェル・ガン・エレファントなどの日本のバンドをヨーロッパでツアーさせていた彼は、無条件の日本贔屓ではないが、日本を良く知り、日本に人脈もあり、日本をリスペクトしている。最低の国フランスに比べたら、日本の方がなんぼ良かろうというようなことも言う。その理由は、今回マルクに二度のインタヴュー(のべ4時間)で語ってもらって、だいぶ明白になってきた。

  マルク・ゼルマティは1945年、まだフランス領であった頃のアルジェリアのアルジェで生まれている。父母ともフランス人だが、父親はユダヤ教徒の医師で、母親はカトリック信者だった。いわゆる"ピエ・ノワール"(フランス人の北アフリカ入植者)の子である。ゼルマティ家は元々はスペインのユダヤ人富豪で、1492年スペインのユダヤ人追放令の時にヨーロッパ諸国に離散したセフェラード(追放ユダヤ人)のうちフランスにたどり着いた家系がマルクの直接の先祖だという。代々富豪の家柄で、芸術全般に通じて美術品の蒐集も豊富にあった。そのDNAがマルクを最初の職業=画商につかせることになるのだが、若くしてマックス・エルンストと深い交流があり、シュールレアリスム作品の売買でかなりの成功を収める。「俺は金には興味がない」と彼は何度も繰り返して言った。金のために仕事するというのは、彼のような大富豪血筋では恥ずべきことなのだ、と。実際彼は大金を得たのち大金を失うということを繰り返しているが、金には執着していない。金のことを先に言う人間を軽蔑する、とも言った。
 アルジェリア独立戦争ですべてを失い、1962年にゼルマティ家はフランスに逃れてきて、おまけに両親は離婚。父親はニースで開業医としてやり直し、マルクはパリ圏に移り住んだ母親のもとで暮らす。しばらくして画商として自活するのだが、その頃パリで「ドラッグストア族(La bande du Drugstore)」 と呼ばれる若者の一団が、シャンゼリゼ大通りに開店した24時間営業のマルチストア(薬品、食品、書籍、レコード、カフェ、レストラン...)のドラッグストアにたむろしていて、スタイリッシュなゼルマティはその重要メンバーのひとりになる。これは主にパリ16区や7区の金持ちの子女たちで、最新流行のファッションをオーダーメイドで調達でき、フランスのラジオでは追いつけない最新の音楽(英国のモッズ系ロックと米スタックス系のリズム&ブルース)を輸入盤で聴き、性解放時代に先んじてフリーセックスに興じ、それまで先進的と言われていたパリ左岸派(サン・ジェルマン・デ・プレ、実存主義、ビバップ・ジャズ...)とは全く異種の高級不良集団であった。
 マルクはこの不良たちにおけるセックスという点を強調する。この60年代前半(68年5月革命はまだ遠い)、多くの国においてそうだったようにフランスでも性はまだまだタブーで、カトリック的道徳観が支配的だった土壌で、金持ちと言えども少年たちはセックスに対して怖気づいていた。ところが金持ちの娘たちはそうではない。ドラッグストア族はパリブルジョワの娘たちと、"非フランス純血”男子(ピエ・ノワールの子、東欧没落貴族の子孫、アフリカ新興国指導者の子...)たちが中核メンバーになっていく。フランス良家の男子たちはそういうわけにはいかないが、例えばアルジェリアで育った俺たちはみんな13歳ぐらいから性体験があって性に長けている、それが重要なのだ、と言うのである。
 なお、2002年にこのパリ60年代の先端高級不良の一団を描いた映画『La Bande Du Drugstore(日本公開題『好きと言えるまでの恋愛猶予』) が作られたが、内容は実在したドラッグストア族とはかけ離れているので、参考にはしないように。
 ゼルマティはその後テーラード・スーツを脱ぎ捨て、髪を伸ばして髭をたくわえ、ヒッピー・ムーヴメントに身を投じている。エスタブリッシュメントと物質社会を否定し、精神の解放を説くカウンター・カルチャーをいち早くフランスに持ち込んだ彼は、アメリカのこのムーヴメントの先駆者たちと同じように自らLSD体験を繰り返した。この幻覚剤やほかの薬物の常用がのちのち二度の刑務所入りという苦い体験をもたらすのだが、彼はその精神的および芸術的効果においてこれらの薬物が果たした革命的な役割を全的に肯定している。後年に彼は「パンク・シチュアショニスト」と自称したことがあるのだが、シチュアショニスムとの関連についてマルクは
俺はギイ・ドボールとは一度も会ったことはない。だが俺たちの生き方がシチュアショニストたちと似ているとはよく言われた。彼らと俺たちの違いがあるとすれば、彼らはアルコールによる酩酊を用いて "無為の時間なしに生きることそして制約なしに快楽を得ること"(66年シチュアショニストの政治ビラの結語)を実現しようとし、俺たちは同じ目的でドラッグを使用したということさ。
と言った。
