STEPHANE DELICQ "DOUCE"
ステファヌ・ドリック『優しい女』 9月のあたまにレーベルから新譜案内でステファヌ・ドリックの2006年録音のライヴ盤が出ることを知りました。さっそく見本盤を取り寄せて聞きました。何か違うな、という妙なひっかかりがあり、それが何なのかわからないまま、形ばかりの「業者向け新譜インフォ」を作って流し、1週間ほど放っておきました。ものにもよりますがライヴ盤だと往々にして売るのが難しいのです。それから日本の人は「ジャケ」でものを決める場合が多いので、このアートワークではちょっときついのではないか、とも思いました。雨傘をさした女性の横顔写真です。それの上に漫画的な雨降り模様の点線が人為的に上刷りしてあります。タイトルの"DOUCE"のフォントも浮き袋状の丸文字で、その上にも雨の点線が加えられています。とても素人っぽい感じがしました。それよりも何よりも(明らかにプロのモデルではない)この女性の顔が不安げな表情で飾らずに露出されているのが気になります。お世辞にも褒められた出来のジャケットアートではないでしょう。なぜライヴ盤で、なぜこのジャケなのか。私には不満の方が先に来てしまったのです。
数日してドリックの調べものをしてインターネットをうろうろしていましたら、こういうマイスペース・ブログにぶつかりました。
Des Cartes Postales pour soutenir Stéphane Delicq (ステファヌ・ドリックを励ますための絵葉書を) 日付は2008年4月12日になっています。今からおよそ1年半前です。それはドリックの友人でベルギーでダンス教室を営んでいるカップル(ミシュリンヌとステファン)が,その友だちで女性ダンサーのエステル(このブログの主です)に送った手紙から始まります。- 彼の健康状態は日に日に悪化している。白血病と闘っている彼の気力はどんどん低下している。そこでミシュリンヌたちは考えた。ドリックを知る世界中のフォークの仲間たちがステファヌに絵葉書を送ったらどうか。世界の町の絵のついた励ましの絵葉書が届いたら,ステファヌの気力は少しでも向上するのではないか。それで奇跡が起こらないとは,誰が言えようか。- それをブログ主が転写して,世界中のフォークの仲間に訴えているのです。次の頁にはその全文のイタリア語翻訳がついています。(ディアトニック・アコーディオンのファンはイタリアに多いのです)。
私は驚いてすぐにレコード会社に電話しました。ロートル・ディトリビューシオンのリュック・ジェヌテーは長々と彼の知っている限りの事情を話してくれました。ステファヌ・ドリックはまだ生きています。しかし闘病生活はもう2年を越していて,かなり重いシミオテラピー(化学療法/抗がん剤治療)をしているそうですが,だいぶ衰弱しているようです。
このライヴ録音(2006年4月)は発病前のものだそうです。これをアルバムとして発表する準備をしている途中で闘病生活が始まります。準備作業はとぎれとぎれになり,遅々として進みません。そのうちにステファヌは,おそらくこれが自分の「白鳥の歌」になると覚悟していったそうです。
ジャケットのアートワークは彼が考案したそうです。この女性はステファヌの伴侶のドミニクです。『DOUCE - 優しい女』はドミニクに捧げられています。やつれて不安そうな表情で雨の中にいる女性です。リュック・ジェヌテーは最初にこのアートワークを見せられた時,「どうしようもない」と思って拒否しようとも考えたそうですが,われわれはここではドリックの意志を尊重してやるしかないでしょうに。
こうなると,このCDの聞かれ方は大きく変わってしまうではないですか。
私はつくづく情動に流されやすい質ですね。既に数回同じような経験をしていて,死と闘っている音楽アーチストのことを涙まみれの文章で長々と書き綴りました。難病(嚢包性繊維症)で体の自由がきかなくなってしまったマルク・ペロンヌ,脳腫瘍で死を覚悟していたアラン・ルプレスト,「ロックト・イン・シンドローム」で意識はあるのにしゃべることも手足を動かすこともできない状態が続いているギタリストのパトリック・ソーソワ...。
ステファヌ・ドリックはディアトニック・アコーディオン奏者ですが,リカルド・テジやノルベール・ピニョルのような革新的なヴィルツオーゾではありませんし,マルク・ペロンヌのようにシャンソンや映画音楽で活躍するわけでもありません。目立たず,学究肌で(クラシックピアノ出身です),音楽教室やバル・フォークが彼のメインの仕事場です。アルバムはこれまで自主制作で3枚発表していて,1990年の『アクアレル(水彩画)』,1997年の『天使の一座(ラ・コンパニー・デ・ザンジュ)』,2001年の『ひかえめな女(ラ・ディスクレット)』があり,2002年に『天使の一座』がメタ・カンパニーから日本発売されました。実際この3枚では『天使の一座』が群を抜いて良く,和声を重視した弦と木管とのアンサンブルで,稀代のメロディストとしてのドリックの叙情的な旋律が際立つという1枚で,日本ではアコ愛好者だけでなく,サティーやドビュッシーを叙情的に聞いてしまう人たちにかなりアピールしたと思います。
ステファヌ・ドリックとはその頃一度だけ電話で短く話したことがあります。それは日本から手紙が良く来るのでびっくりしている,という話でした。自主制作盤なので,裏ジャケにドリックの自宅住所が書いてあり,それで日本の人たちが手紙を送れたんでしょう。日本にいるフランス人からも,東京のCD店でこんなCDを見つけられてうれしくてしかたなかった,というような手紙が来たそうです。
Googleに日本語で『天使の一座』と入力してごらんなさい。発売から7年も経っているのに,個人ブログにこのアルバムのことを書いている人があちらこちらに見ることができます。細く長くこの人気は続いているようです。
フランスではディアトニック・アコーディオンのワークショップなどでドリックが教えたり,ドリックの作品が取り上げられたりしていますが,その中で最も知られている曲がこの『天使の一座』の冒頭に収められている「生きる(vivre)」という5拍子ワルツ曲です。ドリックに特徴的な和音弾きでメロディーが展開される美しい曲です。YouTubeを見ると,いろんな国のアマチュアディアト奏者がこの曲を演奏しているヴィデオが数編公開されています。つまりこの曲はもうディアトの世界では「スタンダード」となっているのでしょう。
話を新しいライヴアルバム『優しい女』に戻しましょう。2006年4月,南仏ラングドック・ルーシヨン地方ロゼール県の人口121人の小さな村サン・フルール・ド・メルコワールのテアトルでのライヴ録音です。人口から考えると,一体何人の人がこのコンサートを見ていたのか,不安になりますが,拍手の鳴り具合は悪くありません。共演はジャズ・インプロ(とトラッド)界の腕達者3人です。
*フランソワ・ミショー(ヴァイオリン/ヴィオラ。MAMというバンドで4枚アルバムあり)
*カトリーヌ・ドローネー(クラリネット。フリージャズもすれば,マルク・ペロンヌと共演したりもする。ドリック『ひかえめな女』に参加)
*ナタナエル・マルヌーリ(コントラバス。ジャン=リュック・ポンティーの娘でピアニストのクララ・ポンティーのジャズトリオのコントラバシスト)
これにドリックのディアトが加わるわけですが,この4者を『天使の一座』のような編集された室内楽アンサンブルにまとめることは,このライヴではしていません。主旋律/主題を引っ張る楽器としてディアトニック・アコーディオンはやや押され気味です。アコとクラリネットとヴァイオリンで作られる和声はうっとりするほど美しいのですが,ソロインプロに入るとミショーのヴァイオリンもドローネーのクラリネットもディアトとは音数も高低のレンジもまるで違うので,ややうるさい時がないではありません。やはりドリックの本領というのは,美しいメロディーをシンプルに湿度高めに聞かせることなのだなあと思いました。
6曲め「レ・ノヴィス〜ラ・トワノン」という二部形式の曲の後半は,ドリックのディアトの独奏です。ここでやっと,これまでスタジオ盤では聞けなかったドリックのテクニックのヴァリエーションがよくわかります。リカルド・テジと比較して聞くのも面白いかもしれません。
4曲め「クレダンス-マリルー-クレダンス」はクレズマー風な早めの2拍子ブーレで,ドリックのメロディーに他の3人が縦横無尽の装飾和声部で切りかかりますが,それが茶目っ気たっぷりな上にスリリングです。
5曲め「優しい女」は何度も同じことを話しかけていくような繰り返し主題が切ない,マイナーの5拍子ワルツです。このコンテクストでは涙が出そうになります。
そして8曲めにドリックは,前述の『天使の一座』の名曲「生きる(vivre)」を再演します。和音ばかりで展開する主題,山も谷もあり,晴れも雨もあり,鼓動音のようなコントラバス...いくらでも深読みできる6分45秒。このライヴの時はそうでなかったかもしれません。今,これを聞いたら,「生きる(vivre)」,これはほとんど叫びではないですか。
<<< トラックリスト >>>
1. LES PETITES SOEURS (Valse à 8 temps)
2. ELOQUENCES (Mazurka-Valse à 5 temps)
3. ALDEBARAN (Valse à 5 temps)
4. CREDANSES-MARILOU-CREDANSES (Bourrées à 2 temps)
5. DOUCE (Valse à 5 temps)
6. LES NOVIS (Mazurka) - LA TOINON (Valse)
7. P'TIT GOUT D'HORIZON (Valse)
8. VIVIRE (Valse à 5 temps)
9. L'ARENTELLE (Valse)
STEPHANE DELICQ "DOUCE"
CD L'AUTRE DISTRIBUTION AD1518C
フランスでのリリース:2009年10月12日
PS : 「ステファヌ・ドリックに絵葉書を」と訴えていたブログに書かれていたステファヌ・ドリックの郵便住所を以下に記します。
Stéphane Delicq :
CLINIQUE MEDICALE DU MAS DE ROCHET
563, chemin du Mas de Rochet - B.P. 59
34172 Castelnau-le-Lez FRANCE
この住所はまだ有効です。ドリックの『天使の一座』を愛された日本の方たちから絵葉書が来たら,どんなにうれしいでしょうか。
PS 2まだステファヌ・ドリックを聞いたことのない人は、
メタ・カンパニーの通販サイトで『天使の一座』を試聴してください。(
『天使の一座』日本語詳細)
PS 3ステファヌ・ドリック公式サイトにも
試聴できるページがあります。
『天使の一座』に収められた
「生きる(vivre)」のMP3フルヴァージョン。
PS 410月25日
『優しい女』の日本配給用ライナーノーツを執筆中、いろいろな新事実がわかり、このエントリーの本文も一部訂正しました。