2019年4月5日金曜日

Carry that weight a long time

Aki Shimazaki "Maïmaï"
アキ・シマザキ『マイマイ』

阜県出身ケベック在のフランス語作家アキ・シマザキの15作目の小説にして、第三のパンタロジー(五連作)《アザミの影 L'Ombre du Chardon 》のサイクルを閉じる第5作め『マイマイ』です。このパンタロジーの前4作:『アザミ』(2014年)、『ホオズキ』(2015年)、『スイセン』(2016年)、『ふきのとう』(2017年)については、全作爺ブログで紹介されているので、それぞれのリンクから入って参照してください。さて本作『マイマイ』の話者は『アザミ』の時に4歳、『ホオズキ』の時に7歳だったタロウで、現在は26歳になっています。連作《アザミの影 L'Ombre du Chardon 》で中心的な存在だったミツコ(教養人たちのセレクトバー「アザミ」の人気ママ → 学術書専門の古書店「キトウ」の店主)の息子で、聾唖者でスペイン人との混血という「ハンディキャップ」を背負っています。耳と口が不自由なことはハンディキャップというのは了解できるけれど、父を見ることなく混血児として生まれ育ったことも、アキ・シマザキ描く日本の現代社会ではハンディキャップとなるのですね。しかし青年は画家を目指して専門校を卒業し、その日欧ハーフの容貌は美しくなり、名古屋というメディアやファッションという点では中心にない都市にありながらマヌカンとして収入を得ています。その同じマヌカン・エージェンシーに所属するミナという24歳のマヌカンと現在「交際中」です。
 小説冒頭で母ミツコがアルコール依存症に誘発された心臓発作で58歳の波乱の一生を閉じます。タロウに残された身内はミツコの母、つまり祖母である「ばあちゃん」と呼ばれる老女のみ。ミツコは死を予期していたかのように、タロウにさまざまな遺産を残します。まず学術書古書店「キトウ」を畳み、店舗を画廊に改装し、タロウの絵を陳列販売する。階上のミツコの住居に「ばあちゃん」とタロウが同居する。こうしてタロウは画家として独立する基盤を得ます。しかしミツコは自分の死後の段取りは組んであっても、タロウに隠されていたたくさんの謎は「ばあちゃん」も知らない迷宮のまま。その最も大きな謎はタロウの出生に関したことで、ミツコの弁では彼女がヨーロッパ(スペイン)で知り合い結婚の約束もしていたフェリペ・サントスと名乗る男(画家?)と出来た子供で、男は子供を一度も見ることなくマドリードで自動車事故で死亡、ミツコはその後金沢の産院でタロウを出産してミツコ(片親)の子として届けを出した、ということになっています。しかし死後発見されたミツコのパスポートの記録では、該当する年月にミツコは一度も日本を出国していない、というのがわかります。
 さて娘に先立たれた「ばあちゃん」はもう余生も短いのだから、タロウに早くいい女性を見つけて身を固めて子供を作り、「ばあちゃん」を早く安心させておくれ、なんていう封建的課題をタロウに課します。タロウはあらゆるハンディキャップを乗り越えて、「ばあちゃん」の願いを叶えようとする健気な孫であります。ちょっとちょっと、こんなので文学になるんですか?と不安になりますが、それはそれ。
 このアキ・シマザキ新作で、本当に気になるのが、重い大気のように日本人にのしかかる「フツーにたどるべき幸せのあるべきかたち」の圧力です。YMO風に言えば「公的抑圧 Public Pressure」となりましょうか。ユダヤ、イスラム、カトリック的な戒めのない多くの日本人の不文律の規範のようなもので、結婚して家庭を築くという「フツー」が「つとめ」であり「幸せ」であり「生きる理由・目的」でもあったりする。それをしないと「まっとう」ではない。一連のシマザキ小説はこの重圧をフランス語で非日本人にわからせようとしているところがあります。仮にこの一連の作品が日本語化されたとしたら、日本人読者はこのことになぜこんなにくどいのだろうと驚くかもしれません。そして21世紀的日本では、この重圧はこんなに極端なものではない、という反論も出るでしょう。この点は私はシマザキに同意するものがあり、この日本を包む空気はシマザキや私のように遠い外部から見る者たちによりはっきり見えるものなのだと思います。
 ちなみにこの日本的結婚のイメージはミッシェル・ウーエルベックの最新作『セロトニン』の中にも現れ、小説の序盤で現れるどうしようもない日本女性ユズも日本の良家の出身であり、日本に帰れば両親が決めた良家の許婚がいて自動的にその鞘に収まる義務がある、という主人公はユズの状況を解釈しています。この家柄による結びつき結婚という日本の封建的なイメージは欧米人に根強く残っているものかもしれませんが、それは全くの虚像ではないでしょう。
 さて「結婚」という「目的」を具体的に考えられるようになった(すなわち結婚相手候補が見えてきた)タロウは大きな壁にぶち当たります。自明のことながら結婚とは当事者の問題であるよりも、家と家との問題であるからです。目下のガールフレンドである美しい24歳のマヌカン(文面では雑誌写真モデルでハワイでの水着撮影もあるので、"グラドル"のようなものでしょうか)のミナは、フィアンセとして両親に引き合わせたいと言います。聾唖者+混血という2つのハンディキャップに加えて、独り立ちしているとは言え画家という経済的不安定も両親にはマイナス要素となりましょう。「身元のしっかりした人なんでしょうねぇ? 」この辺も怪しいものがある(なにしろ父親を知らない)。「フツー」水準に達していないおそれという公的抑圧にタロウは両親に会う前から打ちのめされそうになります。
 ミナとの関係に終止符が打たれるのは、ミナの数倍も波長が合ってしまう女性ハナコの(再)出現によるものですが、ほとんど時を同じくしてタロウは残されたただ一人の身内である「ばあちゃん」が前科者であり牢獄を体験したということを知り、結婚がはるか彼方に遠のいたと感じてしまうのです。いいですか?このシマザキ描く日本の公的抑圧の下では、タロウは聾唖、混血、不安定アーチスト、水商売女の息子、前科者の孫であり、これらの重荷を一身に背負ったタロウは、結婚という人生の目標地点に達することはもとより、生きていくこと自体数知れぬ障壁とぶち当たっていくことを運命づけられているということなのです。この巨大な重荷を背負ってのろのろ進むしかないカタツムリ(まいまい)、それがタロウなんですね、お立会い。
 余談ですが、平成の皇后美智子が幼少時に出会った童話としてよく紹介され、美智子自身が背負った悲しみのメタファーとしても引き合いに出される『でんでんむしのかなしみ』(新美南吉作、1935年)というのがあります。でんでんむしの殻の中には悲しみしか詰まっていない。その嘆きを別のでんでんむしにすると「私の殻も悲しみだけ」と言う。また他のでんでんむしも同じことを言う。そうかぁ、みんな同じか。みんな自分の悲しみを背負っている。この自分の悲しみの重さに耐えて生きていくしかないんだ、Boy, you're gonna carry that weight, carry that weight a long time... と悟るという童話です。
 この童話の寓意のように、タロウと同じほどの極端に重い悲しみを背負った人間がもうひとりいて小説の最後にその悲しみに耐えきれず殻を爆発させてしまうのですが、それはまた後ほど。
 タロウが7歳の時、突然現れた4歳の少女ハナコ、手話も知らないのに聾唖のタロウと自然にコミュニケーションが取れてしまう不思議。このいきさつはこのパンタロジーの第2作『ホオズキ』で展開されています。本作『マイマイ』の最大の弱点は、この『ホオズキ』を読んでいればすべてがお見通しなのです。『マイマイ』のなりゆきと結末はすでに『ホオズキ』の中に書かれているに等しいのです。熱心なシマザキ読者はこれに耐えられるかな?
 幼い日に一緒にお絵描きをしたり、名古屋の東山動物園で一緒に遊んだタロウとハナコ(ちょっとなあ、この名前二つ並べただけで童話的なのだが、このニュアンスをシマザキは説明する必要があるのではなかろうか)が約20年後に再会するにはミツコの死という事件がなければならなかった。ごく身内だけで葬儀を済ませ、多くの人はミツコの死を知らないはずなのに、ハナコは知っていた。それは古書店「キトウ」の顧客教養人サークル、そしてかつての教養人セレクトバー「アザミ」の常連サークル、というこのパンタロジー5作の中で出てきた人脈に限られたことであった。第1作『アザミ』でミツコの愛人となる地方雑誌編集者ミツオ(ちょっとなあ、この名前二つ並べただけで... )が、今も発行している地方文化雑誌「アザミ」にその死亡と古書店「キトウ」閉業の記事は載った。ハナコの父サトは外交官であり、現在は在ベルギー日本大使、20年前に古書店「キトウ」から哲学書を買っていた客(とは言っても来店はせずに、サト夫人が代理で買いに行っていた)で、雑誌「アザミ」の定期購読者。ハナコはそれを読んで、家族にお悔みを告げに現れたという次第。驚いたことにハナコは大学で社会福祉学も学び、完璧な手話者になっていた。
 第2作『ホオズキ』で展開されるミツコとサト夫人の短くも激烈なやりとりを、幼いタロウもハナコも知らない。しかしミツコはその時の思い出の品々(タロウがもらった浦島太郎の絵本、ハナコが描いた絵...)を机の引き出しに大事にしまっていたのをタロウは発見する。 ミナと破局した直後だったタロウは、幼い日のセンセーション(誰よりも一番気が合う相手)だけでなく、世界で最も大切なものを再び見出したような高揚を覚えてしまうんですね。二人は燃えるような恋に落ち、ハナコは人生最初の性的体験をタロウと交わすという劇的な展開となるのですが...。
 タロウの知らなかったミツコの別の顔、つまり濃い化粧とセクシーなドレスを纏ったセレクトバーのマダムを想像して、タロウはそのポートレートを連作で描き、その絵はかつての「アザミ」常連客に高価な値段で売れていき、タロウの画廊は軌道に乗ります。そして本格的に「ばあちゃん」とタロウとハナコの3人で家族として暮らそうという話になります。そこで再び現れるのが「結婚」という大きな壁です。駐ベルギー日本大使のサト夫妻が出張で一時帰国し、名古屋にも滞在する。ハナコとタロウの交際を知らない夫妻に、ハナコは結婚したい相手がいるので会って欲しい、と。タロウは再び日本の公的圧力の重さと直面しなければならないと緊張します。相手は外交官で名門の家、それにひきかえこちらは何重ものハンディキャップを抱えた問題多い素性。しかし幼い日の記憶では優しさあふれていたサト夫人...。
 その日がやってきて、ハナコのフィアンセ候補をそれと知らぬままその場に現れたサト夫人は、タロウの姿を見ただけで固まり、倒れ、やがて容態は悪化し、精神病院に収容されるのでした...。

