2012年7月11日水曜日

カイリー来ぬ青春

『ホリー・モーターズ』2012年フランス映画
"Holy Motors" 監督レオス・カラックス
主演:ドニ・ラヴァン、エディット・スコブ、エヴァ・メンデス、カイリー・ミノーグ
フランス公開:2012年7月4日

 レオス・カラックスの13年ぶりの新作です。5月のカンヌ映画祭にオフィシャル(コンペティション)出品されたのですが、非常にポジティヴだったプレス評にも関わらず、賞なしでした。しょうないものはしょうない。この時の審査委員長はナンニ・モレッティでした。この映画にはナンニ・モ。
 思えば私は『ボーイ・ミーツ・ガール』(1984年)から『ポーラ・X』(1999年)までの4本の長編映画はほとんど封切時に観ていて、多分多くのカラックス・フォロワーと同じように『ポーラ・X』を観るまではずいぶんポジティヴにこの監督を持ち上げていたと思いますよ。そして知ったふりして『ポーラ・X』褒める人たちとは口を聞かなくなりました。私は『ポーラ・X』は嘔吐寸前でしたからね。
 『ポーラ・X』で東欧女イザベルを演じたカテリーナ・ゴルベヴァが、44歳で謎の死を遂げたのが2011年8月14日のこと。(自殺説もあり)。カラックスの伴侶として10年連れ添っていて、3人の子供あり。新作『ホリー・モーターズ』 はジェネリックで写真入りで「カテリーナ・ゴルベヴァに捧ぐ」と出てきます。

 レオス・カラックスは本名をアレックス・デュポンというのですが、映画アカデミー賞の "Oscar"と自分のファースト・ネーム "Alex"の二つ "Oscar Alex"のアナグラム(字の並び替え遊び)で "Leos Carax "という源氏名を考えついたのです。映画守護神オスカーの子アレックスは、レオス・カラックスとして映画のアンファン・テリブルになったのです。そしてこの『ホリー・モーターズ』で11役をこなすドニ・ラヴァンの役名は「ムッシュー・オスカー」なのです。
 一体、映画って何でしょうね? 唐突にこんなこと言ってしまいますが、巨大映画会社が大予算かけて小難しくてややこしい映画を作るはずはないのです。あらゆる映画がみんな金が取れるわけではない。映画にはいろんな可能性があるはずで、銭勘定だけでみんながみんなあんな映画やこんな映画になってもらっては困る、と思います。特にパリ/東京などの飛行機長距離便の機内サービス映画の数々を見るとそう思います。これではわれわれの映画は死んでしまうのだ、という危機意識から、古今の映画人は警鐘として「映画のための映画」を作ってきました。トリュフォーの『アメリカの夜』、ヴェンダースの『ことの次第』、フェリーニの『インテルヴィスタ』などがそうです。(私はゴダールの『映画史』を観ていません)。
 映画の子でいながら(2007年に3者連作の短編映画集『東京』 の中に「メルド」という作品を作ったという例外はありますが)13年の沈黙を守っていたカラックスが、ここでカラックス流儀の「映画のための映画」を作ってしまったのです。

