2021年7月13日火曜日

アネットおどろくタメゴロー... っと。

"Annette"
『アネット』

2021年フランス・ドイツ・ベルギー合作映画
監督:レオス・カラックス
原案・脚本・音楽:ロン&ラッセル・メール(ザ・スパークス)
主演:アダム・ドライヴァー、マリオン・コティヤール、サイモン・ヘルバーグ
2021年カンヌ映画祭コンペティション出品作(オープニング上映作品)
フランスでの公開:2021年7月6日


 公開時にル・モンド紙やテレラマ誌が最高点で絶賛した映画に私は何を言えるのか。カラックス初の英語&ハリウッド級大予算&大スター主演のミュージカル映画で、おそらくカラックス初の(世界規模の)商業的成功が見込める映画なのだからして。素直にグッドラックと言うべきであろう。
 音楽映画であり、ミュージカル映画であるから、近年の『ララランド』 (2016年)と『ボヘミアン・ラプソディー』(2018年)の世界的大成功と無関係ではないと思われるが、この鬼才監督さんなので、俺だったら(あんたたちにはできっこない)こんなこともあんなこともできるんだぜ、とミュージカル映画の常識を覆すあの手この手を...。例えば(これはマリオン・コティヤールがインタヴューで証言していたことなのだが)歌の録りは、サントラの録音スタジオでの別録りはなく、撮影アクション中のダイレクトライヴ録音だと言うのである。映画を観てしまった今となっても信じられないことだ。つまりアダム・ドライヴァーもマリオン・コティヤールもアクション中に生で歌って(歌わされて)いて、たとえばプールで泳ぎながら歌い、二人で激しくセックスしながら歌い、オートバイでビュンビュン飛ばしながら歌い... その歌声が映画で再生されているのだ、と。息がつまってもいいから、その臨場感を音楽/映像化したのだ、と。ほんまかいな...。
 私、ほんと細いことが気になってしまうのだが、日本の会社ユーロスペース堀越謙三)が共同制作者として名を連ねているからだとは思うけれど、どうしてこんなにたくさん日本人が出演してるの? 福島リラ、水原希子、古舘寛治(アネット出産時の取り上げ産医、結構目立つ)、山川真里果。そりゃあ日本で最もとんがった評価を受けているフランス映画作家であるとは思うがね、こういうキャスティングでしっかり日本での”話題作り”も画策できる商才なんではないの?
 さて、原案・脚本・音楽はザ・スパークスのメール兄弟である。カラックスは長年のファンだったと言っているが、スパークスとのコンタクトはカラックスの前作『ホリー・モーターズ』(2012年)の挿入曲としてスパークスの"How are you getting home?"(1975年)を採用したことに端を発する。そこから両者の「音楽映画」愛のがっぷり四つになって、スパークスの長年温めていた悲願のプロジェクトが実現に向けて動き出す。
 根っからの映画フリークだったスパークスが本格的に映画界に登場しかけたのは1974年のこと。 『ぼくの伯父さん』(1958年)の名匠ジャック・タチ(1907 - 1982、右写真タチとスパークス、1974年)が書き上げた新作用シナリオ『コンフュジオン(Confusion)』の主役に、当時英国ロンドンを活動拠点としていたスパークスという段取りで進んでいたのだが、結局タチの大作『プレイタイム』(1967年)の大コケが招いたタチの莫大な負債が長引き、撮影に入ることなくお蔵入りしている。スパークスは1976年のアルバム『ビッグ・ビート』で"Confusion"という曲を発表し、タチとの頓挫した映画を回想している。以来スパークスはさまざまな映画へのアプローチ(1980年代日本の漫画『』のティム・バートン監督による映画化、2009年"The Seduction of Ingmar Bergman"、を試みるのだが、いずれも実現に至らずにいた。
 一方のカラックスはガキの頃(5歳から12歳)クラシック・ギター→エレクトリック・ギター、しかし俺には才能が... と、それでも不良少年になってからもバンドでドラムスを叩いたり、という程度で止まっていたが、リスナーとしてはそれなりに。そして映画人となってからも音楽映画/ミュージカル映画を撮りたいという望みは最初期からあり、『ポン・ヌフの恋人』の最初の原案はすべてのセリフを歌でつなぐミュージカルにすることだった。1991年に公開された『ポン・ヌフ』は完成までずいぶん形を変えたが、音楽担当となったレ・リタ・ミツコとの共同作業は難航し結局Ⅰ曲だけしか使えなかった。『ポーラ・X』(1999年)は鬼才スコット・ウォーカー(1943 - 2019)と組んだのだが...。この映画のあとスコット・ウォーカーは『サテュリコン』(ペトロニウス作の古代ローマ小説、1969年フェリーニが映画化した)をミュージカル映画で、という提案をしてきたが、これはカラックスが同意しなかったそうだ。前作『ホリー・モーターズ』での最も美しいシーンとして、ポン・ヌフの百貨店サマリテーヌの改装工事現場でカイリー・ミノーグ(主人公オスカーの別れた恋人エヴァ役)が未練ごころを歌う"Who were we?"(作詞カラックス+ニール・ハノン/曲ニール・ハノン)という『シェルブールの雨傘』まがいの図があった。しかしこれらはすべて「部分」であって、トータルなミュージカル映画をという希望は叶えられないままだった。
 という夢果たせぬ二者ががっちり組んだ、二者のドリーム・カムズ・トゥルーという映画が『アネット』だった。配役ではカラックスは主役はホアキン・フェニックスしかないと思っていたのだが、ふられた。2017年頃の映画メディアでは主演女優と見られていたのはリアーナだったが、ふられた。結局スター・ウォーズのメガスター、アダム・ドライヴァーと「マルセ〜ル!マルセ〜ル!」マリオン・コティヤールの共演となったが、その方がずっと良かったと思いますよ。映画はビートルズ『サージェント・ペパーズ』のようなイントロデューシングで、監督カラックスとスパークスとバックミュージシャンとコーラス隊と主役の二人などが総出でショーの始まりを告げる"So may we start"が華々しく... 。

