2023年7月31日月曜日

いろいろありすぎ、アリス・ギイ(1873-1968)の生涯

Catel & Bocquet "Alice Guy"
カテル・ミュレール(画)&ジョゼ=ルイ・ボッケ(脚本)『アリス・ギイ』


界映画史上初の女性映画監督アリス・ギイ(1873年生 - 1968年歿)はこの7月1日が生誕150年ということで、昨今回顧(&再評価)イヴェントが催されたり、記念切手(↓)が発行されたり。この記念切手は私も大好きなフランスのイラストレーター、アリーヌ・ザルコの作品で、カラフルでポップな仕上がり。

 カテル(画)&ボッケ(脚本)のバイオグラフィーBD作品は、『モンパルナスのキキ(Kiki de Montparnasse)』(2007年)と『ジョゼフィン・ベイカー(Joséphine Baker)』(2016年)という2大傑作があり、私はおおいに感銘を受け勉強になったのだが、その緻密な考証とドラマティックな画風は高く評価されている。この女性偉人伝のシリーズにはもう1作『オランプ・ド・グージュ(Olympe de Gouges)』(18世紀の劇作家/女優、フェミニスム運動の先駆)があるのだが、持ってないのでぜひ入手しようと思ってます。
 さてアリス・ギイであるが、上にもリンク貼りましたけど、日本語版ウィキペディアの「アリス・ギイ」項が非常に詳しく来歴や作品などを紹介しているので、参考にしてください。これだけでアリス・ギイのすべてがわかってしまうようなものだが、このカテル&ボッケのBD本は400ページのヴォリュームで、本編(BD物語アリス・ギイ伝)が320ページ、80ページが資料(年譜、人物解説、700本超のフィルモグラフィー、文献...)というたいへんなしろものなのである。なぜ(専門書でもないのに)こんなに資料が重要に扱われているのかというと、アリス・ギイは1968年に亡くなった頃はほぼ誰からも顧みられず、忘れ去られていた。その700本を超える映画作品もどうなっているのか誰も知らなかった。1920年以降全く映画を撮っていなかった(40歳で監督業引退)。このBDアルバムでは自分の会社の倒産売却と離婚の1920年代から1968年に亡くなるまでの不幸な40数年は33ページあつかいとかなり短縮しているが、かなり厳しかったことはよくわかる。復権と再評価は1970年代になってから(自伝の発刊が1976年、死の8年後)なのだが、まだまだなのじゃないかな。映画関係者でもアリス・ギイを知らない人がまだまだ多いようだし。このBDが丁寧に歴史考証してその生涯を詳しく物語化しているのは、この偉人があまりにも世に知られていないからでしょう。
 アリス・ギイは1873年、フランス、パリ東郊外、サン・マンデで生まれている。父エミール・ギイは実業家で南米チリで出版社を経営していて、本来一家(父母兄妹)はバルパライソValparaiso)で暮らしていたのだが、チリで天然痘が流行り出し、妊娠中の妻と胎児の安全のために一家は一時的にフランスに滞在した。この頃フランスとチリ間の船旅の所要日数は7週間。生まれたての子供にはこの船旅は無理、ということでスイスの母方の祖母にアリスを預け、一家はチリに戻っていく。アリスが3歳になった時母親が来て、アリスを南米チリへ連れていく。マゼラン海峡周りで南極ペンギンが見える。しかしチリでの大金持ちの生活は長続きせず、父の会社倒産と財産没収で一家は旧大陸に連れ戻され、アリスの教育は学費を切り詰めるため学校を転々としなければならなかった。演劇が好きで学校の舞台にもよく立ち、将来は女優にという夢があったが、父親の猛反対で頓挫。この演劇少女時代の経験が、のちの”劇”映画制作に大きく影響していく。
 家の経済状態のせいで、若くして働くことを余儀なくされるのだが、唯一の職業訓練として「速記タイプ」を超スピードで習得する。そしてパリで非常に優秀な秘書として”職業”デビュー。20歳。BDで強調されているのは、この19世紀末産業革命期における働く女性たちの危うく弱い立場に早くも異議を唱え、男性上位ヒエラルキーの圧力に屈しない才覚とアイディア力で重要なポジションを掴んでいく勇ましい姿である。1894年写真機製造販売会社に就職、社長代理をしていたレオン・ゴーモン(のちの世界有数の映画製作会社/上映館ネットワークのゴーモンの創業者)と邂逅。
 1895年、リュミエール兄弟がパリのグラン・カフェ地下のサロンで世界初の有料映画公開を行った年、レオン・ゴーモンは自分の名を冠した映像機械の販売会社ゴーモンを設立し、アリスはその社長秘書となった。その機材の開発製造販売にしか興味のなかったゴーモンに、その撮影機のデモンストレーション映像を制作して一般公開すべきと進言したのはアリスだった。リュミエール兄弟が駅に入る汽車工場から出る労働者たちといった実写映像で人々の度肝を抜いていたのに対して、アリスは娯楽性と物語性のある劇的な映像を提案する。大道具小道具撮影セットを用い、役者が演技する『キャベツ畑の妖精』(赤ちゃんはキャベツから生まれるという昔話を援用した妖精譚)をアリス自身が撮りたい、と。あまり乗り気でなかったゴーモンだが、アリス本来の仕事である秘書業務の時間の外でやることを条件に渋々許可を出す。ここで十代の頃演劇少女だったアリスのノウハウがフル活用され、セットと衣装のデザイン、俳優の演技づけ、 赤ちゃんたちの手配など、すべて彼女が采配し、自らカメラを回して、世界初の57秒の劇映画『キャベツ畑の妖精』(↓動画)は1896年に完成する。アリス23歳。



 この撮影の場面をカテル・ミュレールの絵はこう(→)再現している。女性たちの姿が多い、赤ちゃん誕生という女性の営みを描いた、まさに世界初の女性映画でもあったのだ。世界初の女性映画監督の登場でもあったが、それが話題やニュースになるような時代ではなかった。重要なのはアリスはこの時からゴーモン社の映画制作責任者となっていて、1896年だけで7本の短編映画を監督し、リュミエール兄弟、ジョルジュ・メリエス(特撮映画のオリジネーター)と並ぶ映画創成期の偉大なパイオニアとして名を残すはずであった。が、そうならないのは多分に「女性ゆえ」ということでしか説明できないように思える。BDでは男性制作スタッフの”上司”アリスへの妬みや、”あの時代からそうだった”映画界のセクハラ問題も描かれている。h無声映画に音楽の伴奏をつけて上映することを考案したり、蓄音盤に予め録音された音声を映像にシンクロさせて有声映画とする最初のトーキー映画のシステムを開発したり、その仕事はすべてアリスではなく”男性”がしたことにされている。1907年にゴーモンの映画制作責任者を退職するまで、アリスは100本以上の映画を監督制作したが、ゴーモン社の作品目録には監督名が自分でなくなっているものも多いと言う。

 1906年、南仏カマルグ地方でロケ撮影した映画『ミレイユ』のために急遽カメラマンとして抜擢された(ゴーモン社のロンドン支店の主任だった)イギリス人ハーバート・ブラシェと邂逅、BDではそのカマルグ撮影のシーンがなんとも美しく描かれているのだが、出来上がりでブラシェのカメラマンの腕は二戦級とわかるというオチがある。このアリスよりも9歳下の若造とアリスは恋に落ち、翌年には二人で渡米し、アメリカでの映画人生が始まることになる。しかしこのブラシェという男はどうしようもない輩(のようにBDでは描かれている)で、映画的にはテクニカルな意味でもプロデューサーとしての才覚にしても冴えないばかりではなく、アリスの映画ヒットの収益を投資でスってしまったり、複数の女優と不倫を重ねたり...。アメリカで最先端のスタジオを使って、野心的な映画(フェミニスト的傾向のテーマ、初の黒人主演映画など)を次々と制作し、チャップリンやキートンと肩を並べる活躍をしていたアリスが、アリスとブラシェの会社SOLAXの経営破綻のために1922年で映画が撮れなくなってしまったのは、すべてこの男のせいと言っていい。
 39歳で監督業引退。ブラシェとの間には二人の子供(娘シモーヌ、息子レジナルド)がいたが、1922年に正式離婚。この後のアリスの人生(フランスに戻ったり、またアメリカで仕事探したり...)は辛くて長い。そしてその映画人としての正当な評価がされないままに、忘れ去られた人となっていく。創成期の映画のフィルムは保管されているものが少なく、アリスの700本を超すと言われる作品も、焼却処分になったものも多く回収が難しいが、アリスは晩年までその回収捜索をしている。そして自分の仕事を記録する自伝を執筆するのだが、その自伝が出版されるのは、自らの死(1968年)から8年後の1976年のことだった。

 映画史から消されてしまった”世界初の女性映画監督”が、復権し、正当に研究されて作品が再発掘されだしたのはこの自伝の出版がきっかけで、それでも最近まで映画関係者でもその名を知らない人たちが多かった。この生誕150周年を機会にした一連の再評価(ARTE TVのドキュメンタリーTF1のニュースでの4分紹介エマニュエル・ゴームによる伝記小説ドキュメンタリー映画など)で、ずいぶん知られるようになったのではないかな。その中でこのカテル&ボッケのBD本は、その波乱の生涯にぐいぐい引き込んでいくパワーに圧倒される。映画好きの人たち、女性のパイオニアに興味ある人たちのために、日本語訳版出ればいいのにね。

Catel & Bocquet "Alice Guy"
Casterman刊 ハードカバー版 2021年9月22日、400ページ、24.95ユーロ
廉価ソフトカバー版 2023年6月7日、400ページ、10ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ARTE TVのアリス・ギイ紹介の3分動画

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