2019年4月25日木曜日

ロマン・ノワールと人の言ふ

Philippe Djian "Les Inéquitables"
フィリップ・ジアン『レ・ジネキターブル(公正でない人々)』

quitable(エキターブル=公正な)"という形容詞は、1990年代からフランスでよく聞くようになった「フェアトレード (fair trade、公正取引、commerce équitable)」(途上国の産物が外国大資本の流通戦略によって不当に安価に売買されることを避けるために、生産者を守り尊重する適正価格売買を保証するラベル表示によって消費者に公正取引を知らせ、発展させていくオルタナティヴ商業運動)と関連して、非常にポジティヴなニュアンスで使われていたものです。仲介第三者の不当な利益や搾取を退けて、良心的な生産者と消費者が安全で良質のものを直接的に適正価格でやりとりする。良いことです。ジアン最新作がなぜこのようなタイトルになったのかはよくわからいところがありますが、「取引」とは関係しています。それは麻薬の密売に関することで、小説の中心人物マルクはある朝、海岸に打ち上げられた多量のコカインの包みを発見し、そのうち3キロを誰にも見られることなく持ち帰ります。積んでいた船が沈没したのか、取締捜査に追い詰められて海中に捨てられたものなのか、のちにこの大量麻薬発見のニュースはマスコミで報じられますが、そのうち3キロがなくなったのは誰も知りません。マルクはインターネット上でのギャンブル癖があり、いつも金欠状態なので、この天から降ってきた財宝を売って、大金を得ようとします。そのことを義理の兄のジョエルに相談するのですが、「やばい世界」は正直でジェントルマンな適正取引などあるわけがなく、そこからマルクとジョエルは "流血”も含むさまざまなトラブルに巻き込まれていきます。ここに登場する人物たちは「公正でない人々」と言うよりは「まっとうでない人々」と訳した方がいいかもしれません。
 舞台はフランスのバスク海岸の町ビアリッツで、漁港もヨットハーバーもある、魚介類を日常的に食べていそうな人たちが住んでいるところです。陽光さんさんのリゾート地というだけではなく、気候の厳しい日も多い「地方」であり、小説の中でふんだんに現れるように「麻薬」と「暴力」が環境の一部になっているようなグレーな海浜地区です。町がグレーに不安定な状態になったのは、1年前に死んだ(殺された)パトリックという男によって空いた「ヒーローの不在」現象のせいのようなことを小説は匂わせます。多くの町の人たちに人望があり、誰ひとりとしてこの男を悪く言う者はいない、みんなの「兄貴分」のような人物を想像できますが、小説は詳しいことを一切描写しません。この死のショックから立ち直れない第一の人物がその妻だったディアナ。撃たれたパトリックはそのディアナの腕の中で息を引き取っているのですから。町でその世代では一番の美貌の持ち主で男たちは誰もが憧れたディアナ、しかしそれ以上に完璧に「いい奴」だったパトリック、人々はこのカップルを完全無欠なものとみなしていたし、ディアナはすべての面で幸福であり、パトリックを熱愛していた。が、このヒーローが撃たれて死んだことによって、町の平衡バランスがガタガタに崩れるようなショックがあったのです。
 パトリックの実弟、つまりディアナの義弟のマルクはその日から心身共に弱ったディアナを護衛するためにディアナと同居を始めます。女ひとりで暮らすには不安材料の多すぎる町ということもあります。しかしそれよりももっと不安なのは、ディアナを襲う自殺衝動であり、彼女はこの小説の中で三度自殺未遂を起こしています。マルクの一番の役目はその自殺を未然に喰い止める監視役ということになります。年齢が20歳ほど離れたディアナとマルクの奇妙な同居生活は表面上はうまく機能していますが、マルクにとってもディアナはどこかで「憧れの女性」であることには変わりない。お互いに裸身の見える距離で暮らし、親密な話もし合う関係ながら、ディアナはマルクに「絶対にパトリックの代わりにはなり得ない」とクギを刺しています。マルクでなくても、ディアナにとってはヒーロー・パトリックの代わりになる者はこの世にいないのです。
 ディアナは開業歯科医であり、建物の地階を歯科医院として使い、階上を住居にして今はマルクと同居しています。定職もなく、家ではネット・ギャンブル、外ではひとりで小舟を沖に出して釣りをし、たまにレジャー船修理アトリエを営むジョエル(ディアナの実の兄)の手伝いをしているマルクは33歳のその歳まで性的体験がない。不器用で頑固な若い日々を送ってきたが、パトリックには可愛がられ保護されてきた。大人になれない未成熟なキャラクターだが、これが「ワル」として背伸びをしようとするところがあるんですね。ディアナには「ガキ」として見られたくない。
 そのマルクがひとりで初めて「おおごと」をするチャンスが、前述のコカイン3キロとして転がり込んで来たわけですが、これはひとりでは手に負えない厄介ごとに発展していきます。そしてディアナのボディーガードとして取り巻いていたつもりが、ディアナに横恋慕する町の有力者セルジュ(市長の息子) の気に障り、顔面を殴打され前歯を折ってKO負けしてしまいます。マルクとディアナの事情をあとで知ったセルジュは丁重に詫びを入れ、治療費全額の小切手を送り和解を求めてきます。マルクは心底の和解は絶対にしません。おまけにセルジュはディアナのセフレになった(ディアナは"純粋にセフレ”であり、パトリックの代わりではないとマルクに断言する)と知り、こいつのことは絶対許せんと思うのですが、例の事件でセルジュと協力関係を結ばざるをえなくなります。市長の息子であり、行く行くは次期市長となるべく政治的勢力も伸ばしつつあり、かつ警察とも通じていて情報も入手できるところにあり、若干の権力もあるからです。
 マルクが最も信頼を置いているジョエルは、実の妹であるディアナと険悪な関係にあり(実際はディアナがジョエルを憎悪している一方的嫌悪関係)、ディアナはマルクとジョエルの友好関係を良く思っていない。ジョエルは20歳も若い妻ブリジットと結婚したが、長続きせず離婚寸前の状態で、今は妻のいる自宅に戻らず、自社の事務所に寝泊まりしてアルコールにまみれて生きています。唯一信頼のおける男としてコカインの売り先探しをジョエルに相談したマルクでしたが、「ひとまず俺が預かっておく」がどこでどうバレたのか、ジョエルの自宅が襲撃され、ブリジットはパニックを起こし...。
 小説の不安なトーンはここで、町の全く無軌道で全くコントロール不能で名前のない破壊的な若者たちの存在をほのめかします。この超アナーキーでヴァイオレントな若い衆はどんな手を使ってでも欲するものを手に入れる。オールドスクールのワルには想像もつかないような武器も手段もある。そういうものを敵に回してしまった、というわけです。たまらずジョエルは(コカインのことはバラさずに)町の有力者セルジュに助けを求めます。ここでマルクも不本意ながらセルジュの庇護の下に入るわけです。
 ジョエル同様マルクも襲撃される可能性があるということは、当然ディアナも危険に遭う可能性があるということを察したセルジュは、ディアナのガードマン役のマルクに拳銃を授けます。得体の知れない敵との全面戦争が始まるようなピリピリした空気が町を包みます。

