2012年11月1日木曜日

見いだされない時(を求めて)

Patrick Modiano "L'herbe des nuits"
パトリック・モディアノ『夜の草』

 Pourtant je n'ai pas rêvé.  ー しかしながら私は夢を見ていたわけではない。
 
 とこの小説の第一行は始まります。モディアノの小説に親しい読者たちは、「そう言われても...」と最初からこの小説にとことんつきあおうという気にさせる第一行でしょう。モディアノは読み始めからくじけそうになる罠がたくさんあります。私たちが昨夜見た夢を思い出せずにイライラするのと同じ感じです。私たちはそれは絶対に思い出すことはできない、というあきらめでそのイライラを解消します。ところがモディアノは絶対にあきらめない。それは夢ではない、と言いながら、そのことは夢よりもはるかに遠い記憶なのです。その存在したか、しなかったのかも不確かななにかの記憶をモディアノは追うのです。これはすべてのモディアノの小説に共通したテーマです。だから、私たちは、また同じ(モディアノ)小説を読んでいるという錯覚に何度も陥ります。その闇の中で手探りで進んでいくエクリチュールが読者を離さないのです。同じようなことと知りながらも。
 話者(ジャンという名前。文中は一人称で「私」)はメモ魔です。ほとんど偏執的にその手帳にメモを取ります。通りの名前、建物の名前、人名、新聞で目についた記事... これらが備忘ノートとして網羅的に殴り書きされているのですが、それがどんな意味や関連性を持っているのか、書いた本人がわからなくなっているものが多いのです。またそれを書いていた頃の話者は既に文筆家であり、文学に関するメモ書きもそこに混入します。トリスタン・コルビエール、ジャンヌ・デュヴァル、ボードレール...。小説はそのメモが書かれた50年前の頃の記憶を蘇らせようとしているのですが、その文学メモのせいで19世紀的なパリも蘇ってきて、その混同がますますこの記憶めぐりの旅を困難にしていきます。
 読者はいつものように、序盤で、これは何が何だかさっぱりわからんぞ、という文章空間に叩き込まれます。五里霧中のポラー小説のようなものです。話者は何の確信もなく、たぶんそうだったのではないか、いやそうではなかったのではないか、という一進一退の文章で読者だけでなく、話者自身も不安にさせているようです。
 場所はパリ。21世紀の今にそこを訪れても当時の面影が残っていたり、いなかったりの不確かな記憶の中のモンパルナスです。話者はある安ホテルに出入りしている4人(あるいは5人)の男たちとダニーと名乗る女と関わりを持つようになります。右岸(16区)の小さなアパルトマンに定住する場所を持ちながら、そこになかなか帰ろうとしない、パリの放浪者である「私」は、どういう理由でこの人間たちと関わるようになったのかを知りません。また理由などなくてもいいとも考えます。中心はダニーと名乗る女です。彼はダニーと待ち合わせ、カフェに入り、一緒の時を過ごし、パリの町を横切って歩き、彼女が住所にしているモンパルナスのホテルに送っていき、そこで別れます。その安ホテルのロビーにはどう見てもカタギではない4人(あるいは5人)の男がいつもたむろしていて、ダニーを見張っています。ダニーはその男たちからアパートやホテルの部屋などの住むところを世話してもらっていて、男たちが手配する偽の学生証や身分証明書を使って、大学に登録して学生を装ったり、パリ14区のシテ・ユニヴェルシテール(国際学生住宅都市)に住んだりもします。そのうちにこのダニーが他にも違う名前をいくつか持っていることも知ります。
 「私」はなぜダニーと一緒にいるのか? その理由は判然としません。私にはとてもよくわかる理由で解釈しています。それは「ただ一緒にいたかったから」です。恋愛でも友情でもない、「一緒にいる」ことに強力な磁力を持っているパートナー、そういう関係と読みました。二人は同じ場所にいて,数少ない会話を交わし(ダニーは「私」が質問が多すぎる,と会話を避けることもあります),お互いのことを知りもしないでパリの街路を二人で移動する仲なのです。淡々とした関係であるような事実の記述の行間から,読者は強烈な「引かれ合い」を読み取るのです。おそらくこれはそれと銘打って書かれることのない壮大な恋愛小説ではないか,と。なぜなら「私」が追い求めているのはダニーに他ならないのですから。
 ダニーはこれまで住んだり滞在したりしたことのある部屋や家の鍵のコピーをすべて持っています。本来は家主に返すべきこの鍵のコピーで,ダニーはその場所に平気で忍び込んでいくのです。二人はいつか行こうと夢見ていた田舎の家(ブルゴーニュかもしれない,よそかもしれない,「私」には思い出せない)に滞在するのですが,そこも家主の許可なく鍵コピーで押し入ってしまうわけです。そこでの滞在中に「私」は小説の草稿を書き,その家の中に置き忘れてしまいます。いつかその草稿を取り戻せたら,あるいはそれを見つけた人が「私」に届けてくれたら,と話者は夢想します。「私」はそれがなければ書かれたはずの小説も思い出すことができないのです。その小説はおそらくその当時の自分の記憶の詰まったブラックボックスでもあるはずです。
 この小説には第三の関与者がいて,「私」の失われた記憶を外側から再構築する役割を果たします。それはパリ刑事警察の捜査官で,「私」はモンパルナスのホテルの4人(あるいは5人)の男とダニーと名乗る女と接触を持ったという嫌疑から参考人として捜査官の尋問を受けます。その事件とは、フランスからの独立を果たしたマグレブの国(モロッコですが)の政治団体(政府側か反政府側か判断できない)が、その政敵またはその家族に暗殺や誘拐という手段で国政に大きな影響を与えようとしているのですが、その実行部隊がモンパルナスのホテルの4人組(あるいは5人組)と自称ダニーという女であった、というものです。「私」は捜査官からその女がダニーという名前ではなく、複数の別のアイデンティティーを持ち、テロ組織の最前線のコマであることを知らされます。「私」はもちろんそのヴァージョンを信じません。
 その核心はこの小説の159ページめに現れるのです。何も知らない、知ろうとしない、ジャンという若者、すなわち「私」の前で、ダニーと名乗る女はこう問うのです : 「私がもし誰かを殺したことがあると言ったら、あなたは何と言う?」 ー それに対して話者はこう答えます:「俺が何と言うかって? 何にも」。 ー これがこの愛のディメンションなのです。この小説でこれが読めない人間はバカヤローと言いたい核心なのです。おお、こんな劇的な一行、古今の文学でもなかなか出会えるもんじゃないですよ。ジャンはダニーが人を殺したとしても、何も言わない、とマニフェストしているわけです。この五里霧中のすべてが曖昧で不確かな文章空間にあって、これほどくっきりとダニーへの話者の思いが浮き彫りになる部分はないわけですよ。
 時間軸は現在にも過去にも移ります。パリ刑事警察の捜査官は40年後に定年退職し、それでもその職務中に「捜査時効・調査中止」となった事件簿 を自分の仕事の悔恨として自宅に持ち帰ります。その中に「モンパルナス4人組(または5人組)とダニー」のモロッコ政治要人テロ事件の事件簿がありました。元捜査官は、この事件簿を今や有名作家となった「話者」に手渡そうという密かな願いがあり、それはある日偶然にパリ13区のカフェでの出会いによって実現するのです。この邂逅もこの小説の白眉です。
 その事件簿は「私」の失われた過去の多くの部分に対する答があるはずのものだったのです。ところが、この小説はそれを明かしません。ダニーの本当の正体は何だったのか? ダニーは本当にテロ先兵として人を殺したのか? ダニーは今どこにいるのか? ダニーは今生きているのか? ー この小説はその一切を明かしてくれないのです。

 話者が狂おしいまでに見いだしたかった過去の記憶、それは多分この事件簿が多くを明かしてくれたはずなのに、小説はそれを言及しようとしない。何も言ってくれない。読者はここでどうやってこの小説に向かい会えばいいのか。 50年後、パリの街をさまよいながら、話者はその見いだされた記憶を何も言わないことによって、一体何を文学化しようとしているのか。私たち読者は、その何も言われていない、ジャンのダニーへの、あったかもなかったかも知れない事件や、どこまでも不確かな記憶を越えて、狂気のような途方もない追憶や、名前のつけようのない果てしない恋慕しか読めなくなって、本を閉じるのです。これは不可能を読むしかない、希有な文学体験だと私は思うのです。ため息 。

Patrick Modiano "L'herbe des nuits"
(Gallimard 刊, 2012年10月、180ページ、16.90ユーロ)

(↓フランス国営TVフランス5の文学番組LGLに出演したパトリック・モディアノ)

PS:この小説を私は10月19日、パリCDG空港で、友人の到着を迎える待ち時間に読み終えました。ため息の余韻の中で、税関出口から現れた友人を見ながら、私は「しかしながら私は夢を見ていたわけではない」という第一行を独語しました。私はその時、小さなモディアノだったのです。そしてその翌日、私と友人はマルセル・プルースト『失われた時を求めて』の執筆地、カブール(ノルマンディー地方カルヴァドス県)へと向かったのです。「失われた時」も「見いだされた時」も私たちには曖昧であるまま。



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