2023年6月1日木曜日

しこりの父


Marouane Bakhti "Comment sortir du monde"
マルワン・バクティ『いかにしてこの世界から抜け出すか』

ず本の体裁から。やや小柄の幅12センチ縦17センチ、右端の上下が丸くカットされている。表紙本文ページとも淡いピンク色。サンリオショップで見かけそうな”ファンシー”なつくり。およそ硬派の文学作品とは想像できないだろう。これはパリの新座の出版社 Les Nouvelles Editions du réveil ("めざめ新出版社”)の第一回めの出版物。特徴的な縦長装本のActes Sud社と同じように、外見で他社出版物との違いを、という方針なのだろう。しかし私はこれは成功してるとは思わないし、文学書を手にしているという感じがしない。人の好みはそれぞれでしょうが。
 フランス西部ロワール・アトランティック県の首邑ナント出身、1997年生れの現在25歳の作家マルワン・バクティの第一小説。小説の話者は一人称単数の”Je"。名前は一度も登場しないが、作者自身を投影したオートフィクションと読める。
 話者の父はモロッコ人、母は「地元人」すなわちブルターニュの女。子供は話者の他に弟と妹。この家族はロワール・アトランティック県のとある町の人口密度の少ない地区、つまり街区から離れて森や沼地など自然に近いところに一軒家で暮らしている。父は工場労働者、母はたぶん専業主婦。とりたてて孤立しているわけではなく、父方の祖父母(モロッコ人)も母型の祖父母も遠くないところにいて、父方の親戚を含むモロッコ人コミュニティーとも交流がある。主人公はアラブ語をよく理解できない。父親はこの息子にアラブ語を習得するように命じるのだが、叶っていない。
 小説はこのフランスの”地方”という環境での小児→少年時代の話者が実体験した不遇や不条理の呪詛に始まる。この子がいかに不幸であったか。その子の周りで話されるダリジャ(Darija = モロッコアラブ語)がほとんど理解できない。父親は無口であるが強権的であり時に暴力的でもある。父親はこの男児をフツーの男児として育てようとする(スポーツをしろ、球蹴りをしろ...)のだが、この子の”性徴”は早くもフツーとの”違い”を現し始める。作家はホモセクシュアリティーとは書かない。ただ”違い”とだけ表現している。この子はその”違い”は人に明かしてはならないものだと本能的に察知する。この違いを父は気づいただろうか、母は、そして最愛の(母方の)メメ(祖母)は?
Je suis terrifié à l'idée que quelqu'un découvre ce que tout le monde sait déjà.
僕はみんなが既に知っているあのことを誰かが気づくのではないかという考えに恐れ慄いている。
そしてフランスの地方/田舎という環境は、否が応でもこの子に”アラブ”というレッテルを貼り、子供たちの間で嫌われて当たり前の”人種”、虐められるに値する”敵”としてみなされる。加えて性徴の”違い”である。この地方社会の凶暴さを耐え忍ぶ試練は、エドゥアール・ルイのデビュー小説『エディー・ベルグールにけりをつける』(2014年)と共通するものがある。ゆえに、エドゥアール・ルイと同様に、この若者にとってもこの(地方)地獄から脱する唯一の方法は親元を離れ、パリに出ることであった。
 しかしこの主人公はここで大失態をしでかすのである。のちに作家を志すようになるほどもの書きが好きだった少年は、その私的体験を書き溜めていた日記のようなノートが既に数冊あった。男の体や男根のデッサンを含む。それを不在の間に父親に発見されたしまったのである。怒り狂った父は、家の庭でノート全冊を”焚書”に処した。焚書とは(政治的意味においても宗教的にも)強烈な断罪行為であり、この烈火に焼き消されるページのイメージは若者をいよいよ父親と父親の属する世界との完全断絶へと向かわせるのである。
 さて、フランスのゲイ界で定番となっているマッチングアプリは Grindr であり、小説はこのアプリを通じて主人公がくりかえすさまざまな「出会い」も描写されるのだが、常に複数の愛人、複数のセフレがいる状態でありながら、不条理にこの世界から忌避されているようなアンニュイ感はこの若者に常についてまわる。たまに現れる”いい奴”、例外的に気の合ってしまう”いい女”なども登場するが、アンニュイはそれよりも強い。
 そしてかの焚書にも関わらず、彼はときおりモンパルナス駅から電車に乗って実家に帰っていく。絶対不可能な距離と思われた父との隔たりが少しずつ縮まっていく。それは言い換えれば父を少しずつ知っていくことだった。父には不透明なところが多い。まず彼はイスラム教徒ではない。父の周囲はすべてそうなのだろうが、彼は祈祷の仕方も知らなければ、ラマダンもしない。ある葬式の時に祈祷も祈りの言葉も知らない父は、見よう見まねでそれを知っていた”僕”を真似るしかなかった。そして普段は無口なのに時々妻や家族の前であるのも構わず、理由なく激昂して止まらなくなることがある父。何か猛烈なストレスが噴出してしまうような。それに加えて過去について語りたがらないこと。祖父祖母と共に父がモロッコからフランスに渡ってきたのはなぜなのか。これはこの小説の中で明かされることはない。経済的な理由だけなのか。話者はこの故国に背を向けて文化習俗環境を断ち切って異国に渡るということは、非常に痛ましく残酷なことだと思っている。そこに居られなくなったのではないかと想像したりもする。この世界から違うよその世界に行くことを夢見ていた少年の日々の自分と、越境のドラマを生きた父親と、その流謫はまったく違う種類のものなのか。しだいに主人公は父のことを理解したいという願望にかられていく....。
 ブルターニュ生まれのごく浅い根しか持たない主人公は、その根の浅さを呪っていた。モロッコ人とフランス白人の”ハイブリッド”であることを負の要素として考えていた。それが小説の進行につれて、忌み嫌っていた”アラブ”世界との接近、さらにイスラムとの接近も見られるようになる。それは父親との和解が近づけば近づくほどなのである。彼はモロッコ国籍を持っていない。フランスのパスポートしかない。フランスで死んだ祖母の埋葬のために、家族共々遺体と同行してタンジールに渡ったとき、税関でそのパスポートのデリケートな問題を痛感する。モロッコで話者は”故国”の心地よさを満喫する。どうしてフランスに帰らなければならないのか、このままモロッコに留まってもいいのではないか、とすら考える。
Notre vie est en France
私たちの暮らしはフランスにある
と父親は断言する。この父親に「モロッコ国籍を取ろうと思っている」と告げる”僕”、それに対して「必要ない、それは危険すぎる」と答える父。その言葉にモロッコでの同性愛者の置かれた境遇についての含蓄があったのかどうかは小説では明言されていない。この父親のようにそれは単純ではない。

