"Soeurs"
『三姉妹』
2019年フランス映画
監督:ヤミナ・ベンギギ
『三姉妹』
2019年フランス映画
監督:ヤミナ・ベンギギ
主演;イザベル・アジャーニ、ラシダ・ブラクニ、マイウェン、アフシア・エルジ
フランスでの公開:2021年6月30日
まずヤミナ・ベンギギ(1955 - )という映画監督(および政治家)について断っておかなければなりません。(アルジェリア独立前)父は政治家/独立運動活動家で、母と共に北フランスに住んでいた頃、ヤミナは生まれた。父は北フランスでのアルジェリア独立運動の地下工作の廉でフランス当局に逮捕投獄されている。アルジェリア独立後も一家はフランスに残り、ヤミナは強権的な父の監督から逃れるために、父の意に沿って若年結婚しているが、父がアルジェリアに戻ったあと離婚している。母と兄弟姉妹らはフランスに残っている(←この事情が今回の映画の自伝的要素である)。90年代からフランスのテレビと映画の制作者として、文化面における諸外国からの移民とフランス同化をテーマにした報道番組やドキュメンタリーおよびフィクション作品を発表している。イスラムとフランス、ヒジャブ、アフリカ奴隷制の歴史、ネルソン・マンデラなど題材は多彩だが、ひとつ特記したいのは、自ら重度の中毒者だったケイト・バリー(1967 - 2013、ジェーン・バーキンの長女)が開設した麻薬中毒/アルコール依存症の(薬物を一切使わない)セラピー・センターを長期取材したドキュメンタリー『ケイトの家、希望の場所』(国営TVフランス2、1996年)である。フィクションでは2009年から11年まで4本放映されたフランス2のテレビ連ドラ『アイシャ』(アルジェリア移民2世の娘 アイシャをめぐる郊外コメディー)が毎回視聴率20%超えの大ヒット。("Soeurs"撮影中のヤミナ・ベンギギとイザベル・アジャーニ→) 政治の分野では2008年から12年までパリ市長ベルトラン・ドラノエ(社会党、チュニジア出身、ゲイ)の人権担当副市長、2012年から14年までオランド大統領下ジャン=マルク・エロー内閣のフランコフォニー(フランス語圏世界)担当大臣となっている。
しかし2014年、2005年に遡る巨額の個人財産の申告漏れが明るみに出され、パリ市長アンヌ・イダルゴらが公職辞任をベンギギに迫る。法廷では2015年の初審、16年の再審共に有罪。公職辞任はせずパリ市評議員およびパリ10区区議会議員として席をキープしているが、社会党からは除名されている。という事情もあり、かつての移民/人権・女権/フランス語文化圏の第一線の行動的映画人だったヤミナ・ベンギギは評判をかなり落としていることは確か。フランスでのこの映画のプレス評価がイマイチなのは、微妙にこのことが関係しているかもしれません。
フランスでの公開:2021年6月30日
まずヤミナ・ベンギギ(1955 - )という映画監督(および政治家)について断っておかなければなりません。(アルジェリア独立前)父は政治家/独立運動活動家で、母と共に北フランスに住んでいた頃、ヤミナは生まれた。父は北フランスでのアルジェリア独立運動の地下工作の廉でフランス当局に逮捕投獄されている。アルジェリア独立後も一家はフランスに残り、ヤミナは強権的な父の監督から逃れるために、父の意に沿って若年結婚しているが、父がアルジェリアに戻ったあと離婚している。母と兄弟姉妹らはフランスに残っている(←この事情が今回の映画の自伝的要素である)。90年代からフランスのテレビと映画の制作者として、文化面における諸外国からの移民とフランス同化をテーマにした報道番組やドキュメンタリーおよびフィクション作品を発表している。イスラムとフランス、ヒジャブ、アフリカ奴隷制の歴史、ネルソン・マンデラなど題材は多彩だが、ひとつ特記したいのは、自ら重度の中毒者だったケイト・バリー(1967 - 2013、ジェーン・バーキンの長女)が開設した麻薬中毒/アルコール依存症の(薬物を一切使わない)セラピー・センターを長期取材したドキュメンタリー『ケイトの家、希望の場所』(国営TVフランス2、1996年)である。フィクションでは2009年から11年まで4本放映されたフランス2のテレビ連ドラ『アイシャ』(アルジェリア移民2世の娘 アイシャをめぐる郊外コメディー)が毎回視聴率20%超えの大ヒット。("Soeurs"撮影中のヤミナ・ベンギギとイザベル・アジャーニ→) 政治の分野では2008年から12年までパリ市長ベルトラン・ドラノエ(社会党、チュニジア出身、ゲイ)の人権担当副市長、2012年から14年までオランド大統領下ジャン=マルク・エロー内閣のフランコフォニー(フランス語圏世界)担当大臣となっている。
