2008年6月5日木曜日

壁の中で何が起こっているのか



 フランソワ・ベゴドー『壁の中で』
FRANCOIS BEGAUDEAU "Entre les murs"


 新刊ではありません。2006年発表の小説で,この作品を映画化したローラン・カンテ監督映画『Entre les murs』がこの5月のカンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞したのでした。この映画はフランス公開が10月の予定です。子役を使わず,現実のパリ19区のコレージュ(中学)の生徒たちをほとんど生(き)のままで登場させ,元教師である作者フランソワ・ベゴドー自身がフランス語教師役で主演しています。パルム・ドールを獲った時から,テレビで何度もこの映画の断片が紹介され,監督や俳優らと共に一緒にカンヌ映画祭に行っていた20数人の少年少女たちがカンヌで大騒ぎしている映像を見ながら,私はこれは絶対に悪いはずがない,と確信させるいろいろなものを感じていたのでした。
 フランソワ・ベゴドーは1971年生れ。地方のフットボール選手からパンクロックバンド、ザブリスキー・ポイント(これはアントニオーニ映画『砂丘』ですね)のヴォーカリストに転身、次いでパリのコレージュでフランス語教師(この小説の元となる体験ですね)、映画雑誌のジャーナリスト、テレビでの時事評論家、著作では疑似伝記"Un democrate Mick Jagger 1960-1969"と、小説を3作発表していて、この『壁の中で』はその3作目になります。
 裏表紙にこう書かれています:『何も言わないこと,解説に飛躍しないこと,知と無知の合流点に留まっていること,すなわち壁の下にいること。それがどうなっているのか,どのように起こっているのか,どうしてそうなるのか,どうしてそうならないのかを描写すること。事実によって説教をバラバラに引き裂き,行動によって思想を分裂させること。ただひたすらに艱難辛苦の日常性を資料化すること。』
 この小説は教育現場のドキュメントではありません。ベゴドー作のフィクションです。しかし,学校の中で何が起こっているのかを語る場合,多くは教育システムの荒廃や,その社会背景や,21世紀的子供の心理の分析や,何が役に立ち何が役に立たないのか,といった「問題を解決しよう」という目的性のもとに書かれます。学校は病んでいる,子供たちは苦悩している,それを救済しなければならない,という立場がアプリオリに要求されます。ですからフィクションの場合,熱血教師が出て来て生徒の問題をひとつひとつ解決してやったり,友情は貴く,勤勉さは報われ,個性的であることは欠点ではない,といったことが描かれる必要があり,ノンフィクションの場合はネガティヴな現実を乗り越えるポジティヴな教育論がなければいけません。
 ベゴドーは,フィクション/ノンフィクションに関わらずこれらの教育現場に関する世人の長広舌(教育美談・改革論・解説・論争論議)を全部シャットアウトし,中指を高く突き上げます。教師の日常なんてこんなもんじゃないし,生徒のそれもしかり。ベゴドーの小説はそれを現実に近いかたちで提示するだけで,この「壁の中」という荒野がはっきりと見えてきたらいい,と考えているわけです。
 場所はパリ19区です。地理用語的には郊外ではありません。郊外であるかないかは,国境の内外のような文化的差異があるかのように,普通のフランス人も考える傾向があります。この20年ほどのマスコミ報道のせいで,郊外は貧困,失業,移民,暴力といった否定的なイメージとすぐに結びつきます。だから19区とは言え,パリ市内なのだから,郊外よりはましだろう,という先入観があります。この「パリ市内」を表す言葉が "Intra-muros"(イントラムロス)というラテン語で,城壁都市の内側,壁の中を意味します。パリという壁の内側の,公立コレージュ(中学校)という壁の内側が,この小説の舞台です。生徒たちの名前は,クーンバ,スーレイマン,ハキム,モアメド・アリ,ゼング,ミング,ジブリル,ヒンダ....。エキゾティックな名前ばかりです。ラマダンの業を行う子たち,ヨム・キップールや中国新年に学校を休んでいいかと聞く子たち,さまざまです。スターリングラードとベルヴィルに挟まれたこのパリ市内の東北部はそういうところです。東北はいつも悲しい。
 そして教師たちも極端に疲れています。動かないコピー機,つり小銭を戻さないコーヒー自販機,生徒たちや親たちとの対応は言うまでもありません。彼らは慢性的に睡眠不足で,ストレスは限界まで蓄積されています。しかし,公立コレージュというのは義務教育のどうしようもない教育期間であり,小学校で何も覚えられなかった子が中学で何かを覚えられるわけがない,という言い訳が既に教師たちの頭にあります。そしてこの小説の中で主人公教師が何度も言うのは,コレージュの後に生徒たちを受け入れるリセ(普通科と職業科)の席数は全員受け入れられるほど十分にあり,出来はどうあれどこかのリセのコースに入れて卒業させてしまえばいいのです。日本のような高校受験の危機感がないのです。無力感を伴いながらも彼らは日々を消化し,生徒たちと学年末までつきあいます。何度も素行に問題ある子の事件報告を校長や規律委員会に提出し,親を呼び出し,必要に応じて懲罰を決定します。この小説ではこの懲罰会議の結果,いとも簡単に満場一致で何人もの子供たちが退学放校処分を受けます。どうしようもない子供はどうしようもないのだ,という考え方が支配的です。教育の場で私たちが想像しがちな,子供を救済しなければと必死になっている教師の姿は,ここには一人もいないのです。それは私たちの想像が間違っているのです。そういう教師など世の中にそんなにいるものではないのです。
 教師側がそういう姿勢ですから,生徒側も教師に対する信頼度はかなり限界があります。ベゴドー描く話者(フランス語教師)は,果敢にも態度の悪い子たちに厳しい態度でのぞむ熱血漢の側面を持ちながら,生徒たちのレベルの低さには最初から絶望しているような冷ややかさがあります。生徒たちの間違いを訂正するのではなく,逆に揶揄したり茶化したりという場面が多くあります。ある日この教師はある女生徒の笑い方が "pétasse"(ペタス)のようだ,という言い,言われた子は大変憤慨して,先生は私のことをペタス扱いした,と大スキャンダルを起こします。僕はきみをペタス扱いなどしていない,ペタスのような笑い方と言っただけだ,と教師は反論します。何が争点なのかをはっきりさせますと,このペタスという俗語(卑語 gros mot)は辞書になど出ていませんが,その女の子が理解している意味は「娼婦」なのに対して,教師側の把握している意味は「扇情的な女」なのです。この二つの意味には大変な距離があるわけです。この距離を教師側も生徒側も縮めようとはしないのです。
 そのテクストには炭坑ストライキのことが描かれていて,それを読んだ生徒たちが質問します。
   - 先生,石炭というのは何の役に立つのですか?
   「以前は最も重要な燃料だったんだ」
   - 先生,燃料って何ですか?
   「燃やすもののことだ」
 ここで教師はこのテクストの方が無益なのではないか,と自問するのです。話題をもっと最近のものに変えようと,彼は生徒たちに「1981年5月10日に何が起こったか?」という質問をします。89年90年生れの生徒たちが占めるこのクラスで誰も81年のことなど知りません。フランスの現代史というのはこのエキゾティックな子供たちには何の重要性もないのです。ここでベゴドー先生はこう言うのです。「1981年5月10日,フランソワ・ミッテランが大統領に選出され,ボブ・マーリーが死んだ。当然のことながらボブ・マーリーのことはあまり語られていない。なぜなら当時ミッテラン大統領誕生はきわめて重要なことだったんだ。」
   - 先生,ボブ・マーリーはどうして死んだんですか?
   「ミッテランが選出されたショックで死んだんだ」
   - 本当ですか,先生?
   「正真正銘の史実だ」

