2019年3月18日月曜日

Why don't you write me (手紙が欲しい)

『ジョン・F・ドノヴァンの死と生涯』
"The Death and Life of John F. Donovan"

2018年カナダ映画
監督:グザヴィエ・ドラン
主演;キット・ハリントン、ナタリー・ポートマン、ジェイコブ・トレンブレー、スーザン・サランドン
フランスでの公開:2019年3月13日

ベック出身の映画界のアンファン・テリブル(当年30歳)、グザヴィエ・ドラン初の「英語映画」。2018年9月10日、トロント映画祭で初上映されるも、アメリカとカナダのメディアの酷評によって、カナダとアメリカでは一般上映が期限なく延期になっている。その酷評とは、10年間に7本(!)長編映画を撮ってきたドランの、金太郎飴のような毎度の同じテーマ、母と息子の愛憎・確執、ホモセクシュアリティー、それに対する虐め・社会的疎外など、これしかこの監督にはないのか、といったことだと想像する。大予算+豪華キャストによる21世紀映画のアンファン・テリブルの新作の上映は北米で立ち往生しているが、映画出資国のひとつフランスがそれではということで封切に踏み切った。フランスは世界で最もドランの支持者が多い国だろう。かくしてこの3月13日のフランス封切りが世界初の一般上映。
 唐突に私事であるが、2019年1月に亡くなった母と約1年間続いた文通をきっかけに、私は他の人たちにも手紙や絵はがきを書くようになった。ボールペン字で書いて、切手を貼って投函する。手元に自分が書いたことが残らない。普通郵便であるから、着信されたのかどうかもわからない。こういう手作業で前時代的な手紙は、メールその他の電子コミュニケーションに慣れた者には不安なものだ。出ていった手紙は何を書いたんだっけ?着くのだろうか?返事は来るのだろうか?何日かかるのだろう? ー これが手紙だ。手書きで、書きしくじりをしながら、誤字脱字をしながら、自分の言葉を伝える。スリリングなものである。緊張感は返事を待つ日数に比例する。受け取った手紙の自筆筆跡に感じるものがある。すぐに返事を書きたくなる。これが手紙だ。
 この作品は21世紀を舞台にしているが、手紙がものを言う映画である。緑のインクで書いてある。そういうことがものを言う映画である。手書き文字がどんなものであるかがものを言う映画である。
 冒頭はアメリカの少し前までの大スター(テレビ連ドラ、スーパーヒーロー映画)俳優ジョン(演キット・ハリントン)がニューヨークの自宅で死体で発見される。自殺ともオーヴァードーズ死とも。その10年後、イギリス在の若い俳優ルパート(演ベン・シュネッツァー)がジョン・F ・ドノヴァンの死の真相を知っていると名乗り出、芸能ジャーナリストではない、政治・社会・国際問題に筆をふるう(フランス語では "grand reporteur"と言うのだが日本語では?)第一線記者であるオードリー(演タンディー・ニュートン)にコンタクトを取り、ワルシャワでインタヴューを受ける。映画はここからルパートのオードリーへの証言の再現フィルムとして展開され、そこに登場する少年ルパート(演ジェイコブ・トレンブレー。映画の主役という意味ではこの少年であろう。怪演)が、イギリスにいながらどのようにアメリカのスター俳優と交流していたかを映し出していく。まずルパートの家庭は母一人子一人であり、父は離婚別居していて、二人は母サム(演ナタリー・ポートマン)の事情でアメリカからイギリスに移住している。この時点で既にジョン・ドノヴァンの大ファンであり、子役俳優になってジョンと共演したいという夢を抱いていた少年には、この移住は大きな痛手であった。途中で転入したイギリスの学校では、アメリカ訛りをバカにされるだけでなく露骨な「ジェンダーいじめ」を受ける。このいじめは陰湿かつ暴力的である。クラスメイト誰一人庇ってくれない。友だちのいない孤独な子供だが、文章力はあり、その才能と想像力は教師が評価しているが、作文課題でクラス全員の前で発表した「米スター俳優との文通」は、教師は孤独ゆえの想像力の一人歩きと決めつける。少年ルパートは、母親にも言えぬ、唯一の心の支えがジョン・ドノヴァンであり、そのテレビ連ドラの全シーンを暗記し、これさえ見ればすべてを忘れることができるほどののめり込み方でスターを崇拝し、滾る想いをこめて手紙をしたためる。あろうことか、この少年の熱い手紙にスターは返事を出すのである。なぜなら、スターもまた同じように孤独であったのだから。
 めちゃくちゃなやり手の女ジャーマネのバーバラ(演キャシー・ベイツ。晩年のシモーヌ・シニョレを想わせる凄み)にスターダムの軌道に乗せられ、幼なじみの女優エイミーとヘテロ・カップルを偽装しているが、この男優スターの座を守るためにジョン・ドノヴァンがゲイであることは秘密にされている。ジョンもまた燃えるような恋をするのだが、スキャンダルを避けるために自らその恋を絶ってしまう。ここでジョンはなぜ自分らしく自分の思いのままに生きられないのか、という思いをこの声変わりもしていないような少年に手紙で吐露するのである。緑のインクで書かれた手紙の文通は5年間続く。
 映画のもうひとつの重要なテーマは母と息子の関係であり、2014年のドラン作品『マミー』 で展開された極端に親密で複雑な母子関係のヴァリエーションのような、ルパートとその母サラ、ジョンとその母グレース(演スーザン・サランドン。アル中で多弁で高圧的でわれこそ世界の中心のように振る舞う庶民女性像。素晴らしい!)の、それぞれの愛情と憎悪と下手な表現とが絡み合った関係がパラレルに進行する。最終的に母と子は和解するのだけれど、それまでの激しい応酬には、ドラン映画的既視感が否めないものだが、これがドランがうまいんだからしかたない。なぜわかりあえないのか、なぜ意志とは裏腹に会話は空虚にすれ違うのか、これが終盤にふ〜っと解消して涙するのはドラン映画のマジックではありませんか。
 イギリスにいる孤独な少年とアメリカにいる孤独なスター俳優は、その秘めた文通で結ばれているものの、一度も会うことなくジョンは死んでしまう。その死のきっかけは、イギリスで暴露されてしまったこの文通の事実を、アメリカでスター俳優が公の場所(テレビインタヴュー)で一笑のもとに否定して、スキャンダルを防ごうとしたこと。そこからジョンはこれまでの人生で最も大切だったものを否定したことにバランスを崩し、俳優業もできぬほど落ちていき、ショービジネスはこの男を捨てる...。そのことの次第のすべてを少年ルパートは知っていた、というわけである。
 ドランのカメラワークは毛穴が見えるほどの顔の大写しばかりで、顔がみなすごい。ものを言う表情はものを言うよりも雄弁である。特に母親役二人、ナタリー・ポートマンとスーザン・サランドンの顔に圧倒される。悪い母親が泣かせる母親に変わっていく移り変わりが大写しで見れるのである。
 最初に書いたように、この映画はたいへんな揉め事に絡まれている。ドラン最初の「英語映画」であり、米の大スターで俳優陣をかため、3年の撮影の末に、最初の編集で4時間になったものを最終的には2時間にまで縮めた。消されたのは(米スター女優)ジェシカ・チャステインが関わったすべてのシーン。これはジョン・F・ドノヴァンのスキャンダルを嗅ぎつけ執拗に追及していく女性(芸能)ジャーナリストの役だったのだそうだが、ジョンを自殺に追い詰める鍵となる人物だったはず。これをドランがばっさり(大スター出演シーンを)全部カットした、という裏側事情もアメリカのメディアのこの映画非難の材料になったと思われる。気にしなくていいと思う。完成されて私が観た2時間のヴァージョンはそれだけで十分に完成度が高い。
 問題ではないが、気にさわるのは、アイデンティティーのことであり、この映画の二人の中心人物、ルパート少年と俳優ドノヴァンの、母親と複雑な関係にあるゲイの子供、というドランが自己投影しているに違いないパーソナリティ。「これしか撮れないの?」という気がしないでもない。わかりやすい。ドランはそれでいいのだろう。
 EメールやSNSの時代に、手紙がものを言うストーリーは、古典回帰のような効果もある。クラシックな雰囲気はこの若い監督(30歳)の得意とするところかもしれないが、私たちが忘れかけているものでもある。手紙の人肌と情緒を体感する映画である。手紙を復権させよう。

(↓)『ジョン・F・ドノヴァンの死と生涯』予告編


(↓)仏プルミエール誌のインタヴューで『ジョン・F・ドノヴァン』を語るグザヴィエ・ドラン(2019年2月)


(↓)記事タイトルの出典はサイモンとガーファンクル「手紙が欲しい」(1969年)

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