しかし2014年、2005年に遡る巨額の個人財産の申告漏れが明るみに出され、パリ市長アンヌ・イダルゴらが公職辞任をベンギギに迫る。法廷では2015年の初審、16年の再審共に有罪。公職辞任はせずパリ市評議員およびパリ10区区議会議員として席をキープしているが、社会党からは除名されている。という事情もあり、かつての移民/人権・女権/フランス語文化圏の第一線の行動的映画人だったヤミナ・ベンギギは評判をかなり落としていることは確か。フランスでのこの映画のプレス評価がイマイチなのは、微妙にこのことが関係しているかもしれません。
さて映画"Soeurs"は、在仏アルジェリア系女優オールスター共演。30年もの間、祖国主人エリアと父と離れ、母レイラ(演フェトゥーマ・ブーアマリ)とフランスで暮らす3人姉妹、ゾラ(演イザベル・アジャーニ)、ジャミラ(演ラシダ・ブラクニ)、ノラ(演マイウェン)。映画冒頭は、三女のノラが失業し、住居を追い出され、しばらく母レイラの家に居候することになって、ウーバーでたくさんのスーツケースを持ってやってくるシーン。急かすウーバー運転手に逆らい、ケースをトランクから下ろさない。不平の塊にして世の中への順応性ゼロ。マイウェンの"地”のような演技。就職してもすぐ解雇される。劇作家/舞台演出家として活躍する長女ゾラ、郊外の小さな市の市長となっている次女ジャミラに比べてどうしようもなく出来の悪いノラ。それが情緒破綻であり精神疾患であるということが映画が進むにつれてわかっていく。
ノラは私がこんなふうになったのは、すべて母レイラが父アハメドと離婚したせいだと決めつけている。父親とアルジェリアに残っていれば違う人生があったはずだ、という恨み言。なぜ離婚したのか、ノラの糾問に母レイラは「おまえたちの自由のためだ」と答える。
長姉ゾラは長年のプロジェクトで、母と自分たちが生きた体験をベースにした劇作品を作ろうとしていて、予算も上演日程も決まり、舞台稽古も始まっている。演劇人としてゾラには迷いがあり、自分を曝け出し、母や父や姉妹たちを曝け出してしまうこの劇作品が少しずつ形になっていくにつれて、ナーヴァスになり、徹夜で書き直しを繰り返し、抑えのきかない涙を流す。母親レイラの(22歳当時の)役を演じるのは、ゾラの娘のファラ(演アフシア・エルジ、いつもいつも素晴らしい)なのだが、この「家族」を題材にした劇を作っていることを(ゾラが切り出す前に)ファラは家族に口外してしまう。ノラ、ジャミラ、そして母レイラは猛反対し、この劇の制作を中止させようとするが、ゾラはこれは後には引けないものだと知っている、自分の命をかけたような劇だから。
映画は劇中劇のかたちでこの芝居のリハーサルを挿入して、この家族のストーリーをなぞっていく。アルジェリア独立建国の理想に燃えたアハメド、祖国を植民地化し隷属したフランスへの憎しみ、独立運動に加担して捕らえられた女性たちへの拷問・強姦シーンもあり、アハメドは娘3人にアルジェリア祖国愛を叩き込み、食卓で国歌を斉唱させる。そして妻レイラに暴力を振るう。独立の英雄にして家庭の暴君であるアハメドは、長女ゾラが十代半ばになった時、彼が選んだ結婚相手に嫁がせる決定を。これにだけは母レイラは絶対的に承服できず、「娘たちの自由のために」夫に離婚をつきつける。劇中劇で刃物まで飛び出すDVシーン、アルジェリアの女たちの堕落の元凶をフランス化/欧米化と断じるアハメドが、レイラを椅子に縛りつけ口に漏斗(じょうご)を突っ込み無理矢理フランスワインを流し込む → この舞台稽古を見ていた次女ジャミラがたまらず舞台に上がりこみ、稽古を中止させるシーンあり。
離婚後レイラが子供たち(三姉妹とその下の幼い弟)を連れてフランスに逃亡するたくらみと見抜いていたアハメドは、三女ノラと幼い長男を誘拐して隠匿する。三女ノラはやっとのこと探し出して連れ出すことができたが、幼い男児は救出できない。母と三姉妹はフランスへ。だが母から消えない一生の願いは息子を取り戻すこと...。