オープン・マーケットを開店する以前にマルクはイヴ・アドリアンと邂逅している。まだ十代だったアドリアンは、既にスキゾフレニア(統合失調症)的傾向があったが、ゼルマティの探してくるアンダーグラウンドなロック音楽に魅了され、すぐさま固い師弟(兄弟)関係が出来上がる。二人は同居して薬物体験を共有する。オープン・マーケットの店ではアドリアンが時々売り子として立った。当時のニューヨークの粗暴で電気衝撃みなぎるロックシーン(ニューヨーク・ドールズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ストゥージズ、ラモーンズ...)に心酔していたアドリアンは、既にファンジン「パラプリュイ」でその鋭利な叙情を閃光のような筆致で描くライターとして注目されていたが、メジャーロック誌 ”ロック&フォーク”の1973年1月号に歴史的なマニフェスト「僕は電気のロックを歌う(Je chante le rock éléctrique)」を発表する。
パンク、それは電気的オーガズムであり、ダーティな悟りである。
PUNK, c'est l'orgasme éléctrique, le satori dirty.
セックス・ピストルズのデビューの5年前にパンクロック宣言をしてしまったのである。予言的で霊感的でダンディーでスノッブな文体は、全く新しいロック・クリティックの誕生と評価された。アドリアンはロックからパンク、パンクからアフターパンク(1978年ノヴォヴィジョン)へと、そのパースペクティブを展開していき、詩とも小説とも読まれるスタイリッシュで閃きに満ちたそのエクリチュールをゼルマティは「アントナン・アルトーの再来」と褒めちぎっている。
 アドリアンと同じ時期に登場したもうひとりのロック・クリティックがアラン・パカディス(1949 - 1986)で、ギリシャ人移民の子で若くして両親を失い、ゲイ解放運動団体を経てアンダーグラウンド界に出入りし、1973年にオープン・マーケットでアドリアンとゼルバティに出会っている。当時のパカディスから見れば二人は師匠的先達だった。パカディスは1975年11月からリベラシオン紙で連載「ホワイト・フラッシュ」を開始し、情緒の欠落した文体でアヴァンギャルド・ロックシーンやナイトクラビングについて日記風に綴っていたが、その文中に決まり文句のように「今日オープン・マーケットで見たんだが」というフレーズを入れていた。
 ゼルマティ+アドリアン+パカディスのトリオは完璧に機能し、パンク革命は「ゼルマティがバンドを発見し、アドリアンが理論化し、パカディスが世俗化する」(批評ウェブジン Fluctuat,netの評)というプロセスで進行していった。
 世界で最も品数が少なく、世界で最も良質なレコードショップであったオープン・マーケットには、ストゥージズやフレーミン・グルーヴィーズの他はレコード陳列ケースがほとんど空っぽで、事情を知らずに入ってきた客があれもないのかこれもないのかとケチをつけると、マルクから罵声が飛び、殴り合いの喧嘩になることも少なくなかった。また金を持っていない若者が一日中店内でとぐろを巻いていてもマルクは放っておいた。近所にネオナチ極右結社「オルドル・ヌーヴォー(新秩序)」の事務所があったため、店に来るロック好きの若者たちと極右党員たちとの衝突がしょっちゅうあり、乱闘が店の中まで拡散してくることもあった。店のレジカウンター奥には野球バットが常備してあった。ロックレコードショップは喧嘩にも強くなければやっていけない時代だった。
 その客と品揃えと音楽傾向が通常のレコード店とはかなり異なっていたがゆえに、オープン・マーケットはパリ随一のアンダーグラウンド・ブティックとして噂が広がり、ニューヨーク、ロンドン、アムステルダムなどからも定期的に来訪者があった。その常連のひとりにマルコム・マクラーレン(1946 - 2010)もいて、口の悪い連中はマクラーレンがレ・アールをコピーすることでロンドンにパンク・ムーヴメントが始まったと言ったりするが、ゼルマティはそうは思っていない。マルクは誰が始めたかということで議論することには興味がないと言う。しかしマクラーレンが音楽出身ではなくファッションの人間だったということが、ロンドンでのマーケティング絡みのパンクブームの成功の原因であり、逆にニューヨーク・ドールズを紅衛兵ファッションでつぶしてしまった原因でもある、とマルクは分析する。端的に言えば、やつはロックを知らなかった、ということだ、と。
 レ・アール発行のファンジン「ロック・ニュース」(ミッシェル・エステバンとリズィー・メルシエ・デクルー編集のミニコミ)では1976年春の号の表紙がセックス・ピストルズだったが、ピストルズのデビューシングルがリリースされたのはその6ヶ月後のことだった。