 殺伐とした荒野のような「壁の中」でフランス語教師はこういう日常を生き,苛立ち,何度も(文字通り)壁にぶち当たります。この日常の記録は,文法間違いや用法違いや綴り違いを全く問題にしない21世紀的話語体で書かれ,これだけくずれたフランス語で小説が成立するのか,という驚きさえ覚えます。しかしそれはデストロイではないのです。格闘し,ボロボロになりながら書かれているのに,なんとも魅力的な生徒たちがたくさん登場します。頭にフードをかぶったまま教室に入り毎回フードを取れと叱られるスーレイマン,女の子たちに下ねた話を絶やさず提供するサンドラ,会う度にクラスを変えてくれと頼むディコ,短期間でフランス語を習得した優等生ながら母親が強制送還されるかもしれない中国人のミング,誰かに似ていてどうにも気にかかる美少女ヒンダ....。これらは映画の画面ではもっと魅力が増すかもしれません。
 この子たちは教師たちに愛されているわけではないし,教師たちはこの子たちをどうしようもないと思っています。この壁の中で日々はこうして過ぎていくのです。この教育現場に解決はあるのか,といったことは知ったこっちゃないのです。共和国の教育をまだ信頼せよと説くダニエル・ペナックの『学校の悲しみ』とはまったくもって対照的な作品と言えますが,ペナックは壁に守られていることに学校の意味を持たせようとするのに対して,ベゴドーでは壁は守ってくれるものではなくむしろ障壁でしかないようです。しかしそんな壁の中でも,人間は(大人も子供も)ときどきものすごくいい顔をするのです。

FRANCOIS BEGAUDEAU "Entre les murs"
(Folio文庫4523,2006年。290頁。6ユーロ)