 映画は寝室で長い眠りから醒めたパジャマ姿のレオス・カラックス(himself)から始まります。カラックスが壁の隠し扉を開けて、別の間に入っていくと、そこは映画館なのです。いっぱいの観客は音もなく座っていて、座席の間の通路には小さな女の子が歩いていたり、猛獣が歩いていたり...。ここで映画はなにものでもないのです。ただの活動写真。古い時代のスポーツ選手の動作を捉えるだけの「動く写真」。
 転じて郊外の超高級邸宅から、早朝に仕事に出かける「ムッシュー・オスカー」(ドニ・ラヴァン)の登場です。白塗りのスーパーリムジンには運転手兼秘書のセリーヌ(エディット・スコブ)がいて、今日のアポイントメントをバインダーファイルにしてオスカーに教えます。電話が入り、わけのわからないファイナンシャル用語での会話があります。オスカーはここで世界経済上のVIPという役をひとつこなすわけですが、その陳腐なファイナンシャル用語でのダイアローグで、どうしようもなくヘボいのです。リムジンの中は舞台俳優の楽屋のようになっていて、化粧台、衣装、小道具などがたくさん詰まっています。これから一日、深夜遅くまでムッシュー・オスカーはそのアポイントをひとつひとつこなしていくのですが、その度に化粧と衣装を変え、まったく別の人格としてリムジンから降りていきます。全部で11。オスカーは11種の人間の役を演じるわけです。「11人いる!」は萩尾望都のSF漫画でしたが、関連は全くないとは誰にも言いきれないでしょう。
 映画に何ができるのか? カラックスは彼の流儀で映画の11の可能性を提示するのです。オスカーは国際経済のVIPから、パリの橋の上にいる腰の曲がった老婆乞食になり人々から侮蔑の目で見られます(超社会派ルンペン・プロレタリア映画?)。サイバー格闘技の戦士になり、ゲーム空間のような暗闇の中で戦闘したり、くねくねうねるセックストイのようなサイバー女とセックスしたり、それをCGで別映像化したり(超アバター映画?)。中華街でヤクザの兄弟分の敵討ちのような、残忍でヘモグロビンが多量に出る殺害シーンと、害者の顔を改造してしまう後始末(超バイオレント・アジア映画?超タランティーノ映画?)。労働者階級の優しいパパが、十代の娘が行った友だちのホームパーティー(窓からカイリー・ミノーグの曲が聞こえる)に迎えに行って、車(プジョー205)の中で父娘の優しい会話があるのですが、娘がそのパーティーで誰ともダンスしなかったと聞くや、突然態度が豹変して激怒し、娘を途中で車から降ろしてしまうのです(超ホームドラマ?)。金持ちの老紳士が超高級ホテルのベッドの上で死につつあり、その死の床に姪(演エリーズ・ロモー)が現れ、そのあまりに歳のかけ離れた激しい恋愛の悲しい告白ダイアローグがあります(超メロドラマ?)が、それがすべて演技であり、即興のシチュエーション・フィクションであることが後でばらされます(超クサイ映画?)。
 映画のハイライトは2つあります。短編映画『東京』(メルド編)で登場した、下水道マンホールから出てくる緑の服を着た乞食の狂人メルドです。片目が白眼で、手から黒い爪がうずを巻いて伸びた汚い男は、通行人たちにぶつかり、タバコを奪い、花や札束を食べます。行く先はペール・ラシェーズ墓地。そこで超トップ・モデル(演エヴァ・メンデス)が、超トップフォトグラファーと写真撮影中で、そこに荒々しく乱入したメルドに、このフォトグラファーはインスピレーションを得て、この醜さはただものではない、こうなったら「美女と野獣」をやってしまおうと被写体になることをプロポーズします。そんなものに聞く耳持たず、絶世の美女を前に激情してしまったメルドは、トップモデルを誘拐し、墓地の地下に逃げ込みます。ここで美女と野獣は恋に落ちるのです(超「美女と野獣」?)。メルドのペニスは雄々しく勃起し(画面上にはっきりと映されます)、その状態で裸のメルドはトップモデルの膝枕で安らかに(勃起したまま)眠り、トップモデルはメルドを優しく愛撫しながら子守唄を歌ってあげるのです(超X-rated映画?)。 
 アメリカ映画史において、男優のペニスの勃起角度で X-ratedの検閲度合いが違っていたという事実があります。あたかもペニスが勃起すれば革命が起こってしまうのではないか、と政府は恐れていたようです。その昔 X-ratedは「闘う映画」だったのです。
 もうひとつのハイライトは「ポン・ヌフの恋人」との再会です。恋人を演ずるのはジュリエット・ビノッシュではなく、カイリー・ミノーグです。過去の恋から醒めきれぬ二人は、リムジン同士の衝突事故で、ポン・ヌフ橋のたもとで再会し、今や廃屋となっているサマリテーヌ百貨店(1991年映画『ポン・ヌフの恋人たち』では、ポン・ヌフ橋とサマリテーヌの精巧な映画セットを作っておきながら、気に入らなくてつぶしてしまう、という曰くつきの撮影エピソードがあります。本当にサマリテーヌをつぶしてしまったのはカラックスかもしれない)にエヴァ(カイリー・ミノーグ)とオスカーは入っていき、階段を一段一段昇りながら屋上までいたるのですが、愛しながら別れた男女の悔恨を、ミュージカル映画仕立てでエヴァ=カイリー・ミノーグは歌っていくのです(超シェルブールの雨傘?)。「わたしたちは誰だったの? Who were we ?」(詞:レオス・カラックス+ニール・ハノン/曲:ニール・ハノン)という本当に泣かせる歌なのです。こんなにおセンチで痛々しい歌と情景は、めったな映画で見れるものではありません。私が涙しそうになったすぐあとで、ポン・ヌフ橋を眼下に見るサマリテーヌ百貨店の屋上で二人は再び別れ、男が立ち去ったあとで、なんとエヴァは屋上から飛び降り自殺をしてしまうのです。ちょっと待て!おまえは『ポン・ヌフの恋人たち』にこんな落とし前をつけるか!と、私は猛烈に腹が立ちましたね。 - (ジュリエット・ビノッシュ代理殺人事件という解釈も可能でしょう)。
 ムッシュー・オスカーの今日の最後の仕事はパパとしてある家庭に帰宅すること。「今帰ったぞ〜い」と入って行った家には、チンパンジーの奥さんがいて、その二階にはチンパンジーの娘さんがいます(超猿の惑星?)。そしてその平和な家庭の一日の終わりの情景をバックに、ジェラール・マンセの"Revivre"(再生)という歌が流れます。「再生したいんだ。それは同じことをするためにもう一度生きたいということだ」。
 セリーヌが運転するのと同じようなスーパー・リムジンがたくさん「ホリー・モーターズ」社の車庫に帰っていきます。ムッシュー・オスカーと同じような「仕事」をしている人たちは世の中にたくさんいて、人気がまったくなくなった車庫の中でその人たちのことをリムジンたちが(口のように車体ボンネットをバクバク開けて)嘲笑したり、揶揄したり。