アネット合唱団とでも言うべきこの一団はスタジオから外に出て行進を続け、人気スタンダップ芸人のヘンリー(演アダム・ドライヴァー)はバイクでショーホールへ、世界的ソプラノ・カンタトリスのアン(演マリオン・コティヤール)はオペラハウスへ、と"仕事場”に散っていく。
 あっけなくこの二人は熱愛して結ばれるのだが、LAで最も"Glamour"なこのカップルをめぐって芸能ピープルTVがその二人の動向を逐一Breaking News で報道する。人気の絶頂にあるソプラノ歌手アンの演目は生と死の淵にあるドラマティックなものがほとんどで、このアーチストの翳りのようなものを引き摺っている。全部マリオン・コティヤールの声で歌われているのであるが、クローズアップして披露される舞台上のアリア曲"The Forest"の1曲だけはコティヤールの歌唱ではなく、現役第一線のソプラノ歌手カトリーヌ・トロットマンが吹き替えている。この"The Forest"の舞台はオリゾンが開きその奥に本物の夜の樹海が広がっていて、歌姫はその死の樹海を助けを求めながらさまよって、また劇場舞台に戻ってくるという演出。美しい。まあ、聖なるものに近いということなのだろう。
 それに対して芸も私生活言行もぐっと俗っぽいのがヘンリーであり、お笑いスタンダップ芸人だから、ということだけではない度の過ぎ方が目につく。このヘンリーの漫談芸というのはふてぶてしさと客への愚弄で持っていて、実在した芸人ではアメリカのレニー・ブルース(1925-1966)やフランスのデュードネ(1966 - 。ファシスト漫談)に近い。狂信的なファンを集めるが、世評からは危険視される。俺はどうやってもウケる、何をやっても笑いを取れる ー その過剰な自己陶酔が過度にエゴを膨張させたり、自己破壊衝動に向かったり ー この芸人の狂気がこの映画を悲劇の方向にひっぱっていく。
 これは一連のカラックス映画で見てきた頭を身勝手に膨張させていく男(主人公、だいたいの場合”アレックス””オスカー”)の描き方であり、この映画もこのヘンリー=アダム・ドライヴァーをカラックスの”自己愛”視点のカメラがぐわ〜っと迫っていく。カラックスには一貫性がある。ここは納得しよう。身勝手な男の映画ばかり作ってきたのだ。ふてぶてしさと壊れやすさが見事に同居するアダム・ドライヴァーの顔でカラックスは思い通りの演出ができたのだと思う。
 しかしアンはそんなヘンリーに不安を抱き始め、スタンダップ芸の観客もヘンリーから離れていき、興行はキャンセルにつぐキャンセル。そして最高の人気を保つソプラノ歌手と落ち目のお笑い芸人のカップルに子供が誕生する。その名はアネット。天使と悪魔あるいは聖なる女と俗なる男の間にできた子供は、人間の子と異なっているのだが、その微妙なニュアンスは映画のマジックで特撮とCG効果で見事に(ここのところはバラさないでおく)。
 挿話的にヘンリーのセクハラスキャンダルが導入され、スパークス/カラックスなりの世相風刺なのだろうけど、セクハラ被害者の6人の女が#MeTooばりの糾弾を歌で投げつけ、その中にフランスの#MeToo運動のシンボルとなったベルギー人女性アーチストであるアンジェルがフィーチャーされている。アンジェルはカンヌ映画祭オープニング上映の時のレッドカーペット登壇のひとりとなっているが、このセクハラエピソードは”フェミニスト茶化し”であると思う。