1976年夏、ゼルマティは南西フランスのモン・ド・マルサンの円形闘技場で第1回パンク・フェスティヴァルを開くが、そのために彼はセックス・ピストルズと出演交渉をしている。表向きはバンド側が出演を拒否したことになっているが、実際にはゼルマティがこのバンドの状態を見て、とても数曲を演奏できるような技量には至っていないと判断したからだ。セックス・ピストルズをもってパンク革命の始まりとすることが是か否かは議論の価値がない。金儲けのためにパンクを利用しようとする連中だけがそんな議論を煽っているにすぎないから。
 1977年、第2回めのモン・ド・マルサンパンク・フェスティヴァルは数千人を集客する盛況となるが、 その成功にも関わらずゼルマティは破産状態に陥る。モン・ド・マルサンの現地協賛者が入場チケットを偽造して、売上金の大半を持ち去ったせいだと言う。その影響でオープン・マーケットも店じまいしてしまう。
 レ・アールはその1977年に現代美術の巨大モニュメントたるポンピドゥー・センターが開館し、コンテンポラリー・アートが似合う街に変貌し、ストリートファッションのブティックも多く軒を並べ、以前のような庶民的な猥雑さは影をひそめていった。マクラーレンとピストルズでロンドン発のパンクが世界の注目を集めていくが、それはマルクにとってはどうでもいいことだ。俺は金儲けのためにオープン・マーケットやパンク・フェスティヴァルを開いたわけではない。金には興味がない。俺はロックという叛逆の音楽の普遍性を信じているからこの仕事をしている。1972年から77年、ロックの最前衛を求めて、世界中のファンたちがパリの俺の店めがけてやってきたんだ。日本からもね。だが、そのあとを見てみろよ、パリがアンダーグラウンド・カルチャーの中心だったことなど、1977年以降一度もないんだ。
フランスでは6ヶ月に一度「ロックは死んだ」とメディアが言うんだ。半年ごとにロックは何度も何度も死んでいる。これはフランスだけの現象のようだ。ところがどうだい、この2、3年、ロックは大挙して復活してしまっているではないか、音楽においてもファッションにおいても。
伝説のオープン・マーケットを記録する写真は一枚も残っていない。私はマルクにしつこく確認したが、彼の友人関係を探しても誰も写真を撮っていないのだった。その店は実際に見た人の記憶の中にしか残っていない。伝説が伝説を生むゆえんである。
 伝説のオープン・マーケットをもう一度。マルク・ゼルマティはこの12月から1ヶ月にわたってパリのモンマルトル地区のギャラリーを使って、オープン・マーケット時代に売っていたオリジナルポスターやグッズなどのエクスポジションを開催する。題して「ロック・イズ・マイ・ライフ!」。マルク・ゼルマティは死ぬまでロックするはずである。

                      2008年9月、向風三郎

(↓)2008年12月、エキジビジョン「ロック・イズ・マイ・ライフ」の展示物を解説するマルク・ゼルマティ。


(↓)1976 & 1977 モン・ド・マルサンのパンク・フェスティヴァルの回顧ルポルタージュ(2018年 ARTE。残念ながらゼルマティの姿も名前もない)

 
 

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