 カラックスはどうだ映画はここまでできるんだ、というリミットを遠くに押しやるような映画を作りたかったのでしょう。11のエピソードは当たり外れはあれど、映画的にスリルもサスペンスもホラーもグロもSFもロマンティスムもエロもシュールレアリスムもある、というカタログのようです。ただ、それは「映画のための映画」かと言うと、私にはどうしてもその前に「自分のための映画」であるという強烈なメガロマニー(誇大妄想狂)な色づけが気になって、しばしば居心地が悪くなるのです。カラックスについてはよく言われることで、この性向を形容するフランス語は "Nombrilisme"(ノンブリリスム)です。手元の仏和辞書に載ってないので、日本語の訳語はわかりません。"nombril"とは「へそ」のことで、へそが体の中心であるように、自分のことを世界のへそ、つまり世界の中心と考える自己中心主義のことです。
 オスカーが何役もこなしてリムジンから出入りしているのを知っているひとりの男(ミッシェル・ピコリ)が、オスカーにどうしてそこまでするのか、と尋ねます。オスカーはそれに "Pour la beauté du geste"(行為の美しさを追求するために)と答えます。彼は美の探求のためにあらゆる役回りをしなければならない。その美を決定する審美眼はカラックスひとりしか持っていない(映画というのはそういうものと言われればそれまでですが)。美醜のリミットを破ろうとすることや、俺様式の完全主義は、この映画で当たるものもあれば外れるものもあり、その外れるものでは極端な不快感さえ呼び起こすかもしれない(それが狙いもありうる)。「私の審美眼が映画を決定する、なぜなら私は映画=オスカーなのだから」という鼻の高さは、拍手する人もいれば、どうしたものかと思う人もいるでしょう。この映画がカラックスの「私は映画だ」というマニフェストであるならば、私は7割の強度で拍手します。
 最後にこれだけははっきり言っておくと、カラックスは女性に対する敬意が欠落しています。『ボーイ・ミーツ・ガール』から数えて、私はカラックスの映画に登場するすべての女優たちはカラックスに大なり小なりの隷属を強いられているようにしか見えないのです。

(↓『ホリー・モーターズ』予告編)

Holy Motors, de Leos Carax (bande-annonce) par Telerama_BA



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