2019年2月10日日曜日

往生の物語

『クレール・ダルリング 最後の狂気』
"La Dernière Folie de Claire Darling"

2017年制作フランス映画
監督:ジュリー・ベルトゥッセリ
主演:カトリーヌ・ドヌーヴ、キアラ・マストロヤンニ
フランス公開:2019年2月6日

髪のカトリーヌ・ドヌーヴ。ある晴れた夏の朝、突然に死期を悟った斜陽地方富豪の老女クレール・ダルリング(演カトリーヌ・ドヌーヴ)の最後の1日の物語。場所設定は北フランスのピカルディー地方オワーズ県ということになっているが、何十年何百年と変わっていないようなフランス深部の村。昔からの風習のように夏の到来と共にやってくる移動遊園地+サーカス。サーカスの呼び込みや芸人たち(+動物たち)のデモンストレーション行進、宣伝飛行機...。失業も難民も「黄色いチョッキ」もどこ吹く風で、古風な幸福ウキウキ感で包まれた村。この時間が止まっている感じがこの映画のミソ。映画主人公の妄想として過去が立ち現れても、背景やら着ているものやら車やら、何にも変わっていない。唯一電話の音(固定電話、プッシュホン、ケータイ、スマホ...)だけが違っている。
 ヘヴィースモーカーのカトリーヌ・ドヌーヴはどんな映画に出ても必ずタバコを吸っている。21世紀になって映画スクリーンからタバコの出番が憚られるようになっても、ドヌーヴだけはおかまいなしに吸っている。私はこれが好きだ。この映画では時の流れへの逆らいのようにタバコに火を点ける。この映画は時の流れに逆らって1日のうちに様々な過去がクレールを諭すように現れる。記憶が怪しげになり、顔も名前も思い出せなくなっていたクレールが、その最後の日にすべてを呼び戻すことができたかのように。
 歴史を思わせる大きな館に住む一人暮らしの白髪の老女(とは言っても70歳代の設定)は、画面に現れた時からその性格の悪さ(朝食を運んできたヘルパーの女性が「今朝はご機嫌いかが?」と聞くと「いいわけないじゃない、でも聞いてくれてありがとう」と答える)と記憶障害のいくつかが露呈してしまう。いつも不満そうにものを言う、微笑みのない偏屈婆。このキャラクターを大女優カトリーヌ・ドヌーヴが演じきってしまう、しかもなんとも言えぬ軽やかさで。シモーヌ・シニョレじゃないんだから。 この老女は死にゆく運命の重さがない。タイトルにある「狂気 folie」は、軽々しいものではない深刻さを伴いながら、終始軽やかなのである。神の啓示のように「最後の日」を直感したクレールは、思い出を持つことなど何の意味もない、と先祖代々からの館のコレクション(骨董、絵画、調度品、書籍、家具...)を、館の中庭に並べ、破格値の即席骨董市を開催する。ただ同然の値段だが、人は往々にしてただのものには手を出さない。一銭でも値段のついたものに価値を認めるものなのだ。その中にはガレのガラス工芸やティファニーランプやからくり人形や仕掛け時計など、博物館並みの価値のあるものばかり。クレールの目の前で一堂に陽の目にさらされたこれらの品々から、亡霊のように過去の記憶が立ち上ってくる。
 かつて娘マリーの幼なじみだったマルティーヌ(演ロール・カラミー)は今は旦那と骨董商を営んでいるのだが、この狂気の露天市に慌てふためき、できるだけ多くのものを買い占めようとする一方(ここがとても可笑しい)で、この測り知れない文化遺産の大放出をやめさせなければならないと悲嘆にくれるのであった。そこへ風の噂か、20年も連絡をとっていなかった(実は娘はずっと手紙を書き送っていたのに、母親は一度もそれを開封していなかったということがあとでわかる)家出娘のマリー(縁キアラ・マストロヤンニ)がやってきて、かつての親友マルティーヌから事情を聞き、母クレールにこの狂気をやめさせようとする。しかし、20年ぶりの再会も何のエモーションもなく、母クレールはかつて娘が代々の家宝である指輪を盗んでいったことをなじるのだった。
 冷たい母。小さい頃からずっと娘につらく当たっていた母。映画のフラッシュバックは実はそうではなかったという断片をちょこっとずつ出してはいくのだが。
 立ち上ってくる過去の記憶:愛のない結婚、溺愛していた息子の死、その死をめぐる夫との諍いに続く夫の事故死(クレールはその現場にいながら救急車を呼ばず、夫を見殺しにした、ということを心の秘密にし罪深さを悔やんでいる)、田舎神父とのほのかな交情(クレールと同じように老いたその田舎神父が、死を悟ったクレールの「悪魔祓い」をする、という滑稽なシーンあり)、娘の家出の原因となる家宝の宝石指輪の窃盗事件...。
 カトリーヌ・ドヌーヴとキアラ・マストロヤンニという現実の世界での母娘が、映画で「母娘」の役で共演するのはこれが初めて。実際の世界でも複雑な母娘関係であったことも、この映画では一種の「鏡効果」ともなっているのだが、観る者は「そりゃあ親子だもの」という言わずもがなの説得力にだまされよう。しかしそれに加えて驚くキャスティングの妙があり、若き母親時代のクレールを演じるアリス・タリオーニ(Alice Taglioni)の、若き日のカトリーヌ・ドヌーヴによく似ていること、そして少女時代のマリーを演じるコロンバ・ジョヴァンニ(Colomba Giovanni)の若き日のキアラ・マストロヤンニ(この人現在46歳)にそっくりなこと。これもこの映画の芸の細かさかな。
 さて、笑顔が少なく難しく生きてきた斜陽ブルジョワの老女が、いろいろと引っかかってきた過去の出来事をひとつひとつ精算して、心安らかに向こう側に旅立てるのか、というのが映画の本筋である。村は夏のお祭り騒ぎ。あの世とこの世の区別があいまいになるお盆のような陽気。骨董のからくり人形やサーカスの登場人物など、魔の世界と現実を自然とパラレルに配置する映画の進行はとても効果的である。夢遊病のように夕暮れの移動遊園地にふらふら歩いて行き、アトラクションの「バンパーカー」に乗ってひとりぐるぐる回るカトリーヌ・ドヌーヴの美しさったら...(そのままこの映画のポスターになっている)。息子の死、夫の死、家出した娘、すべては夢の中の出来事のように、あいまいながらもすべて和解して、まるくおさまってしまうんです。そして、館にもどり、最後のお茶を飲もうと、ケトルに水を入れて、ガス台を点火したのだが、老女の曖昧は記憶はこの時に火が点いたかどうか確認ができない。そしてそのまま寝入ってしまう。
 村の宵のお祭り気分は最高潮でフィナーレの花火大会に移っていく。花火はどんどん盛り上がり、最後のブーケ・フィナルへ。そしてその火の粉が館の煙突から入り、ガスの充満した館は大爆発。ここで、ジュリー・ベルトゥッセリ監督は、大爆発を何度も何度もスローモーションで、そしてからくり人形や仕掛け時計やティファニーランプがバラバラになって飛び散るシーンを超スローモーションで何度も何度も....。お立ち会い、この映画のフィナーレ何だと思います? ミケランジェロ・アントニオーニ『砂丘(ザブリスキー・ポイント)』 (1970年)の最終シーンの援用なのだよ。サイケデリック!
 人生の終わりをクレール・ダルリングは大花火で飾ろうとしたわけではない。大花火にしたのは映画の狂気である。それがまた偏屈で難しく生きてきた富裕女性にふさわしい。カトリーヌ・ドヌーヴはここで白髪の大輪の花であるからして。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『クレール・ダルリングの最後の狂気』予告編


(↓)ミケランジェロ・アントニオーニ『砂丘(ザブリスキー・ポイント)』(1970年)ラストシーン。音楽ピンク・フロイド。


(↓)蛇足ながら、記事タイトルの出典はこれです。

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