 エドゥアール・ルイにおいて貧困/暴力/性差別/地方因習そのほか自分のあらゆる子供時代の不幸の根源であった父親と決別し、やがて回り回って和解するに至った経緯に比べると、このマルワン・バクティのデビュー小説の息子と父親の和解は時間が短く、悲惨なドラマの性格はない。この133ページの短い小説は、父との和解という大団円に向かう大筋はあるものの、単純ではなく、常に憂愁がつきまとうハイブリッドな魂のさまよいにこそ重点が置かれていて、文体は散文詩に近い。父親のことはまだわかったわけではない、モロッコやイスラムにしてもしかり。上(↑)には私は一言も触れていなかったが、文中で最良の恋人であり話し相手である”S”との関係も鮮明ではない。第一小説/25歳的現在なのであろう。完結などできるわけがない。父親のことを筆頭にすべてにしこりが残って終わっているから、次作を読むしかなくなるんだなぁ。

Marouane Bakhti "Comment sortir du monde"
Les Nouvelles Editions Du Réveil 刊 2023年3月30日 133ページ 18ユーロ

カストール爺の採点:★★☆☆☆

註;記事タイトルの出典はタモリのファーストアルバム(1977年)のB面4曲め”けねし晴れだぜ花もげら”で、その歌い出しは「まぶたの母か、しこりの父か」というものです。

(↓)ボルドーの気骨の独立書店 Librairie Mollat 制作のインタヴュー動画で『いかにしてこの世界から抜け出すか』について語るマルワン・バクティ

0 件のコメント: