J.M.G. ル・クレジオ『しけ - 二篇のノヴェラ』
J.M.G. Le Clézio "Tempête - Deux novellas"
二篇の作品なのに、なぜ2冊ではないのか。私なりの説明をしますとね、これはA面B面にそれぞれ1曲の長尺2曲入りのプログレッシヴ・ロックのLPレコードアルバムみたいなものだと思うのですよ。一篇めの『しけ』が長さにして120ページ、二篇めの『身元のない女』が100ページ。独立した二つの中編作品です。この形式を作者はフランス語のヌーヴェル(nouvelle = 中編小説)と呼ばずに、ノヴェラ(novella。元はイタリア語ですが、もっぱら英米文学上での長めの中編小説のこと)と称したのでした。かなりたっぷりな読み応えの2つのノヴェラのAB面カップリングのロングプレイ(LP)と言えます。
レクスプレス誌(2014年3月27日)の書評によると、第一篇の『しけ』 は元々は小説ではなく映画シナリオであったそうです。韓国のリゾート島チェジュド(済州島)の東側に位置する小さな島ウド(牛島)を舞台にした物語で、ル・クレジオはこのシナリオを持ってプサン(釜山)国際映画祭に乗り込み、韓国人映画監督にその映画化をプロポーズしたのですが、果たせず。「私は俳優の人選までしていたんですよ」とル・クレジオは笑う。しかたがないから、そのシナリオをノヴェラに書き換え、もう一篇の『身元のない女』はその勢いで一気に書き上げたようです。場所もストーリーも全く違う二篇のノヴェラですが、どちらも主人公は少女であり、どちらもある種の不幸を抱えていて、エキセントリックで孤的な戦いを生きている。『しけ』のジューンは父親を知らぬ私生児、『身元のない女』のラシェルは母親を知らぬ私生児、というところも両作品の「呼び合い」を感じさせるところです。
まず第一篇の『しけ』 です。話者は二人います。ひとりは初老のアメリカ男、フィリップ・キョー。ジャーナリスト/著述家の成り損ないと自称していますが、ヴェトナム戦争時に従軍記者であり、ヴェトナムの旧首都フエで起こった集団婦女暴行事件に関わったとして、有罪になり、3年間監獄に入れられています。罪状は米兵たちの暴行を目の前で見ながら、被害者の救助を求める訴えにも関わらず、ただ見ていた、というものです。この事件以来、男には自分が人間として破綻しているという自覚がついて回ります。その原罪を背負って3年間の地獄のような監獄生活を経ますが、その原罪は消えません。人間性の破綻した男としての生きている価値を問いつめながらの彷徨いの日々の果てに、タイでマリー・ソングというジャズ/ブルース・シンガーと出会います。その生の深さを歌う女性に魅せられ,二人は一緒になり、この韓国の小島ウドに住みつきます。季節には観光客で賑わうが、決して穏やかな海岸ばかりではない野生を残した島です。この島を選んだのはマリーで、この島の海に強烈に惹かれているのです。そして遠泳歴も多く、決して海に溺れて海に飲まれるわけのないマリーは、ある日泳ぎに出たまま帰らぬ人となります。死体は見つかりません。フィリップにはそれが全く理解できません。なぜ最愛の海に行って、そのまま帰らなかったのか。
30年後、男はウドに帰ってきます。マリーはどうして死んだのかを確かめに。死体が見つからなかったマリーがひょっとして生きているのではないか。マリーと同じようにこの海で死のうとしているのではないか。フィリップはこの島で何もするではなく、スポーツ店から釣り具一式とテントを借りて、釣り方も知らず不器用に海釣りのポーズをしながら毎日海辺に出ています。そこで、少女ジューンと出会うのです。ジューンは韓国女性と米黒人兵の間の私生児として生れ、米兵は逃げ、母親と二人で島に移り住んで来ました。ジューンは肌の色が黒いだの、父なし子だのの差別を受けて育ってきました。母親は島に来て、アワビ採りの海女として生活を立てるようになりました。この英語を流暢に話す少女が現れた時、男はマリーの生まれ変わりと錯覚します。ジューンは釣りの仕方を全く知らぬ初老の外国人に、やり方と魚のいる場所を教え、二人の間に奇妙な交流が始まります。
小説はここから話者二人になり、男の側からの記述と少女の側からの記述が交互して、二人の過去と現在が展開されます。二人は二人だけのゲームを考案したり、海辺のテントの中で夜を過ごしたり、体を温め合ったり(しかし、一線を越えず、no sex)、親密さは濃くなっていきます。 少女は男がこの島に死ぬためにやってきた、ということを感づいている。男は自分が少女が思っているような人間ではなく、破綻してしまった(悪魔の側の)人間なのだ、といつか告白しなければならないと思っている。その象徴的なパッセージのひとつに、少女が教会でゴスペル歌唱の独唱者として歌う時、男は教会の中に入れず、階段口で隠れるようにして聞く、というのがあります。少女はほとんど恋をしてしまって、フィリップ・キョーは「私の一生の男」と思うようになります。しかし男は絶対にそれを許しません。
ひとつのカギは海の神秘です。マリーは海の底に吸い寄せられるように消えていったのではないか。人間を吸い込まずにはいない魔力だったのではないか。題名のように小説には荒れ狂う海が描写されます。その犠牲者たちのうち、浜に死体が上がらない人たちはどこへ行ったのか。こういうミトロジーっぽいところがル・クレジオ読者にとってはたまらない魅力ですけど。
ジューンに生気を少しずつ与えてもらったフィリップは、それでもジューンとの危険な関係を断つかのように、島の薬屋の女主人と動物的に愛し合います。少女はこの性的な拒否を前にどうしようもなくなります。私はこの男とは絶対に一緒になることはできない。そして男と距離を取り、学校をやめ、母親と同じようにアワビ採りの海女になります。 その海女デビューの初潜水に、ジューンは(マリーのように)海の底に吸い寄せられていくのです。海中で失神して漂うジューンは、海女仲間の女たちに助けられて九死に一生を得ます。
それを知ったフィリップはジューンに再会することもなく、また島で死ぬこともなく、ウド島を去って行きます。ジューンもまた海の女としてひとりで生き始めます。それぞれの再出発みたいなエンディングです。う〜ん....。
続く第二篇めの『身元のない女』 は、最初の舞台はガーナです。白人植民者として成金生活を送るバドゥー夫婦には二人の娘がいますが、姉ラシェルは父親の連れ子(小説の後半で父親の強姦によってできた子供ということがわかります)であり、父親からも母親からも好かれていません。特に母親の方は徹頭徹尾ラシェルを嫌悪しています。その中で妹ビビだけは姉を慕い、姉をモデルとして育っていきます。家庭は荒れています。大邸宅、使用人たち、大型四駆車数台、という派手さの中で、父親は女癖が悪く、虚飾の美貌を誇るマダム・バドゥーとの夫婦ゲンカは絶えません。文字通り食器や置物や刃物が飛び交うケンカです。ラシェルとビビはこの荒れ方にも関わらず、アフリカの自然を愛し、その中で美しく育っていきます。ラシェルには幼少の頃から、自分は愛されていない人間で、身元不明であるという自覚があります。
やがてバドゥー家は事業に失敗し、破産してしまいます。アフリカを追われ、無一物の父親はブリュッセルでレストランの使用人として再就職し、マダム・バドゥーと娘二人はパリの南郊外クレムラン・ビセートルに住みます。マダムは開業歯科医と愛人関係を持ち、そこで歯科アシスタントとして働き、娘二人のことは放っておきます。そこは絵に描いたようなパリ郊外ですから、二人は加速度的に「郊外=郊外」の娘に変身していきます。ラップ、ヒップホップ、売春、ドラッグ....。ル・クレジオはこんなことまで詳しいのか、とちょっとうれしい驚きですよ。あんな音楽に夢中になっている同級生たちに呆れて、ラシェルがこれが音楽だと言わんばかりにイヤフォンでフェラ・クティを聞かせるんですよ。笑っちゃいますよね。
ラシェルはそんな荒れた郊外で、演劇をやる青年ハキムと知り合い、彼の脚本で制作中の劇(千夜一夜物語の中のバドゥーレ姫物語)で主役となるべく稽古をしています。これがこれまでのラシェルの人生で最も人間らしかった時期でしょうか。ところが、妹ビビが売春事件に巻き込まれて、麻薬漬けにされ、集団強姦され、大けがを負ってラシェルの前に現れます。ラシェルはあらゆる厄介事を避けるために警察にも救急にも連絡しません。それを知ったマダム・バドゥーはビビをこんな目に遇わせた責任はすべてラシェルにある、とラシェルを追い出してしまいます。ここからラシェルの地獄の彷徨が始まるのですが、この少女の場合、全然ヤワじゃないのですよ。身元がない=sans identitéということが逆に武器になったり、透明になったりできるのですね。高速道路わきのロマの野営地に紛れ込んだりもするのです。
ところがどんな目にあっても姉ラシェルを慕うビビは、身元不明のラシェルの身元を知ってしまい、それをラシェルに伝え、ラシェルの実の母はラシェルに会いたがっている、と強引にその人物とラシェルの再会(初対面と言うべきか)をセットアップしてしまいます。この対面はうまく行きません。ラシェルは黒々とした憤怒をこの人物に抱き、望みもしないのに突然露呈してしまったこの母子関係を否定しようとします。
身元を持たなかった人間が30歳にして身元を明らかにされた怒り、それを否定しようとする止むに止まれぬ欲求、それはどんどん膨張していき、ラシェルは実母を殺せば自分の身元も(元通り)不明なものに戻すことができると考えます。しかし実母暗殺計画は、寸でのところで失敗してしまいます...。
エンディングはアフリカ回帰です。あまりにも美しいので、ここでは書かないでおきます。
こういうすごいのが二篇ですよ。東洋の小島、アメリカの監獄、アフリカ、パリ郊外、ノルマンディー... 魂も肉体も移動して、ストーリーも波瀾万丈で、ちょっと長めだけど一気読みができる、それがノヴェラの長さかもしれません。このノーベル賞作家は何でも知ってるし、何でも見ていて、何でも体験している。74歳。この万年青年の顔をした老作家は、どんどんわかりやすく、どんどん21世紀的「ヒューマニティー」に直接響くストーリーテラーになっていると思いますよ。いまだにル・クレジオは難解だなどと言う人たちは退場してください。
カストール爺の採点:★★★★☆
J.M.G. LE CLEZIO "TEMPETE - Deux novellas"
ガリマール刊 2014年3月 235ページ 19,50ユーロ
(↓2014年4月10日、国営テレビFRANCE 5の読書番組LGLに農民作家ピエール・ラビと共に出演したJ.M.G. ル・クレジオ)
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