2019年10月24日木曜日

Could it be まじ(っすか?)

『212号室』
"Chambre 212"

2019年フランス映画
監督:クリストフ・オノレ
主演:キアラ・マストロヤンニ、ヴァンサン・ラコスト、カミーユ・コタン、バンジャマン・ビオレー
2019年カンヌ映画祭主演女優賞(キアラ・マストロヤンニ)
フランスでの公開:2019年10月9日

所はパリ14区モンパルナス界隈、地下鉄ヴァヴァン駅とエドガール・キネ駅をつなぐドランブル通り(Rue Delambre)、藤田嗣治や米ロスト・ジェネレーション作家群などのゆかりの地であり、ヴァヴァン側から見ると最初にビストロ・デュ・ドーム(Bistrot du Dôme)があって、道のず〜っと奥にモンパルナス・タワーが見える。その16番地に独立系の映画シアターとして名高い「セット・パルナシアン(Les 7 Parnassiens)」があり、その向いの15番地にヘンリー・ミラーやマン・レイが常宿にしていたホテル・ルノックス(Hôtel Lenox)がある。この16番地と通りを挟んで向かいの15番地、これを中心にした数十メートルのドランブル通り空間を、クリストフ・オノレはスタジオ内セットにしたのである。
 個人的なことで恐縮だが、1980年代の中頃、その約10年後に私の奥様になる女性がダランブル通りに2年ほど住んでいて、私はしょっちゅう通っていたのでこの界隈はとても思い出があるのです。映画館もよく行ったし、よく朝買いに行かされた5番地のパン屋も、ホテル・ルノックスの数軒先にあったインド料理屋も、映画館の隣にあった焼肉レストラン「東京」も...。それはそれ。
 さて映画はそのドランブル通りの映画館の入り口のある建物の2階(日本式には3階)のアパルトマンに住んでいる夫婦の突然の破局が発端である。歴史学の大学教授であるマリア(演キアラ・マストロヤンニ)は、出不精・非活動的・メランコリックだが貞節な夫であるリシャール(演バンジャマン・ビオレー)の知らぬところで、その旺盛なリビドーを発散させるために数多くのセフレ(大多数は教え子たち)をつくってきたが、結婚25年になった今、ある冬の雪の日(昔ながらのスタジオ内映画セットに降る雪、美しい)に、初めて妻のスマホに畳みかけて受信されるセフレからのしつこいメッセージを見てしまった夫が動揺する。「いつからこんなことになっているのか?」「あら、ずいぶん最初の頃からよ」とあっけらかんと答えるマリア。リビドーの処理にはしかたないじゃないの、そんなの愛情とは何の関係もないわ。ー お立ち会い、これは世間的にはマッチョな「男の理屈」だったわけですよ。欲望のままに生きることが許容されていた側のリクツである。この論を妻一筋に25年間貞節に生きてきた夫の前で展開するわけだから、リシャールは一体俺の25年間は何だったのか、と崩れていく。そんな男を正視できなくなったマリアも、自分の過去・現在・未来を考え直す必要がある、とその雪の夜、アパルトマンをこっそり抜け出し、向かいのホテル・ルノックスの212号室に投宿する。この212号室の窓から、ドランブル通りを挟んだ向かい側に、リシャールがひとり取り残されたアパルトマンが丸見え、というスタジオセット映画のトリック。
 ここから奇想天外ストーリーが始まり、この212号室に次々と闖入者が。まず今から20年前のリシャール(演ヴァンサン・ラコスト)登場。これが20年後の自分(アパルトマンの中に一人残され、なんともみすぼらしい部屋着姿で自暴自棄になっている)を窓越し・通り越しに見ながら、こんな結果を招いたマリアを激しくなじる。そんな若いリシャールに魅了され、逆に誘惑してしまうマリア ー 若い頃の夫に浮気することは夫への不倫にならないというロジック! ー この映画でキアラ・マストロヤンニは四六時中全裸で、生身の47歳(美しいとは言えないけれど生身の裸体)を曝け出しているのだけど、リビドー丸出しというわけでは全くなく、肉体の悲しさも出てしまっているところがクリストフ・オノレの狙いであろうな。