 どうなんでしょうか。全体が難しいパズルではないので、いろいろ小さなトリック(元「アザミ」の客の婦人科医がミツコが妊娠不可能の体だったと証言する、「ばあちゃん」の監獄時代の友達は息子の罪を被って有罪になった、外交官サトは大変なプレイボーイで夫人と離婚の話があった...)は本当にこじつけっぽくて弱い。私はもっとざっくりと、タロウという何重の重荷もある美しい若者が、かたつむりのように触覚を出したり引っ込めたりいろいろな方向に突き出したりして、日本的重圧とぶつかっていく姿が見たかったのでしょう。たくさんのストーリーを詰め込むよりも、これまでのシマザキの切開してきた秘密やタブーや掟や性のありかなどを、ひとりの人間(この場合タロウ)がもっともっと問い詰めていくものであって欲しかったと思っていますが。
 最後は精神病院の病室で精神の不安定なカコ(サト夫人)がタロウに一対一で(手話で)告白&懺悔をします。何重の重荷(悲しみ)の殻がはじけたかたつむりというわけですが、悲しみは全く消えないのです。なにはともあれ完結しました。

Aki SHIMAZAKI "Maïmaï"
Actes Sud刊 2019年4月3日  175ページ 15ユーロ
 
カストール爺の採点:★★☆☆☆

(↓)The Beatles "Carry that weight" (1969年)これも今から50年前の曲。

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