2008年12月5日金曜日
ケタヌー国ではもう悲しみを暖炉で...
(←オリヴィエ・レイト。11月29日。パリ)
ラ・リュー・ケタヌーという3人組の記事を書くのにまる10日間費やしました。
一風変わった演劇工房(大道芸からモリエールまで)テアトル・デュ・フィル(「綱渡り劇団」と訳せるだろうか)出身の3人が、生ギター(ガットギター)とアコーディオンをかついで旅をし、行く先々の町の通りやカフェテラスや辻公園で自作の歌と寸劇のダイレクトパフォーマンスで人々を喜ばせます。この人々とのダイレクトのコンタクトがやみつきになるんですね。受ける芸、受けない芸、地方での人の違い、そういうのがだんだんわかってきます。サルタンバンク(Saltimbanque =大道芸人)という単語には「バンク」という言葉が含まれますが、金には縁のない職業です。20歳そこそこでサルタンバンクの道を歩み始めた3人は、町から町へ、野宿も平気、道あるところ俺たちは行くのさ、ってな、とても90年代後半的ではない生き方をしていたのです。私の偏見かもしれませんが、私はこれは60年代/70年代的には可能だった、と言うか、やる気があれば普通に出来たような記憶があるのです。それは自分が若かっただけでしょうか。あの頃の「明日をも知れない」は、昨今の「明日をも知れない」とは過酷さにおいてかなりの開きがあるのではないか、つまりあの頃はまだ楽天性が優位にあったように思うのです。これは自分だ歳取っただけなのでしょうか。
それはそれ。
ムーラド・ミュッセ、オリヴィエ・レイト、フロラン・ヴァントリニェの3人は道祖神の招きのまま、風まかせの旅芸人となります。1998年、彼らはラ・ロッシェル(ジャン=ルイ・フルキエ「フランコフォリー」フェスティヴァルのお膝元です)と、その沖に浮かぶ保養地の島イル・ド・レ(レ島)の、通りとカフェテラスに登場し、フロランの書いた街頭音楽劇を披露します。そのテーマの歌がこんなリフレインでした。
C'est pas nous qui sommes à la rue
C'est la rue Kétanou[C’est la rue qui est à nous]
セ・パ・ヌー・キ・ソム・ア・ラ・リュー
俺たちは路頭に迷っているんじゃない
セ・ラ・リュー・ケタヌー
往来は俺たちのものなのさ
これはスローガンであり、マニフェストであり、彼らの生きざまをわずか2行で端的に表現したものです。この歌が大受けに受け、3人は自然と人々から「ケタヌー、ケタヌー」と呼ばれるようになります。いつしか彼らはこれをバンド名として「ラ・リュー・ケタヌー」を名乗るようになります。
1年間の大道/放浪芸人の末、出会いが出会いを呼び、ロイック・ラントワーヌやアラン・ルプレストなどとも交流するようになります。彼らのシャンソンはブレル、ブラッサンス、フェレ、ピアフ、フレール、ルプレストなどを師とする、旅と出会いと別れを歌うシャンソン・レアリストだったり、ジタン/ツィガーヌ寄りの情念の濁流のような泣きものだったり、祝祭的なジャンプ系だったり、ミニマルの楽器で音響なしの環境で、最後には聴衆の輪を陶酔までもっていくパワーを獲得していきます。
ブルゴーニュのカフェテラスでその演奏を見ていたひとりのソーシャルワーカーが惚れ込み、彼が主催するコンサートの前座に出てくれないか、と頼みます。ケタヌーの3人がその会場に行ってみたら、その夜のメインはゼブダだったんですね。ゼブダのファンたちは、この全く無名の大道芸人3人を最初はいぶかしげに、しかし最後には熱烈な喝采とジャンプ&ダイブで歓迎することになります。この夜から、ラ・リュー・ケタヌーはストリート・アーチストからステージ・アーチストに転身し、その進撃は止められなくなってしまうんですね。次いでトリオ(Tryo。フランスのアコースティック・レゲエの人気グループ。名に関わらず4人組であるところはチャンバラ・トリオと同じですね)の前座として彼らの全国ツアーに同行し、パリのオランピアにも登場して、ラ・リュー・ケタヌーは全国的に知られることになります。
トリオの後押しで2001年にファーストアルバム。配給がトリオと同じメジャー会社(SONY)であったこともあるんでしょうけど、たちまちに2万5千枚を売って、ラ・リュー・ケタヌーはレコード・アーチストとしても成功してしまうわけですね。
まあ、その数々の成功のことは雑誌記事の方を読んでいただくとして、ラ・リュー・ケタヌーは2003年にその破竹の進撃の頂点で活動を休止します。ゼブダやマッシリア・サウンド・システムみたいなもんですが(こういう例は世界のどこの人気バンドでもあるありふれた話ですが)、3人はソロプロジェクトを始めるわけですね。ムーラドが中心になってモン・コテ・パンク(Mon coté Punk)という不定型集合バンド(ムーラド・ミュッセ、ディケス、ロイック・ラントワーヌ、パダム...)が一方にあって、もう一方にフロランの率いるマヌーシュ・スウィング系のトリオ(ギター、コントラバス、アコーディオン)のタンキエット・ラザール(T'inquiete Lazare)があります。オリヴィエは最初モン・コテ・パンクのプロジェクトに参加しますが、3人のうちで最も演劇寄りの彼は、スラム〜ポエトリー・リーディングの方向でソロを準備しています(ジャン・コルティのアコーディオンをバックに一人芝居のようなスペクタクルをしたのを見たことがあります)。
こういう3人組が5年のブランクの後に再結成して、極上のシャンソン・アルバム『ア・コントルサンス(逆方向に)』を制作します(2009年2月リリース)。先週の土曜日(11月29日)にオリヴィエ・レイトに会ってインタヴューしたんですが、とても面白い話をするヤツだし、大道で鍛え上がられたコミュニケーション術みたいな、一言一言がとても分かりやすくて熱いエモーションが伝わってくる、ありがたい1時間でした。好きになりましたねえ。この伝導力が決め手ですねえ。握手しただけで暖かさが通じてくる人というのがいますが、私はオリヴィエからはなにかとてつもなく熱いものが伝わってきたように感じました。それを日本語で日本人にどう伝えるかが、私に課せられた問題なのですが... 1週間も10日もかかっても、それを日本語化できないのは、私が大道で鍛えられていないからかなあ、と愚考したりします。
人に出会うことや、旅することを、いつから億劫になってしまったんでしょうか。オン・ザ・ロード・アゲイン。もう一回出ないといかんなあ、とオリヴィエに教えられたような気がします。
ラ・リュー・ケタヌーのオフィシャル・サイトに, 活動再開後のライヴヴィデオ(2008年3月ル・アーヴルでのライヴ Les Maisons)が張ってあります。これを見たらだいたいの人はわかってくれるんじゃないでしょうか。
PS 1 (12月8日)
オリヴィエの着てるTシャツ良く見て下さい。「オリジンヌ・コンコトロレ」です。ラ・リュー・ケタヌーは11月(このインタヴューの1週間前)に,ブール・カン・ブレス(Bourg-en-Bresse)という町でオリジンヌ・コントロレ(ムース&ハキム)とジョイント・コンサートをしています。
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