 次いで登場するのが、リシャールが少年の頃から恋い憧れていたピアノ教師イレーヌ(演カミーユ・コタン、素ン晴らしい!)で、リシャールが出会った頃の年齢で現れた彼女は、少年→青年→成人までリシャールの心を奪い誘惑し、性のイロハまで教えた過去を持ち出し、マリアという結婚相手の登場によって「禁じられた年上の女」は姿を消すことになったが、あの時姿を消さなかったら、リシャールの人生は全く違うものになっていたという仮説をヴィジュアル化してリシャールを再誘惑する。その再誘惑の矛先は若リシャール(ヴァンサン・ラコスト)に始まって、次いで通りの向かい側のアパルトマンにいる現リシャール(バンジャマン・ビオレー)に魔手を伸ばしていく。これを必死になって止めようとするマリアだったが、イレーヌはここで(あの頃のあのままで進んで行っていれば)生まれていたはずの赤ん坊まで登場させて(あなたの子よぉっ!)、違う人生の道へと強引に誘うのである。
キアラ・マストロヤンニはこの映画の文字通りの体当たり演技でカンヌ映画祭主演女優賞を受賞したが、私はこの映画はカミーユ・コタンの怪演の功績の方が上だと思っている。クーガー/ルーザーの逆襲、しかもマリアよりも一枚も二枚も役者が上の悪魔のような誘惑者。このカミーユ・コタンという言わば「遅れてきた女優」は、30代後半でテレビ(カナル・プリュス)の2分寸劇「コナス Connasse」(どうしようもない高慢軽薄パリ娘役)で出てきた人。こんな強烈な高慢軽薄イメージのついてしまった芸人が、どう脱皮できるのかと心配だったが、え?の女優変身に成功。このブログでもひと月前に紹介したセドリック・クラピッシュの『ふたりの自分 Deux Moi』でも、主人公アナの気難しくも的を得た心理カウンセラー役で、え?の怪演。たしかな個性派女優の地位にたどり着いたコタン、祝福してやりたいです。
 さて映画は、マリアとリシャールの過去と現在が交錯して、マリアのリシャールのそれぞれの違う人生の仮説/可能性を、マリア+過去リシャール+現リシャール+過去イレーヌの4つのパーソナリティーの絡み合いで可視化していき、その他にマリアの母と祖母の亡霊まで出てきてその男グセの悪い血筋をばらしたり、賢者の化身で「意志 la volonté」と名乗るシャルル・アズナヴールの歌ばかり引用するステージ衣装男が登場したり、それに加えてマリアがハントしたあらゆる人種の十数人の若いセフレたちも212号室に押し寄せてきて...。この大混乱の上に、しんしんと雪は降ってくる。美しい。
 イレーヌは結局リシャールの心を取り戻すことができない。打ちひしがれたイレーヌにマリアはシンパシーまで感じるようになり、一緒にイレーヌが25年前にパリを捨てて隠居したピカルディー地方ソム湾の海辺の家へ行ってみると、そこには過去とすっぱり切れてサバサバと達観して生きる老女イレーヌ(演キャロル・ブーケ!)がいて、過去イレーヌ(カミーヌ・コタン)の未練をカラカラ笑うのだよ。
 こんな奇想天外だが、アラン・レネやベルトラン・ブリエといったフランス映画の先人たちがやってきたシュールでファンタジーなコメディー仕立ての映画。音楽は前述したようにシャルル・アズナヴールが多用されている。これはクリストフ・オノレのアズナヴールへのオマージュであろう。
 そして終盤の大団円と呼べるシーンは、ドランブル通り11番地のバー「ローズバッド」にかのセフレ連中を含んだ全員がそれぞれのテーブルについてドリンクを。元ピアノ教師イレーヌがバーのピアノで、ポロン、ポロンとショパンのプレリュード20番を弾き、そこから自然の流れのように(それが原曲なので当たり前か)"Spirit move me, every time I'm near you..."とイレーヌが歌い出し、バリー・マニロウ"COULD IT BE MAGIC"になってしまう。歌詞どおり、ここがこの映画のマジックの瞬間なのだ。大混乱はこの美しいメロディーで和解と収拾に昇華していき、4人(マリア、過去リシャール、現リシャール、過去イレーヌ)がチークダンスを踊るのだよ。踊りの輪はバー全体に広がり、メロディーはバーのレコードプレイヤーに取って代られバリー・マニロウのそれがほぼフルコーラス(6分)聞かされることになるだが、なんというしあわせ。この大団円、すべて許せる。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『212号室』 予告編


(↓)『212号室』 サウンドトラックよりバリー・マニロウ"COULD IT BE MAGIC"


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