ノラの精神的トラウマのすべてはここにある。三姉妹で最も「おとうちゃん子」だったノラは、この誘拐劇は父アハメドが自分を特別に好きだったからに他ならないと考える。母と姉二人には「自由への逃走」だったかもしれないが、ノラには愛する父と引き裂かれたことなのだ。私がフランスにいるのは理不尽で不条理なことであり、私は母の犠牲になって不幸な生を(冷たい国)フランスで送っている。
ゾラの劇制作は行き詰まり、書き直しに眠れぬ夜ばかり過ぎていく。そんな時に、母レイラにアルジェリアから電話の報せが届く。アハメドが脳卒中(AVC)で倒れ、余命長くない、と。レイラは三姉妹にアルジェに飛べ、アハメドの息のある間に息子の居所を聞き出し、私の元に連れて来い、と。
30年もの間、足を踏み入れていない故国アルジェリアへの旅はゾラがリーダーシップを取って妹二人を引き連れて行ったが、三女ノラの乱れ方は尋常ではない。嘔吐し、極度に興奮し、父の収容されている病室入りを拒否して暴れる。私から引き裂かれた父、私から引き裂かれた祖国、アイデンティティーの在り処、これらがすべて目の前に現れてしまうことへ、ノラは全く準備が出来ていない。錯乱する。このマイウェンの演技は、彼女自身の映画『DNA(原題ADN)』(2020年)と重なるところがある。この激しさは明らかにイザベル・アジャーニを喰ってしまっている。(若い頃だったら、これがアジャーニそのものだったのに、とその狂気の表現力を考えてしまう)
映画はゾラの劇と同じように座礁し、旅は答えのない旅になる。父は三姉妹とまみえることなく死に、弟のことは不明のまま。しかしその旅で出会ってしまうのは、アルジェリア民主化運動HIRAK(2019年ブーテフリカ大統領退陣要求に始まり、2021年現在も続いている大規模大衆運動)の人、人、人...。ヤミナ・ベンギギ監督は、このポジティヴなイメージの中に映画の結末を刷り込もうとするのであるが...。
私はこれは詰めすぎだと思う。おそらく一世一代の戯曲を作るはずだった劇作家・演出家ゾラ(演イザベル・アジャーニ)の内部葛藤が映画の中心であるべきところが、スキゾフレニア傾向が著しい三女ノラ(演マイウェン)の激しい情動によって見えなくなっている。素晴らしい女優ラシダ・ブラクニは政治家という役どころでおそらくヤミナ・ベンギギが最も自分に近いポジションであったろうが、(狂気の入った長女と三女に比較すれば)並みの良識人でしかなく、ちょっと可哀想。アルジェリアとフランスの歴史の問題はステロタイプ化された描き方であり、男性原理社会は戯画的であり、女性たちの忍従は見るに耐えない。これはマイウェン映画『DNA』の紹介記事でも書いたことだが、個人のアイデンティティーの根っこをアルジェリアという「国」、フランスという「国」に集約させる考え方に私は同意しない。個人史の複雑な複合要素を十把一絡げで「ルーツ」起因論の中で説明できるとは私は断じて思わない。そういうHIRAK的シチュエーションだったからと言われても、この映画の中で現れるアルジェリア国旗の多さよ。それを背負っての三大在仏アルジェリア女優の共演、ということであれば、ちょっと違うんじゃないの、と言いたい。とりわけ、大女優イザベル・アジャーニが可哀想だ。・
カストール爺の採点:★★☆☆☆
(↓)『三姉妹(Soeurs)』予告編
長姉ゾラは長年のプロジェクトで、母と自分たちが生きた体験をベースにした劇作品を作ろうとしていて、予算も上演日程も決まり、舞台稽古も始まっている。演劇人としてゾラには迷いがあり、自分を曝け出し、母や父や姉妹たちを曝け出してしまうこの劇作品が少しずつ形になっていくにつれて、ナーヴァスになり、徹夜で書き直しを繰り返し、抑えのきかない涙を流す。母親レイラの(22歳当時の)役を演じるのは、ゾラの娘のファラ(演アフシア・エルジ、いつもいつも素晴らしい)なのだが、この「家族」を題材にした劇を作っていることを(ゾラが切り出す前に)ファラは家族に口外してしまう。ノラ、ジャミラ、そして母レイラは猛反対し、この劇の制作を中止させようとするが、ゾラはこれは後には引けないものだと知っている、自分の命をかけたような劇だから。
映画は劇中劇のかたちでこの芝居のリハーサルを挿入して、この家族のストーリーをなぞっていく。アルジェリア独立建国の理想に燃えたアハメド、祖国を植民地化し隷属したフランスへの憎しみ、独立運動に加担して捕らえられた女性たちへの拷問・強姦シーンもあり、アハメドは娘3人にアルジェリア祖国愛を叩き込み、食卓で国歌を斉唱させる。そして妻レイラに暴力を振るう。独立の英雄にして家庭の暴君であるアハメドは、長女ゾラが十代半ばになった時、彼が選んだ結婚相手に嫁がせる決定を。これにだけは母レイラは絶対的に承服できず、「娘たちの自由のために」夫に離婚をつきつける。劇中劇で刃物まで飛び出すDVシーン、アルジェリアの女たちの堕落の元凶をフランス化/欧米化と断じるアハメドが、レイラを椅子に縛りつけ口に漏斗(じょうご)を突っ込み無理矢理フランスワインを流し込む → この舞台稽古を見ていた次女ジャミラがたまらず舞台に上がりこみ、稽古を中止させるシーンあり。
