2008年3月20日木曜日

アルジェ,アルジェ....



 今朝国営FM局FIPでその代表曲のひとつ「アルジェ・アルジェ」が流れて,そのあとコメンテーターが「シャンソン・ジュデオ・アラブの巨人,リリ・ボニッシュが3月6日に亡くなったことを,われわれは今知らされました」と告げました。1921年アルジェ生れとありますから,86歳か87歳で亡くなったんですね。
 スペインとカビリアの血を引くユダヤ人宝石商の息子,13歳でウード奏者として楽団デビューし,15歳でラジオ・アルジェに自分の番組を持ったという伝説があります。40年代,自作歌手としてタンゴ,パソ・ドブル,ルンバ,シャービ,カンツォーネ,シャンソン,アラボ・アンダルーズ,オリエンタル....その他様々のスタイルで曲とつくり,歌詞はアルジェ風アラブ語とフランス語が混じり合っていました。これは「フランカラブ francarabe」と呼ばれ,ボニッシュの人気はアルジェはもとより,パリでも沸騰するでした。40年代末に彼が出演していたパリのモンマルトルのキャバレー「ソレイユ・ダルジェリー」には,彼の歌の大ファンだった若い代議士,フランソワ・ミッテランがよく足を運んでいたそうです。
 最初の結婚の失敗,アルジェリア独立戦争などが重なって,ボニッシュは歌手を廃業し,パリに移住し,レストラン経営(失敗)や事務用品の外交セールスマンなどをして暮らしておりました。
 30年のブランクの後,リリ・ボニッシュを再び舞台に登らせたのがフランシス・ファルセト(90年代"ワールドミュージック"のエキスパートのひとり。エチオピアン・モダン・ミュージック発掘のきっかけとなったETHIOPIQUES エチオピック・シリーズの監修者)で,古いレパートリーのCD復刻がなされ,92年にはボニッシュを日本にまで連れていくのです。
 
 フランス植民地の要港だったアルジェは,たぶん地中海対岸のマルセイユと同じようにコスモポリタンな活気に溢れていたはずなのです。ボニッシュの当時の楽曲は "TRESORS DE LA CHANSON JUDEO-ARABE(シャンソン・ジュデオ・アラブの至宝)"というCDで聞くことができますが,カスバのエンターテイナーは驚異のワールド・ミクスチャーを成功させていたのですね。これが第一線から消えるのは,20世紀後半以降のユダヤとアラブ世界の緊張した関係のせいと言えますが,つい半世紀前まではそれが芸能として宗教の境なく多くの人たちが楽しんでいたというのを知ることは重要だと思います。
 フランシス・ファルセトに続いて,リリ・ボニッシュの後押しをしたのがファッション・クリエーターのジャン・トゥイトゥー(APC)で,98年にリリースされたボニッシュのスタンダード集『アルジェ・アルジェ』と,トゥイトゥーの個人的友人であるビル・ラズウェルらが関わったダブ・アルバム『ボニッシュ・ダブ』は,多くの若いリスナーをつかみ,当時のブランシェ(Branchés もう死語かしら。先端人種のこと)たちに大きく評価されます。この辺の事情はアンリ・サルヴァドール現象の小型版みたいな感じもあります。-M-(マチュー・シェディド)がボニッシュと共演したこともあります。

 そんなことより私にはまず,このまろやかな声,泣きたくなるような郷愁,皮肉なフランス語歌詞,幻を追うような虚無視線.... いろいろ胸を打つのが「アルジェ・アルジェ」という歌でした。
3月20日,春分の日,フランス語ではダイレクトに "Printemps"(春)の日。気温が8度までしか昇らない寒い春の幕開けです。曇天のパリでもう一度「アルジェ・アルジェ」を聞きながら,カスバのエンターテイナーのことを思ったり,このブログをよく読んでくれているらしいアルジェに住む友人のことを思ったり...。


(↓)リリ・ボニッシュ「アルジェ・アルジェ」

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