2023年6月30日金曜日

(たぶん)あなたの知らないヴェロニク・サンソン

Revue "SCHNOCK" No47
Véronique Sanson
季刊ムック『シュノック』第47号
ヴェロニク・サンソン
(2023年6月7日刊)


「27歳から87歳までの老人雑誌」を標榜する季刊ムック『シュノック』(2011年創刊、発行部数7000)は、毎回アーチスト/芸能人/著名人を俎上にあげて、芸能誌とは異なる老人的な斜に構えたエディトリアルであれこれ様々な角度から照射していく、図版多数のかなり厚め(今号も180ページ)のカラー印刷で、お値段16.50ユーロの高級雑誌。執筆陣はリベラシオン紙、テクニカート誌、パリマッチ誌、フランステレヴィジオン、ARTEなどでも活動しているジャーナリストや文筆家など。今号のヴェロ特集では、既に数冊あるヴェロの伝記本の著者たちや芸能/音楽ジャーナリストたちよりも、はるかに多くのヴェロ情報を持っているであろう、ヴェロファンジン"Harmonies"(紙版は1979年から1984年、その後インターネットサイトSNSで復活)の主宰者であり、ヴェロのアメリカ滞在時代(1973 - 1980)を特化して書籍化した”Véronique Sanson - Les années américaines"(Grasset社刊 2015年)の著者でもあるローラン・カリュ(Laurent Calut)がインタヴュー/執筆/監修で関わっているので、内容的には信頼できるはず。
 さて、ヴェロニク・サンソン(1949 - )については今さら紹介する必要はないと思うが、1972年アルバム"Amoureuse"で世界に衝撃を与えた(フランス初の本格的)女性シンガーソングライターであり、今日まで16枚のスタジオアルバムを発表してすべてトップクラスのセールスを記録している。私を含め多くのファンにとって、その音楽性と創造性の高さの頂点は1972年の2枚のアルバム、すなわち"Amoureuse"と”De l'autre côté de mon rêve"にあり、それをプロデュースした(当時公私とものパートナーだった)ミッシェル・ベルジェ(1947 - 1992)との共同作業が生んだ2枚の傑作アルバムを超えるものはない。で、音楽的にも”人生ドラマ”的にも、そのピークは72年/73年なのであり、ベルジェ/サンソンの愛情の結晶のような2枚の傑作アルバムの制作中に米ロックのスーパースター、スティーヴン・スティルス(1945 - ) との電撃的恋愛、録音スタジオから「タバコを買いに行ってくるわ」と出たきり、二度とベルジェの前に姿を現すことなくアメリカに行ってしまい(これは尾鰭のついた伝説)ロックヒーローの妻に...。そこから後の話がまた伝説化するのだが、大失恋に打ちひしがれたベルジェと、沖からの呼び声に抗じきれずにベルジェとフランスを去ったサンソンの世にも稀な”相思相愛”関係は永遠に消えることなく、サンソンに続いてWEAからシンガーソングライターとしてアルバムを発表するようになったベルジェのその多くの歌は、名指されれないサンソンへの個人的メッセージ(message personnel)であり、サンソンはアメリカにいてそのベルジェの歌メッセージにひとつひとつ(名指されない)アンサーソングを書いて発表していた、と。ベルジェが”Seras-tu là?(来てくれるかな?)"と歌って問えば、サンソンが"Je serai là(いいとも)”と歌って答える、という具合に。この"静御前と源義経"ストーリーはとりわけ1992年のベルジェの急死の後からサンソンが展開し始めるのだが、20年間妻として二児の母として音楽パートナーとして寄り添って突然未亡人となったフランス・ギャル(1947 - 2018)にしてみれば、たまったもんじゃない話であった。
