その昔には、映画観たあとすぐにレコード屋に行ってサントラ盤を買い求めたくなるような、強烈に映画音楽に印象づけられる映画というのがあった。この映画のほとんどを包み込むようなアルノー・トゥーロン作曲のピアノ(+管弦アンサンブル)の抒情的でメランコリックな音楽は、そういう時代の映画音楽を彷彿とさせる。テレラマ誌はヌーヴェル・ヴァーグ派(とりわけフランソワ・トリュフォー)の代表的な映画音楽作家だったジョルジュ・ドルリューを引き合いに出して評していた。この映画にはやや古風なことにナレーションがついていて、語り手はフランソワーズ・ルブラン(今年82歳になる現役女優だが、ヌーヴェル・ヴァーグ時代ジャン・ユスタッシュ監督の『ママと娼婦 La maman et la putain』のヴェロニカ役で特に有名)で、落ち着いた文芸的な口調は耳に優しい。さらに言えば、この映画はなんと16ミリフィルムで撮られていて、デジタル映像で慣れてしまった目には、この”粗い”画質はおのずと20世紀的映画体験を想起させることになる。この映画は「トリュフォー的」と前評判が立っていたのには、これだけの要素でも納得できる。 映画の時代はほぼ現在であるが、主人公が郵便局で手紙を早く送るには「赤い切手 timbre rouge」(普通便=赤い切手、エコノミー便=緑の切手と分かれていた)を貼ればいいと説明を受けるシーンがあり、赤い切手は2022年末で廃止されているので、2022年以前ということになる。場所は(フランスで最も雨の多い地方)ノルマンディー地方カルヴァドス県のリジュー、同地出身の聖女テレーズ(1873 - 1897)を祀る聖堂があり、ルールドに次ぐフランス第二のカトリック巡礼地になっている。その町の私立カトリック系コレージュに通う14歳の少年オットー(演ミロ・マシャド=グラネ、2023年カンヌ映画祭パルム・ドール賞『ある転落死の解剖分析 Anatomie d'une chute 』の目の不自由な息子ダニエル役で既に高い評価)は、クラスの数人から長期間に渡って「いじめ」を受けていて、この世界に自分の居場所はないと、自殺することを決意する。さらば無情の世界。学校とクラスメートたちへの怨念を込めた遺書をしたため、同学年の生徒全員分フォトコピーをして封筒に入れ、52通の封書に(↑)赤切手を貼って投函した。夜間、飼っていたハムスターを森の中に解放してやり、その足でトーク川の急流に架る橋から身投げした。オットーの体は急流に流され、岩に何度もぶつかりながら下流(英仏海峡方向)に落ちていくが、何の力が作用したのか... 死なない。ずぶ濡れの態で岸に上がり、自殺の失敗を悟る。後戻りもやむなし。オットーは夜闇の中、遺書を投函したポストまで戻り、郵便函を壊して遺書を回収しようとするが、郵便函はどうしても壊れない。もう後戻りはできない。こうなったらこの町から消滅するだけだ。廃屋になっていた旧寄宿舎に籠り、ずぶ濡れの衣服を乾かし、こっそり町の残飯を拾ってきて食べるというホームレスサバイバルが始まる。
Mais c'est la mort マルシア、 Qui t'a assassinée Marcia あなたを殺したのは死神 C'est la mort マルシアを Tu t'es consumée Marcia 焼き尽くしたのは死神 C'est le cancer あなたが Que tu as pris sous ton bras 自分の腕で抱いてしまったのはガン
2007年11月、フレッド・シシャンの命を奪ったのもガンだった。53歳だった。その3ヶ月前2007年8月、レ・リタ・ミツコはわが家の対岸のサン・クルーのロックフェス「ロック・アン・セーヌ(Rock En Seine)」に出演していて、私と妻と娘の3人はそのライヴをおおいに楽しんだのだが、それがレ・リタ・ミツコの最後のステージになった。その2007年夏、向風三郎は『ポップ・フランセーズの40年』というガイド本を執筆していて、その中でレ・リタ・ミツコは2曲で紹介されている。ポップ・フランセーズと私が呼んでいる音楽の最良のアーチストなのだから当然だ。一つは「マルシア・バイーア」(1985年の項)、もう一つは「セ・コム・サ」(1987年の項)。両方とも向風は力込めて書いている。われながらよくあんな文章書けたものだと驚いている。以下に「セ・コム・サ」の項を再録する:
レ・リタ・ミツコのアルバム『ザ・ノー・コンプレンド(The No Comprendo)』(1986年9月発表)はそのアートの頂点であった。カトリーヌ・ランジェ、フレッド・シシャン、トニー・ヴィスコンティの3人の溢れ出るアイディアが最も突出した形で表現された奇跡のアルバムである。このアルバムの録音の模様はジャン=リュック・ゴダール監督映画『右側に気をつけろ(Soigne Ta Droite)』(1987年)で見ることができる。連続してシングルカットされた「アンディー(Andy)」、「セ・コム・サ」、「レ・ジストワール・ダ(Les Histoires d'A)」はすべてメガヒットになった。まさにレ・リタ・ミツコの恩寵の時期であった。 「セ・コム・サ」のヴィデオクリップはジャン=バチスト・モンディーノ制作で、CGアニメやコマ早回しなどをふんだんに駆使した童心あふれる作品で、おそらくモンディーノの最高傑作のひとつに挙げられるだろう。そして「セ・コム・サ」のサウンドはタイトルが示すように、問答無用、るせえ、文句あっか、の快速ロックンロールである。 歌詞はカトリーヌのふてぶてしい歌唱にも関わらず、やむにやまれぬ欲求のようなものを喚起していて、ひょっとしてこれはドラッグかなとも聞かれるきらいがある。しかし勢いは「出て行く女」のそれで、あんたのことは捨てたくないんだ、あんたと終わりにしたくないんだ、と言いながら、道祖神に吹かれて、セ・コム・サとバッサリ結論する。ほとんど意味はないが文句を言わせない迫力の勝利だ。私のレ・リタのベスト・トラックである。
その日常生活ウォッチャーの男がある日自宅アパルトマン建物の入り口にある住民共同掲示ボードに貼り出された「生まれたてのオウム差し上げます」の告知に目が止まる。 好奇心からその建物6階の告知主のドアを叩く。戸口に出てきた住人の老人は、要件をやりとりするひまも与えず、アルバンの手のひらに嘴の大きな生まれたての(羽根の生えていない)雛鳥を置き、注射器と植物性ミルクのパックを手渡し、これで一日に3度授乳するように、と。口早に老人から与えられたこの雛鳥に関する驚くべき情報:名前はジョー(Jo)、種類は "gris du gabon = オウム目ヨウム科”、ただしこの鳥種は2016年から絶滅危惧種としてワシントン条約で輸入商業取引が全面的に禁止になり、一般人がペットとして飼うことはできなくなった。見つかれば没収され、飼い主は処罰を受ける。だから、ジョーが病気になっても獣医には連れていくな、と。万が一、見つけられた場合には、「道で拾った」としらばっくれろ、と。そして寿命が人間と同じほど長く、飼うのは一生のつきあいと思え、と。アルバンはそれらの情報にさすがにビビってしまうのであるが、しかしそれよりも彼の手のひらから伝わってくるこの小さな生命の微動と温度に、これまで感じたことのない温情の昂まりを覚えてしまうのである。So you don't have to worry, worry, 守ってあげたい。父性なのか、母性なのか、親性なのか、(世の掟を破ってでも)この子を育て、この子と生きる、という選択は瞬時のうちに決定されてしまうのである。 アルバンはインターネット上からこの鳥に関する集められる限りの全ての情報を集め、アパルトマンにこの子の生きられる環境を整えてやる。小説はさながら”シングルファザー子育て奮闘記”(cf 辻仁成)のような様相を帯びてくる。人間と同じほどの寿命の長さを持つこの鳥とのつきあいは人間の育児の時間と同じほどの時間と労力を要することになるが、人間の子育ては、”物心がつくまで”、”自分で何でもできるようになるまで”といったピリオドで手間がかからなくなり、”独り立ちして親離れする”という段階で解放される。ところが西アフリカの自然環境からかけ離れて人間社会の中で出現してしまったこの子には、”独り立ちして巣立つ”という段階が最初から欠落している。この子を育てるとは、この子と一生を共にし、お前百までわしゃ九十九まで、というパースペクティヴで考えなければならない。ペットのことをフランス語ではいみじくも”animal de compagnie(アニマル・ド・コンパニー = 同伴動物)”と表現するが、アルバンは同じ建物に住む見知らぬ老人から、瞬時にして「これがあんたの一生の同伴者だ」と託され、それを瞬時のエモーションで受諾してしまった、という何とも魅力的な不条理文学を思わせる始まりだったのだ。だがこの小説の時間は”一生”は続かないのである。 エキスパートではない、鳥類学者ではない、と文中で断りながらも、この小説はこの鳥のさまざまな生態の特殊さを開陳してくれる。一般的によく知られていることではあるが、この灰色オウム(日本で”ヨウム”と呼ばれているということは私、初めて知りましたよ)の知能の高さである。人間の言語や物音を模倣再生する。オウムが喋る? どうだろうか。その模倣再生は何よりも「聴くこと」ができるからである。このことについてノトンブはこう描写している。
これが人生というもの。あなたの子供はあなたをもはや愛さなくなる時まで愛し続ける。そのために子供に正当な理由づけが必要になれば、子供はその理由を見つけられる。恩知らずと言うか? この世界の列強権力国がいつから恩義を守るようになったと言うのか? 愛は当たり前に与えられるものではない(L'amour n'est pas un dû)。