2008年3月11日火曜日

クロクロは生きていたら69歳



 3月11日,クロード・フランソワの30周忌であります。オフィシャルにはパリ16区のエグゼルマンス通りの自宅アパルトマンの浴室で,壁面につけられていた浴室灯の電球が曲がっていたのを見て,それを直そうとして手を触れたところ,感電して心臓が止まってしまった,ということになっています。他にも説はいろいろあります。どんな説にせよ,これは多くの国民にとって,悲劇的な死ではなく,「mort stupide=愚かな死」であります。ふつうそんなことで死ぬわけはないのに,なぜかやってきた不条理な死です。信じられない死です。当然のことながら生存説もあります。巨額の負債から逃れるための偽装死という説で,それによると本人は人知れず南米に脱出し今も生きているのです。
 爺もいやと言うほど特番やら伝記ドキュメンタリーを見ていましたが,多くの伝説のスターたちにあることでしょうけど,生前よりも死後の方がレコード売上はずっと上で,全く衰えることを知らないのです。これは現役で苦労して新作を出して売り続けなければならないジョニー・アリデイなどには,いい面の皮でしょう。まあ,死んで花実が咲くものか,ということもありますが。
 レコード会社を作り,興行プロダクションを作り,雑誌(Podium)を作り,ショービジネス界を自分のコントロール下に置こうとしていたクロード・フランソワの方法は,そのメディア戦術において,自分のメディアを使って私生活を見え隠れさせるところなど,ニコラ・サルコジに多大な影響を与えたことは間違いありません。ただ,昨今サルコジや首相のフランソワ・フィヨンが国民に向かって「国庫は底をついている」「国には金がない」とくり返しているように,クロード・フランソワもその派手さと我の強さゆえに,金はついていきません。10のものを売るために100の広告予算をかけるようなやり方です。それを取り戻すために彼は無理なスケジュールのコンサートツアーを続けなければならず,見栄のために払えもしないプライヴェート・ジェット機で移動しなければならなかったのです。
 フランス3のドキュメンタリーによると最後の日の前夜,プライヴェート・ジェットで空港についたクロード・フランソワは最初にパリの南郊外エッソンヌ県(91)に持っていた水車小屋つきの館「ムーラン・ド・ダヌモワ」(現在クロード・フランソワ博物館)に行って,そこで泊まろうとします。そこには妹が住んでいて館を管理していたのですが,クロード・フランソワがこの館の電気代を長い間滞納していたため,電気を止められ,暖房もない状態だったのです。寒い3月の郊外の夜です。彼はこの状態では休めないと,深夜に運転手を呼んで,パリ16区のアパルトマンに移動するのです...。
 アーチストとして,私はこの人に感じるものはほとんどありません。芸能ストーリーとしての波瀾万丈には,へええ...と思うことがしばしばあります。フランスのヴァリエテのプロフェッショナリズムというのはダリダとクロード・フランソワによって作られたようなところがあります。二人ともエジプト出身です。伝記本や回忌追悼特集の多さでは,この二人が他の追随を許しません。爺の苦手な芸能界の典型です。
 
 
 

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