PS
ローラン・カンテ映画『Entre les murs』の抜粋映像のひとつです。"Entre les murs - extrait 1"
フランス語文法の動詞活用で「接続法反過去」を学習しようというシーンですが,生徒たちが現代社会で全く使われることのないこの「接続法反過去」を覚えて何の役に立つのか,と反発します。教師(フランソワ・ベゴドーhimself)は,生徒たちが最初から役に立たないと思い込むから覚えることができない,覚えてから役に立つかどうかを考えるべきだ,と言います。ジレンマがありますよね。


PS 2

ローラン・カンテ映画『Entre les murs』のフランス封切は9月24日に決定しました。
"Entre les murs - 予告編"
それから『壁の中で』は舞台化され,2009年1月16日から2月14日までパリ18区のTHEATRE OUVERT DE PARISで上演されることになっています。
 

4 件のコメント:

Esuka さんのコメント...

 カストールさんは、学校や教師を題材にした
映画や本にいつも鋭く反応されますね。
ご自身が親御さんだから、という以上に
教職というものに抱かれている深い思いをかいま見るような気がします。

Pere Castor さんのコメント...

 エスカさん、おはようございます。
 育った環境として母親+姉妹4人(+そのうち3人の旦那たち)が教職者であったので、昭和時代の教育者がどんなものだったのかは皮膚感覚的に知っています。反抗的な子だったので教育者アレルギーは強く、中学生頃から先生と警察官(これは父の職業)には絶対なるまい、と思うようになりました。そのため大学で文学部にいたのに教職課程を取らなかったのと、実家を離れてしまったので、教職とは縁遠くなりました。
 教育が自分に大きく関係してくるのは、やはり娘が生まれてからで、フランスの幼稚園や小学校に通うようになって、私が受けた教育とは全く違う教育を受けて育つ娘を通して私自身もたくさんのことを教わりました。私と娘は40歳の差があるので、本来ならば私が40年前に習ったことを思い出せば、親としてその教育の手助けをしてあげられるはずなのですが、ここではすべてフランス語ですから、一緒に私も学習(再学習)しないと娘に何も言えないのです。算数を日本語で説明したら混乱しますし。
 英語はね、へへん...日本の英語教育も捨てたもんじゃないですよ。コレージュ(中学)程度までの英語だったら、私で全然問題なく対応できますもんね。スペイン語も去年から始まったのですが、これはお手上げ。ただ娘がスペイン語大好きなので、ひとりでも平気みたい。
 親たちはみな、子たちにいい成績を取っていい学校に進んで、みたいな望みをかけるのは何処も同じですが、最終的には自分の道は自分で見つけないといけない、と私の娘には私たち両親がくぐっていない門をたくさんくぐっていかなければならない試練を小さい頃から説いています。この子は私たちの勝手な都合(つまりフランスに移住したということですが)で、他の子よりも多くの苦労を積まなければならない。まあ、あきらめろ、おまえは私の子なんだから、と言えば、今のところはわかったような顔をしてますが、いつかは反抗されますでしょうね。
 娘がここの教育を受けて育つということには大きな興味があります。ベゴドーがこの小説で描いたコレージュ最終学年(4年目)に、わが娘もこの9月から突入します。娘の通っているコレージュは、小説に描かれたようなシーンは比較的少ないと言えますが、ないわけではないことは娘の話から時々聞きます。授業の邪魔ばかりする子もいます。貧乏人グループと金持ちグループは別れます(これは古今東西いっしょか)。わが子も含めて人種、宗教、さまざまです。共和国の学校ですから。
 わが町には優秀な公立リセがなく、出来の良い子の多くは私立校(カトリック系)に行くようです。娘も妻も将来を考えたら私立に行くことも選択肢に入れておかないと、と思っているようですが、私はなんとか「共和国の学校」を続けて欲しい、と抵抗しています。

esuka さんのコメント...

 お母様だけではなく、そこまで教師の多いおうちだったとは。
 周りの知人にはちょうどYuさんと同じくらいの子がいるケースが多く、これまで公立だった子を私立のハイスクールにやるか、公立にするかでやはり悩んでいたりしますね…。

Pere Castor さんのコメント...

 私立に私が抵抗するのは宗教という一点だけです。何も知らずにイエズス会系私立大学に行ってしまった私の後悔もあります。信仰の自由は認めましょう,でも共和国という場所はそれとは関係ないのだ,という環境こそ私には勉学の場には必須のように思えるのですが,共和国の学校は(程度の差はあれたいてい)荒れているというのが現実のようです。がんばっている公立の先生たちもいるのは知っています。
 娘を絶対に優等生にしなければ,という教育はもともとしていないので,平穏な公立であれば問題ないとは思います。成績はともあれ(平均ラインですから),今のところ学校も勉強することも嫌いではない,むしろ好きなようなので良いのですが,これが荒れた公立リセに入ったおかげで台無しになってしまうということを奥様は恐れているのです。わが町の公立リセはあまり良い話を聞かないのです。