 166ページの比較的短いこの小説で、空気の重さで押しつぶされそうな海岸の町の、男も女も関係の糸をごちゃごちゃに絡ませながら、裏切りも雪解けも殺しも陰謀も...。ジアンの近作に多い、ときどき話者が誰なのかわからなくなる直接話法の文体で、罠も不可解もある緊張の連続の暗黒小説。ジョエルは若き日に、学生だったディアナの親友の女を極端にむごいやり方で強姦したがゆえに、ディアナはジョエルをずっと許せなかった。それを知ったマルクがジョエルと距離を置くようになると、いよいよジョエルは常軌を失い...。小説の中で死体は3つ、ジョエルが殺した女ふたりとマルクが殺したジョエル。
 どういうことと理解されるかと言うと、この悪天候と不穏な空気の町で、ディアナに青二才扱いされていた33歳童貞マルクが、犯罪と裏切りのドラマの数々に打ち勝って、ディアナを守り通すことができてヒーローの高みに昇華していく話なんですね。つまり遂に兄パトリックのレヴェルに達して、ディアナに身を捧げられる男になるっていう...。それにしても黒々とした小説で、フィリップ・ジアンさまさまです。

Philippe Djian "Les Inéquitables"
Gallimard刊 2019年4月 166ページ 17ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)ラジオインタヴューで映像なしですが、民放ラジオRTLのインタヴューで最新作『レ・ジネキターブル』を語るフィリップ・ジアン。


0 件のコメント: