2009年1月28日水曜日

オバマ前夜に老いてしまうこと



 ポール・オースター『マン・イン・ザ・ダーク』
 Paul Auster "Seul dans le noir"


 今朝の新聞でおとといジョン・アップダイクが76歳で病死したのを知りました。「走れウサギ」など遠い忘却の彼方ですが、読んでたんだなあ、と改めて爺たちが青少年の頃の「最も近い国」アメリカを思っています。なぜあんなに一生懸命「米語」を勉強させられたんでしょうね?中学の時ですが、This land is your land, this land is my landと歌ってましたが、その邦題が「わが祖国」だったと思います。爺たちはヴァーチャルにもアメリカを祖国と思う瞬間があったんですね。そして今日アメリカは、再び急に親しげに語りたい国に戻りつつあると思うのは私だけでしょうか。
 「神の能力は無限である、従って神によって創られた世界も無限である」ということをイタリアの哲学者ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)は唱え、その結果われわれの住むような世界は無数に存在するという複数世界論に至り、異端裁判にかけられ、火炙りの刑に処されます。パラレル・ワールドの存在を理論化した最初の人だそうです。オースターはこの論にインスパイアされ、ブッシュのアメリカ(2000年以降)に平行して存在するもうひとつのアメリカを小説内小説として登場させます。今(2007年)存在するこちら側のアメリカに生きていた人間が、眠りから覚めると深い井戸底のような闇の中にいます。小説のタイトルです。『マン・イン・ザ・ダーク』。闇の中の男オーウェン・ブリックは、それまで生きていた世界では手品師でしたが、目がさめると軍服を着た兵士(軍曹)になっています。井戸底から地上に昇ると、そこは戦場です。もうひとつの2007年のアメリカは、ブッシュ政権に反対して分離独立を主張する地方の蜂起軍と中央政府軍が戦争をしています。もう7年も戦争が続いていたのです。そしてこの世界では、9.11テロも、第二次イラク戦争も起こらなかったのです。
 オーウェン・ブリックは何年も戦争の続く世界の人間たちに呼ばれて、この戦争を終結させる最後の切り札としての使命を受けます。それはこの戦争を起こしている張本人を殺してしまうことです。人を殺すこともこの戦争に関与することも拒否しようとするオーウェンは何度もこの命令者たちの手から逃れようとしますが、果たせません。命令を実行すればもといた世界へ帰れる、実行しなければオーウェンと妻のフローラを殺す、この二者択一を迫られ、オーウェンはやむなく暗殺者になりかけます。
 その戦争を起こしている張本人とは、引退した老文芸評論家オーガスト・ブリル。自動車事故を起こし車椅子生活をしている彼は、伴侶を病気で失い、一人娘のミリアムは醜い離婚劇のショックから立ち直れず、ミリアムの娘カティア(つまりブリルの孫娘)はその若い恋人をイラクで失っています(人質に取られ、無惨にもヴィデオカメラの前で斬首処刑される)。この不幸を背負った3人がヴァーモントにある一軒家で、笑いの少ない生活を送っています。ブリルは夜眠ることができず、闇の中にひとりいて頭の中で世界を回しているのです。『マン・イン・ザ・ダーク』。ブリルはその中でいろいろな物語を創ります。世界の読み直し/作り直しのようなものです。その中にアメリカの分離独立戦争があり、パラレルワールドでの別のアメリカがあります。戦争はこの老人の頭の中で起こっていて、この戦争を止めさせるために、老人はオーウェン・ブリックという素人暗殺者を登場させるのです。ブリックがブリルを殺すことによって戦争は終わる、というブリルが遠回しにしかけた自殺劇でもあります。
 もとをただせば、すべて一人の老人の頭の中の戦争と言えますが、イラクの戦争も一握りのアメリカ人指導者たちが頭の中ででっち上げた戦争を現実化してしまったわけですから、このブリルのメディテーションには絵空事ではない含意が多く登場します。
 ブリックはブリルを殺せるのか、かの世界での戦争は終結するのか、という大詰めに、ポール・オースターは全く別の抜け道を持ってきますが、ここの部分は言えませんので、ご自分でお読みください。
 ル・モンド紙でのインタヴューでオースターはこのアメリカ現代史の読み直しについて語っています「2000年大統領選挙では実際にはゴアが勝ち、ブッシュは破れていた。しかし法律的政治的な工作によって共和党は勝利を無理矢理に奪い取った。このクーデターによって私はまるでパラレルワールド、即ち真実と隣り合わせて存在する世界に住んでいるかのような印象を抱いた。あるいはそれが真実の世界なのか、そうだとしたらこの戦争は存在しなかったのではないか、ワールドトレードセンターのテロは起こらなかったのではないか...?
 ブリルの頭の中の悪夢は、オースターの悪夢そのものであったわけですが、小説はブリルが闇の中を出て、少しずつ現実に目覚めていく方向で終わります。孫娘カティアとのやりとりの中で展開される自分史の読み直しは、数奇な体験を通して見て来た世界と自分の関わりが、最終的に肯定的であるという見方に変わっていく契機です。
 最終部に繰り返して引用されるローズ・ホーソーンの詩の1行は「そしてこの奇妙な世界は回り続ける Et ce monde étrange continue de tourner」というものです。同じようなことを「それでも地球は回る」とガリレオは言い、「それでもセーヌは流れる」と向風は言いました。ミソは「この奇妙な」という限定的形容詞です。不完全でありときおり不正義が勝利してしまう奇妙な世界です。しかし、なんかこういう1行に集約してしまってほしくない、闇から光を垣間みる小説です。オバマ大統領誕生の1年前の2007年に書かれた作品です。Auster had a dream。

Paul Auster "Seul Dans Le Noir"
(Actes Sud刊。2009年1月。185頁。19.50ユーロ)



PS1(1月30日)
1月21日放送の国営テレビフランス3の番組です。
『マン・イン・ザ・ダーク』を語るオースター
なんてチャーミングなフランス語なんでしょう!!

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