 サンソンの伝記および評伝の著作と音楽誌や芸能誌の特集などでは、この「サンソン/スティルス」伝説と「サンソン/ベルジェ」伝説のことばかりがページ数を取ることになる。しかし『シュロック』サンソン特集はこの伝説の信憑性にメスを入れる。あたかも青天の霹靂のような電撃恋愛のせいで後先考えずにスティルスに靡かれるままベルジェを捨てアメリカに行ってしまった(そしてそれを後悔した)激情的におろかな女と描かれてきたこのストーリーを、50年後(正確には51年後)もう一度時間軸的に検証し直す、という”La véritable histoire du départ en Amérique(サンソン渡米の真相)"と題された6ページ記事を、前述のローラン・カリュが入魂の執筆。その後はフランスで大スターと化していくサンソンとベルジェであったが、1972年当時はサンソンはファーストアルバムで(ちょっと)注目された駆け出しの女性シンガーソングライター、ベルジェは一般的には無名の音楽プロデューサー、当時の芸能マスコミが追いかけているはずがなかった。その手の資料が希薄ななか、ヴェロ本人、姉のヴィオレーヌ、渡米の飛行機代を貸したとされる歌手のニコレッタ、当時のレコード会社WEAの関係者などの50年前の曖昧な記憶の証言をもとにサンソンとスティルスの出会い(1972年3月、WEAフランスの社長室)から、サンソンの実際の渡米(これが特定できずにいたが、ようやく1973年2月とほぼ断定)まで1年近い月日があったということ。この間にサンソンはセカンドアルバム"De l'autre côté de mon rêve"をベルジェのプロデュースで録音、WEAのスタッフたちはこのセッションにスティルスのギター参加をと画策、サンソンとベルジェの間には別れる/別れないの躊躇の行ったり来たりが....。姉ヴィオレーヌは1972年12月に結婚していて、その結婚式にはヴェロニクとミッシェルがカップルとして列席している。だからサンソンとベルジェは、スティルスの登場(しかも強引で執拗なプロポーズの連続)で瞬く間に破局したわけではなく、その結論を出すには何ヶ月もの月日を費やしたのだ、と。特記すべきは、当時のWEAのスタッフたちはこぞってスティルスがサンソンを射止めることに協力的であり、ミッシェル・ベルジェを「まあ、まあ、まあ、まあ...」と引き止める役を演じていたようなのだ。”企業として”なんだろうか。ショービズ界の感覚からすれば、(弊社の)駆け出しの女性アーチストが世界的スーパーロックスターとくっつけば、世界的名声と売上が、とフツーに考えたんでしょうね。いやだいやだ。スティルスとサンソンを引き合わせるという’コトの発端’をつくった張本人が当時のWEAの社長ベルナール・ド・ボッソン(1935 - )であるが、この『シュノック』では特集の最後に16ページに渡るインタヴュー記事があり(後で触れる)、その社長室でスティルスにサンソンとの結婚に反対して、スティルスに力ずくで猿ぐつわをかまされるという目にあっている。

(→)これが1972年のセカンドアルバム"De l'autre côté de mon rêve"のジャケであるが、サンソン自ら評するに「おぞましい黄色のサボと死人のような顔」の写真は1972年夏のツアー(ジュリアン・クレール、ピエール・ヴァシリウ、イヴァン・ドータンなどの一座)の途中で、南仏ラングドック地方のアグドにあるピエール・ヴァシリウの家で撮影されたもの。その「死人のような顔」は前夜のヴァシリウの家での地獄のような乱痴気パーティーのせいだ、と。それに続くエピソードがヴェロ自身の口から;

でもその日次のツアー目的地マノスクに向けて出発しなければならなかった。ピエールは愛車ポルシェを持っていて、ひとりだけで車で行くのいやだったから私に同乗してと頼んだの。みんな疲労困憊していて、二日酔いの顔してたから、私はピエールに言ったの「(マノスクの)劇場が燃えちゃったらどんなにいいだろうね!そうよ、みんなで劇場が火事になるよう祈ろうよ。」そしてマノスクに着いたら... 劇場が火事に遭ってたの!コンサートは中止だって。私たちは、まさか、と信じられなかった。幸いにして劇場は炎で焼け落ちたわけではなく、ボヤで済んだんだけど。みんな仰天したわよ。それ以来、私は二度と’劇場火事呪い”を試そうとはしなくなったんだけど、でもね、そうなってほしいと思ったことは何度もあるわよ。
(『シュノック』No.47 p29)
(←サンソン、ヴァシリウ、ジュリアン・クレール、1972年夏)(↑)このサンソン自身の『シュノック』インタヴューも他の芸能誌や音楽誌では見られない珍情報にあふれているし、他の証言者たち(姉ヴィオレーヌ・サンソン、ヴィオレーヌとヴェロニクと1969年にトリオ「ロッシュ・マルタン」を組んでいたフランソワ・ベルナイム、1981年にヴェロニクをスティルスから引き離しフランスに連れ帰った当時の恋人/ギタリストのベルナール・スウェル、息子クリストファー・スティルス、既出記事の再録だが母親の故コレット・サンソン、そしてヴェロをメジャーデビューさせた当時のWEA社長ベルナール・ド・ボッソン)もみな一風変わって非常に面白い。クリストファー・スティルスが道で人に呼び止められて「私、あなたのお母さんで大きくなったのよ」と言われ、それに答えて「僕もですよ」と返すあたり、『シュロック』ならではと思うよ。

 さてこの『シュノック』サンソン特集で、最も興味深くかつ衝撃的だったのが、特集最後部に掲載されたベルナール・ド・ボッソンの16ページに渡るロングインタヴューだった。(→写真1973年ベルナール・ド・ボッソンとスティーヴン・スティルス) 元ジャズ・ピアニスト、典型的なセルフメイドマンで、自己流でポリドール、バークレイのA&Rを経て、1969年パリで出会ったアーメット・アーティガンに見初められ(この時同時にスティーヴン・スティルスとも邂逅し親友になっていく)、1971年アーティガン指名でWEAフランスの社長に。
 その71年夏、社長室にはアメリカ本社から二人の経理担当者が来て「繰越税金」の処理について頭の痛い話を長々と。そこへジャン=ピエール・オルフィノ(制作ディレクター)から電話「ベルナール、緊急だからすぐに来てくれ」。

「ジェントルメン、申し訳ないが、レコード会社のボスとしての仕事が入ってしまった。続きは今夜夕食の時に」と私は退席し、ワグラム大通りの見たこともないような汚いスタジオに。中庭の奥の奥に、まるで庭の奥の小屋(訳注;田舎家の便所)のようなところがあり、私は中に入った。真っ暗だ。私はキャビンの中にたどり着いた。真っ暗だがVUメーターだけがほのかな灯りを放っていて、私はシルエットでミッシェル(ベルジェ、WEAの新任制作ディレクター)とオルフィノがいるのがわかった。そこには鏡があるのがわかったがほかは何も見えなかった。(ベルナール・ボッソンは感情の昂りのため、しばし言葉を詰まらせてしまった)... すまないね。これを話すといつもこうなってしまうんだ。(彼は大きく深呼吸して、目を輝かせた)... 私は何も見えなかったが、ピアノの音が聞こえてきた、続いて歌声が、その瞬間、私は涙で崩れてしまったんだ。私は自分の名前を思い出せないほど衝撃で打ち砕かれてしまった。それは女の声だった、それは確かだ、だがその女が大きいのか小さいのか痩せているのか太っているのか年寄りなのか若いのか美しいのか醜いのか、私には何もわからなかった。この声を聞いただけで、私は涙が止まらなくなってしまったんだ。私は人生でこれと同じエモーションを一度だけ経験したことがあった、それはそれより10年前、パレ・デ・スポールでレイ・チャールズを見た時だった。彼がひとりピアノに向かい”Come rain or come shine"を歌い始めた瞬間、崇高さの極み、ブン、ナイフのひと突きさ。私はその時と同じ体感を覚えたんだ、ヴェロが「アムールーズ」を歌うのを初めて聞いたとき!私はむしり取られる思いがした。私の人生すべてにおいて、私はこうやってエモーションに正直に従ってやってきたんだ。私は二人の野郎の手を握りしめ、「おまえら、この女と契約しなかったら、俺はおまえらを殺すぞ!」と言ったんだ。ヴェロニク・サンソンの件はこうやって始まったんだ。そして私は彼女に話しかけることも顔を見せることもせずに立ち去った。彼女と対面するのはその1ヶ月半のことだった....。(p106)