 さて映画には重要な第三の男がいて、この音楽映画の中で最も"音楽”な役を担っているのが、ソプラノ歌手アンの伴奏オーケストラ指揮者兼ピアニスト(演サイモン・ヘルバーグ)である。この俳優のピアノの腕前、指揮棒の振り方は一流のもの。アンがヘンリーと出会う前の元カレであり、その後もアンに恋慕を抱き続けていた指揮者くんは、嵐海クルーズ(後述)でアンが海に落ちて死んでからも、アネットをわが子のように育て、幼子の隠された能力を開花させていく。
 映画のハイライトシーンのひとつが、ポスターにも描かれている猛り狂う嵐の海にクルーザーで漕ぎ出したヘンリー(泥酔状態)が甲板にいやがるアンを呼び寄せ、ワルツ("Let's waltz in the storm")を踊るというもの。スタジオ(プール)特撮の極限アートのような疾風怒濤、シュトルム・ウント・ドラング。ここでヘンリーの泥酔したエゴはキレてしまい、無意識か故意か、アンを荒海に放ってしまう。クルーザーは難破、ヘンリーと赤子アネットだけが助かる。そこでヘンリーは人魚の歌声のようなものを空耳するが、それは空耳ではなくアネットの声なのである。
 アンを失った悔恨と自暴自棄・自己破壊衝動でヘンリーは限りなく落ち込んでいくが、生きていく唯一の救いが娘アネットだった。自らすすんでベビーシッターとなった指揮者の愛情が赤子アネットに超人的なある能力があることを見出し、それを知ったヘンリーは指揮者をたぶらかしてアネットで一緒に銭儲けしよや、と。屈折しているがどこまでも俗っぽい男なのである。ベビー・アネット・スーパースター。ベビー・アネットのワールドツアー...。
 しかし亡きアンの過去をめぐって指揮者が恋敵であったことを知ったヘンリーは...。ジャック・ドレー監督映画『太陽が知っている(La Piscine)』(1969年)のシーンを踏襲して、アラン・ドロンがモーリス・ロネをプールに沈めて殺したやり方で、ヘンリーは指揮者の首をつかみプール水面下に押し込む。(フィガロ紙で、このシーンの撮影に際して、カラックスがサイモン・ヘルバーグに水の中に頭を押し込まれた状態で歌え、というむちゃくちゃな指示を出したことが報じられている!)

 ピノキオ寓話的なリフェランスとして、ピノキオの鼻のように、罪を犯すたびに大きくなっていくヘンリーの赤アザ、そしてあやつり人形だったアネットがヘンリーが投獄されたのちに(映画最終盤で)人間になっていること ー こういうアイディアはさすがにうまく効いているんだけど、これはスパークスの原案に既にあったことかな?
 こういうスパークスの原案シナリオと音楽の優れた部分がカラックスの映画演出部分よりも上回っているような印象が私にはある。ただ「身勝手男の破滅映画」というカラックス節も冴えている。アダム・ドライヴァーはこの映画で怪優の仲間入りを果たした。芸能界内輪話のような傾向も強いのだが、こういう現役大スターが演じてこその説得力である。映画とは昔も今もアートとしての"芸能”に身を削り、金銭/虚飾のショービジネスに身をすり減らされる人々の世界である。そう考えるとこの映画もまた映画のための映画であり、(なにはともあれ)show must go on の号令も聞こえてきそうな後味である。
 だがカラックスに関しては何度でも言っておきたいが、今回も女性の描き方は(男のための)道具のように使っているところありますよ。マリオン・コティヤールという大女優ですらも。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『アネット』予告編

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