2019年11月3日日曜日

ジェーンBと東日本大震災

「日本に行かなければ」と言い出したのはケイトだった。

ジェーン・バーキンが10歳の時からつけ始め、長女ケイト・バリーの死の日(2013年12月11日)に二度と書けなくなったという長大な日記を、二巻に分けて出版した極私的ダイアリー。第一巻めの『マンキー・ダイアリーズ(1957-1982)』(2018年10月刊行)に続いて、第二巻め『ポスト・スクリトム(1982-2013)』 が2019年10月に発表された。第一巻の紹介記事をラティーナ2018年12月号に書いたので、同様に第二巻の紹介も同誌2019年12月号に掲載される予定(現在執筆中)。
言うなれば、第一巻は「ゲンズブール期」の終焉で幕を閉じ、第二巻は「ポスト・ゲンズブール期」と捉えられるのであるが、この女性はこの「ゲンズブールとの絡み」ということに限定されて生きてきたわけではない。読む者の興味がそこにばかり集中すると、とんでもないしっぺ返しを喰らうことになろう。ジェーンBはゲンズブールの呪縛から解き放たれた日から(ゲンズブールの自由になるあやつり人形を拒否した日から)、「おつむの足りないお色気タレント」を脱皮し、作家主義映画(ジャック・ドワイヨン、ジャック・リヴェット、アニェス・ヴァルダ...)の女優となり、演劇界の風雲児パトリス・シェロー(1944-2013)の舞台女優となり、移民支援/チェチェン/ボスニア/ビルマ(アン・サン・スー・チー)などのために行動する社会派闘士としても重要な役割を果たしている。そして歌唱アーチストとしても大きな変化を感じ取ったのであろう、ゲンズブールは同居時代よりも別離のあとの方がはるかに高度な叙情の楽曲をジェーンBに提供するのである。それらはとりもなおさず最良のゲンズブール楽曲として後世に残るのであるが。これらのことはラティーナ記事の方に詳説するので、ぜひ参照してください。
さて、社会派行動人ジェーンBの大きな仕事のひとつに、2011年東日本大震災の被災者支援があり、中島ノブユキをはじめとした日本のミュージシャンたちを従えて日本と世界を3年がかりで回った "Jane Birkin sings Serge Gainsbourg VIA JAPAN"ツアーで多額の義援金を集めたのである。この大震災に打ちひしがれた東北のためにジェーンBが立ち上がった経緯に関して、この日記の中に記述があるので、その部分を訳してみる。

日本であの津波があった時、私はそのニュースをテレビで見ていたが、その日の真夜中にケイトが電話してきて「すぐ東京に行かなければ」と言った。私は全くケイトの言う通りだと思い、翌日から日本行きのフライトを探した。セルジュにとっても私にとっても20年も前からツアーでたくさんの幸福な思い出を与えてくれた日本のことなのだから。かつてデュマというフランス人(註:フランソワ・デュマ、ハイライフ・インターナショナルというプロモーション会社の代表で、90年代にフランスとワールドのアーチストを多く招聘していた)がいて、私たちを何度も日本に呼んでくれ、「アクワボニスト(無造作紳士)」は外国盤の売上げ1位になったこともあり、「アラベスク」(註:2002年、モロッコ出身のヴァイオリニストのジャメル・ベンイエレスら北アフリカ系のミュージシャンのバンドで、ジェーンBがゲンズブール楽曲をアラビックなアレンジで再録音したアルバム『アラベスク』とそれに続く同じミュージシャンでの世界ツアー)のコンサートは東京だけでなく日本のさまざまな都市を回った。日本の人たちがこの大災害に遭ったというときに、私がその救済支援のためにコンサートで歌いに行くのは至極当然のことではないか? 私はケイトと私のチケットを手配したが、ケイトは土壇場で行けなくなり、数週間後に日本で合流するということで、私ひとりで出発した。私は日本の私のプロデューサーであるサシコ(まま。註:中西幸子氏)に、私がセルジュの曲を数曲歌えるように何人かミュージシャンを見つけておいてほしいと頼み、その結果私は中島ノブユキと出会い、彼とその友人たちでバンドを組むことができた。私は最初ノブは単なるピアニストだと思っていたが、あとで彼は映画音楽の作曲家であることがわかった。グリュズマン(註:オリヴィエ・グリュズマン、ジェーンBのマネージャー)はシャトレ劇場で多くのフランスのアーチストたちを動員したツナミ被災者支援の大コンサートをオーガナイズし、ベルナール・シェレーズ(1959-2013 国営ラジオ音楽ディレクター)はこの模様を国営フランス・アンテール局で2時間生放送中継した。そのあとアメリカでの数回のコンサートのために、私はノブにオーケストレーションを依頼した。この一連のコンサートは「ヴィア・ジャパン Via Japan」と銘打たれた。コンサート会場ではフクシマの女性たちのための小さなブレスレットが売られた。この非常に大きな成功のおかげで、私たちはその続きで日本人とヨーロッパ人混合のバンドでヨーロッパ中を周り、さらにアジア諸国をオリジナルの日本人バンドで周り、そのライヴ録音で『ヴィア・ジャパン』というアルバムを発表した。(....)
ケイトは4月に福島に行って写真を撮り、後日その展示会を京都で行った。

(Jane Birkin "Post-Scritum" p390-391)

JANE BIRKIN "POST-SCRITUM"
FAYARD刊 2019年10月 425ページ 23ユーロ

(↓)国営ラジオ FRANCE INFO イザベル・レイエによるインタヴュー(2019年11月1日)

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