離婚後レイラが子供たち(三姉妹とその下の幼い弟)を連れてフランスに逃亡するたくらみと見抜いていたアハメドは、三女ノラと幼い長男を誘拐して隠匿する。三女ノラはやっとのこと探し出して連れ出すことができたが、幼い男児は救出できない。母と三姉妹はフランスへ。だが母から消えない一生の願いは息子を取り戻すこと...。
ノラの精神的トラウマのすべてはここにある。三姉妹で最も「おとうちゃん子」だったノラは、この誘拐劇は父アハメドが自分を特別に好きだったからに他ならないと考える。母と姉二人には「自由への逃走」だったかもしれないが、ノラには愛する父と引き裂かれたことなのだ。私がフランスにいるのは理不尽で不条理なことであり、私は母の犠牲になって不幸な生を(冷たい国)フランスで送っている。
ゾラの劇制作は行き詰まり、書き直しに眠れぬ夜ばかり過ぎていく。そんな時に、母レイラにアルジェリアから電話の報せが届く。アハメドが脳卒中(AVC)で倒れ、余命長くない、と。レイラは三姉妹にアルジェに飛べ、アハメドの息のある間に息子の居所を聞き出し、私の元に連れて来い、と。
30年もの間、足を踏み入れていない故国アルジェリアへの旅はゾラがリーダーシップを取って妹二人を引き連れて行ったが、三女ノラの乱れ方は尋常ではない。嘔吐し、極度に興奮し、父の収容されている病室入りを拒否して暴れる。私から引き裂かれた父、私から引き裂かれた祖国、アイデンティティーの在り処、これらがすべて目の前に現れてしまうことへ、ノラは全く準備が出来ていない。錯乱する。このマイウェンの演技は、彼女自身の映画『DNA(原題ADN)』(2020年)と重なるところがある。この激しさは明らかにイザベル・アジャーニを喰ってしまっている。(若い頃だったら、これがアジャーニそのものだったのに、とその狂気の表現力を考えてしまう)
映画はゾラの劇と同じように座礁し、旅は答えのない旅になる。父は三姉妹とまみえることなく死に、弟のことは不明のまま。しかしその旅で出会ってしまうのは、アルジェリア民主化運動HIRAK(2019年ブーテフリカ大統領退陣要求に始まり、2021年現在も続いている大規模大衆運動)の人、人、人...。ヤミナ・ベンギギ監督は、このポジティヴなイメージの中に映画の結末を刷り込もうとするのであるが...。
私はこれは詰めすぎだと思う。おそらく一世一代の戯曲を作るはずだった劇作家・演出家ゾラ(演イザベル・アジャーニ)の内部葛藤が映画の中心であるべきところが、スキゾフレニア傾向が著しい三女ノラ(演マイウェン)の激しい情動によって見えなくなっている。素晴らしい女優ラシダ・ブラクニは政治家という役どころでおそらくヤミナ・ベンギギが最も自分に近いポジションであったろうが、(狂気の入った長女と三女に比較すれば)並みの良識人でしかなく、ちょっと可哀想。アルジェリアとフランスの歴史の問題はステロタイプ化された描き方であり、男性原理社会は戯画的であり、女性たちの忍従は見るに耐えない。これはマイウェン映画『DNA』の紹介記事でも書いたことだが、個人のアイデンティティーの根っこをアルジェリアという「国」、フランスという「国」に集約させる考え方に私は同意しない。個人史の複雑な複合要素を十把一絡げで「ルーツ」起因論の中で説明できるとは私は断じて思わない。そういうHIRAK的シチュエーションだったからと言われても、この映画の中で現れるアルジェリア国旗の多さよ。それを背負っての三大在仏アルジェリア女優の共演、ということであれば、ちょっと違うんじゃないの、と言いたい。とりわけ、大女優イザベル・アジャーニが可哀想だ。・
カストール爺の採点:★★☆☆☆
(↓)『三姉妹(Soeurs)』予告編
(↓)映画挿入歌のひとつ、スアード・マッシ「善と悪(Le bien et le mal)」(2003年)、これはしみじみ名曲でしたね。
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