読んでわかるように良い意味で昔かたぎのレコード会社社長気質、つまり惚れたアーチストとの音楽冒険に”賭ける”タイプ。21世紀以降もうこんな社長いないですよ。ボッソンのインタヴューではサンソンだけでなく、ミッシェル・ベルジェ、フランス・ギャル、ジャン=ジャック・ゴールドマンなどのエピソードも登場する。しかしこの特集なので、当然サンソンとスティルスの話がメインになる。69年以来の旧知であるスティーヴン・スティルスは、72年3月ボッソンの社長室で初めて(発売前の)サンソンのファーストアルバムを聴き、
「こんなものこれまで聞いたことないよ!世界でこんなふうに歌える女、どこにもいないさ!」と言ったので私は言い返して「おいおい、興奮するなよ、おおげさだよ、世界にはジュディー・コリンズもジョニ・ミッチェルもいるじゃないか」と。そしたら「俺はそのふたりとは暮らしたことがあるんだ!」...(p108)

笑っちゃう話である。72年3月27日、スティルスのバンド、マナサスのパリ・オランピアでのコンサートの翌日、ボッソン社長室でスティルスとヴェロニクは火花散る電撃の初対面、スティルスはテックス・アヴェリーアニメの目玉をハート型にして吠えるオオカミのようだったとボッソンは表現している。そこからの狂気のラヴストーリーはもう詳説しなくていいと思うが、ボッソンはそれを近距離から見ていてむしろ後押しをしてような印象があるが、結婚には強硬に反対していた。親友同士だったスティルスとボッソンがこの結婚の件で諍いになり、前述したように社長室でボッソンのネクタイで暴力的にボッソンに猿ぐつわをかませるという結果になっている。スティルスは身内で唯一結婚に異を唱えたボッソンとその後絶交状態になる。1987年3月、ボッソンはWEAフランス社長を解任され、その最後の出張でニューヨークに飛び、ミュージカル『レ・ミゼラブル』(作曲演出クロード=ミッシェル・シェーンベルグ)のブロードウェイ初演に立ち会う。ショーが終わりホテルに帰ると、「Please call back Mr Stephen Stills」のメッセージ。ボッソンはロサンゼルスにいるスティルスに電話する。1973年以来初めてふたりが口を開く。
「ベルナール、あんたが社長職を去ると聞いたよ。俺がずっとあんたのことを思っていたということをあんたに知って欲しかったんだ。あんたにずっと前から言いたかったことがあるんだけど聞いてくれるかい? You have been the only one to have the guts to tell us that it was a real mistake to get married together. そのことで俺はあんたに感謝したかったんだ...」(p111)

いい話じゃないですかぁ...。このボッソンの16ページを読めただけで、この『シュノック』サンソン特集はたいへんな価値を獲得したのでありました。

(←)2018年7月、ラ・ロッシェルの「フランコフォリー」フェスティヴァル(ヴェロニク・サンソン+スティーヴン・スティルス+クリストファー・スティルスのおそらく最後の共演ステージが実現)の楽屋でのスティルス、サンソンとベルナール・ド・ボッソン。(写真ローラン・カリュ)

(↓)その時の演奏シーンが少しだけこのYouTube動画に(2分43秒めから3分07秒まで


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