ベルトラン・ブラン『タンブール・ヴィジオン』
35歳でデビューしたベルトラン・ブランが51歳になって7枚目のアルバムを発表した。2010年の サードアルバム『イペルニュイ(Hypernuit)』の高評価以来、安定した音楽活動および作家創作活動をしていたような(外部から見た)印象があったが、最新のテレラマ誌(2022年5月11日号)インタヴューでは生活はいつも火の車で、他のミュージシャンたち同様、30年間いつも路上(オン・ザ・ロード)にいた、と。そのツアー続きの生活を突然ストップさせたのが2020年のコロナ禍であり、ベルトラン・ブランも30年ぶりの"定住”生活を余儀なくされる。2020年、フランスの第一次外出制限(3月17日〜5月11日)と第二次外出制限(10月30日〜12月15日)の間の夏、8月と9月を通して撮影されたのがラリウー兄弟(アルノーとジャン=マリー)監督のミュージカル映画『トラララ』で、ベルトラン・ブランは主役マチュー・アマルリックの弟役という準主役級の本格”俳優”出演(+音楽担当)という、楽隊稼業とはかなり異なる2ヶ月間を過ごしている。
私が知っていたのはギターが自分のためになる瞬間と時間を私に保証してくれるということだった。私の脳はどのようにメロディーと和音が機能するのかを探し求めた。そのことで私は他のことをしなくてもよくなったし、この休息の感覚によって私は自分の力で100%生きている印象をもたらした。私がそれを望んでいたんじゃない。それは発見だったんだ。私の人生にとって信じられないほどの幸運さ。すでに存在していた音楽というものが、他のミュージシャンたちと同じように私をその従者として従えたんだ。 (テレラマ2022年5月11日号)
ギター(音楽)によって救済された、という感覚で音楽に没入していった少年時代。何から救済されたかと言うと、ベルトラン・ブランの歌に時々現れるテーマであるが、「貧困」なのである。男5人女1人の兄妹、漁師の父、主婦の母。キブロンで何代も前からそうやって生きてきた家系で、周囲の村民もみんな同じようなもの。このフランス深部の貧困は、私たちは北フランスの寒村から出てきた青年作家エドゥアール・ルイの登場で知らされることになるが、苛烈に激情的に短い年月でそれを抜け出すドラマを生きたエドゥアール・ルイとは違い、ベルトラン・ブランは長い年月をかけてここまで来た。露骨にそれをテーマに歌うことはほとんどしていないが、今回のアルバムでは2曲め(つまりアルバム中最も聴かれることを前提に選曲された曲)に"Que dalle tout"というエレクトロ・ロカビリーな歌がある。
先祖代々酔っ払いの家系の出身宴会の邪魔者結婚式ぶちこわし野郎
バス停の脅かし屋
猛犬使い
そんな先祖たちから俺は受け継いだあることないことすべて
先祖代々酔っ払いの家系の出身歯止めを食いちぎる無制限セックス野郎さかしま城のお殿様
複雑怪奇な肉欲
そんな先祖たちから俺は受け継いだくだらないことすべてを
すべてすべてくだらないことばかりを
0と1で長々と続いた家系の出身血の気の多いおセンチ野郎ヘビ使い土地の顔役
そんな先祖たちから俺は受け継いだくだらないことすべてを
すべてすべてくだらないことばかりを
"Que dalle"(クダル)を"くだらない”と訳したのはバイリンガルな爺ならでは(自画自賛)。それはそれとして、この歌は明らかにキブロンの少年時代を投射したものである。貧困とアルコールと奇癖のある代々の住人たち。変わらない深部の人々。
ベルトラン・ブランはゆっくりと時間をかけてその世界から離れようとしていた。ギターはその道を拓いてくれ、音楽は彼の生活となった。17歳で最初の自作曲を書いたが、人に発表するようになったのは35歳の時だ。その道をひたすらに歩んできたのだが、2020年、コロナ禍はミュージシャンたちの歩みを止めてしまったのだ。強いられた休息。その風景をベルトランは止まってしまった行進のように見ていた。1曲め「カルナヴァル」と3曲め「タンブール(太鼓)」はそのふたつのスケッチである。
カルナヴァル俺は人間の裏側を見たカルナヴァル俺は俺の頭の尻を見た勝利を叫び敗北を叫んだカルナヴァル
征服者の顔栄光の時野獣たちの時カルナヴァル俺はもう歩けない俺はもう歩けないカルナヴァル俺はくちばしまで油でどろどろだカルナヴァル俺はもう歩けない
この歩みの止まってしまった行進のイメージは、勝利だろうが敗北だろうが、人間の裏側や公にされた自分の恥部を見てしまった者には耐えがたいものだ。戦争と一兵卒の関係、奇しくもこのアルバムと同じ日に刊行されたルイ=フェルディナン・セリーヌの未発表小説『戦争』(1944年執筆)をも想ってしまう兵士の恨み節のようにも聞こえる。その戦争進軍のリズムを奏でるのが鼓隊であり、3曲め「タンブール(太鼓)」は(クラフトヴェルク風シンドラムで奏でられる)太鼓に引っ張られてしまう兵士や小市民の性(さが)の歌である。
太鼓よおまえは良い太鼓かこれらの白骨死体は誰なのか太鼓よこの辺を飛び回るハゲタカは何をしているのか太鼓よおまえは憎んで欲しいのかそれとも愛して欲しいのかおまえは俺の音楽を奏でおまえは俺を美しいと言う太鼓よそれはもうすぐ起こるとおまえは言う太鼓よおまえは良い太鼓かこれらの白骨死体は誰なのか太鼓よこの辺を飛び回るハゲタカは何をしているのか太鼓よおまえは憎んで欲しいのかそれとも愛して欲しいのか
待ってくれおまえに追いつくから太鼓よ
おまえの言うとおりだ太鼓よおまえは良い太鼓ださあおまえに追いついた太鼓よ俺はここにいる
Autour du soleil 太陽の周りではC'est la vie du monde des pays これが国家群でできた世界のあり方C'est la vie du monde これが世界のあり方
上に既に書いたことだが、このアルバムのバックトラックはギターをはじめ”楽器”が大きく後退して、ミニマルなシンセ音で構成されている。あたかもコロナ禍で楽隊メンバーが休息を余儀なくされているのを象徴するように。メロトロン、プロフィット5、シンドラム...。長年の相棒ティボー・フリゾニとブランの二人だけで作っている。どんなシンセの音かと言うと、70-80年代的な、もろにマリアンヌ・フェイスフル「ルーシー・ジョーダンのバラード」(1979年)の音で、改めてあの頃のシンセは”味があった”と再認識。しかしブラン/フリゾニのバックトラックは、そんな”味”よりも、もともと俳句的に装飾を削りに削り取った表現を好んでいたブランに、ますます”音数”を少なくさせるためのものだったようだ。高踏的な韻文詩人ブランはこういう表現で、国家や権力に反目する視点(ヴィジオン)を展開するのである。
今回のミニマルインスト・バックトラックのアルバムで、声と詞が否応なしに深められるのだが、その中で例外的に一番”歌って”いる曲が10曲めの"La Comédie(喜劇)”という歌である。
喜劇(あるいは悲劇)はもう一度その旗を掲げられるだろうカルナヴァル町はマチネーの回に並ぶ斜めの人影でいっぱいだ
俺もその中にいる英雄的なトロイ戦争の風俺はこの音楽を知っているが俺は好きじゃない
喜劇(あるいは悲劇)はもう一度その旗を掲げられるだろう
獣たちは交配のために一緒に繋がれてももう興奮もしないこの分野で俺は今ここにいることの
ものごとの成り行きを軽く見すぎていたのか
尻もちをついてしまった
喜劇(あるいは悲劇)はもう一度その旗を掲げられるだろう
俺は水たまりの窪地であるいは水泳の最中に眠ってしまったのかこの計算ではどうして俺は物に生まれなかったのかこの計算では俺はバラ色の人生を送ったかもしれないのに
喜劇(あるいは悲劇)はもう一度その旗を掲げられるだろう
一切宗教儀式なし一切の名前もなし一切の星もなし
一切宗教儀式なし一切の名前もなし一切の星もなし
お立ち会い、字面見たら、難解でしょう。しかし歌聴いたら、エモーショナルにジ〜ンとなるでしょう。これはハイブロー叙情派の文学体験だと私は思うのですよ。これがベルトラン・ベルトランの名人芸なのですよ。
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6. Marguerite
Bertrand Belin "Tambour Vision"
CD/LP/Digital CINQ7/WAGRAM MUSIC 3414272
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)ベルトラン・ブラン『タンブール・ヴィジオン』ティーザー
(↓)2022年7月12日発表のヴィデオ・クリップ "Alléluia"(5曲め)
















