2019年4月8日月曜日

Laïque a rolling stone

"La Lutte Des Classes"
『学級闘争』

2018年フランス映画
監督:ミッシェル・ルクレール
主演:レイラ・ベクティ、エドゥアール・ベール、ラムジー・ベディア
フランスでの公開:2019年4月3日

リの東隣でひっついている町がバニョレです。「ヌフ・トロワ(93)」と(ある種侮蔑的なニュアンスで)呼ばれるパリ北東郊外のセーヌ・サン・ドニ県に属しています。ヌフ・トロワは90年代頃から「荒れる郊外」の代名詞になっている失業・犯罪・ラップの渦巻く地帯ということで、歌にも映画にもよく描かれました。 そういうヌフ・トロワの中にあって、バニョレ(とその先のモントルイユ)は、ちょっと異種の「ボーダー地帯」のようなところがあり、移民系のエキゾティックなコミュニティーと、エコロでボボ(bourgeois-bohèmeブルジョワ=ボエーム、ちょっと裕福な”進歩的"ババクール)な(白人あるいはミックス)30〜40代夫婦ファミリーが共存して、フリマや異種合同カルナヴァルや共同有機農園で溶け合ったりしてる、そういう新しいソフトな郊外の顔が見えたりするところです。こういうちょっと「新しい快適」が話題になると、とたんに不動産が値上がりしていき、貧乏人たちは駆逐されて「劣悪な」郊外に放出されていくという現象も起こります。
 さてこの映画は、パリ20区のベルヴィル地区(やはり"ボボ”街となって不動産高騰の地になりました)から出て、予算内ギリギリでバニョレで小さな一軒家を購入した「結婚しない」カップルが主人公です。ポール(演エドゥアール・ベール)はかつてはちょっと名の知れたパンク・バンド「アマデウス 77」(実在のバンド Ludwig Von 88 のもじり)のドラマーで、現役で難民ホームレス支援のガード下コンサートなどしているユートピア系反抗中年ですが、基本的に良家のボンボンの風来坊で、前の伴侶との間にハイティーンの反抗的な娘がいます(同居してます)。ソフィア(演レイラ・ベクティ)はマグレブ系の血を引き、弁護士として社会的に成功している(かのように見えても、やはり問題ありというのが映画の途中でわかる)まぶしい女性です。二人の間にはコランタンという小学生の男児がいます。バニョレに引っ越してきて、ボボ的傾向の二人なので、やはりバニョレの中のボボ傾向の友だちが出来て、アペロや食事を共にする関係になりますが、みんな同じような年頃の子供たちがいます。で、みんな「ソフト郊外」的理想を夢見て、学校も人種も宗教も問題にしないライック(教育に宗教を持ち込むことを禁じる)な公立学校で育てようとします。ところが現実は公立だとどんどん学力が低下していき、上の良い学校へ行くのが難しくなるという懸念があり、ボボのようなある程度裕福な人たちには子供たちの将来のために私立学校へ入れるというのはごく自然な考え方です。しかしその辺のボボと一線を画すポールとソフィアの左翼的で反抗的な理想主義は、子供を共和国のライックの学校で育てて成功させる、と方針を変えません。
 映画はその共和国の(つまり公立の)学校の現場を映し出します。騒然とした学級、手に負えない子供たちになすすべを知らない教師...。ボボ親たちの子供たちがどんどん私立に移り、コランタンは孤立していきます。この映画の表現では、コランタンはクラスで最後の「ブラン(白人)」になってしまいます。ソフィアはポールのこの表現に憤慨します。「私の前で "ブラン"って言うの!?」ー ソフィアはマグレブ系の娘として(程度の問題とは言え)「ブランシュ」と見なされない少女時代を勉強で跳ね返して弁護士として晴れの舞台に出たと思われようが、パリの大きな弁護士事務所で回ってくる仕事と言えば、やはりマグレブ系クライアント案件専用なのです。「私は郊外では"ブランシュ"だけど、パリの仕事場では"アラブ”なのよ」という複雑さを、ポールは理解していない。まあ、それはそれ。
 バニョレの公立小学校のクラスで孤立して、移民系(と言うよりは、みんなフランス人なのだけど、肌の色が違ったり、給食でブタを食べなかったり、という程度の違いなのだけど)の子供たちにいじめられるコランタン。それをなんとか公立のやり方でまるく納めようとする気のいい小学校長ベンサラー(演ラムジー・ベディー。この人この頃とってもいい味)。おまけにコランタンは将来は男とカップルになると公然と宣言するような"自由"な子供で。しかしポールとソフィアの息子への心配はだんだんエスカレートしていき、ついには観念して私立学校に転校させるか、あるいは偽住所を作って隣町モントルイユの公立小学校に越境転校させるか、というレベルへ....。
 監督のミッシェル・ルクレールは現代(90年代以降という時代限定ですけど)の遅れてきた左翼闘士コメディーのような作品を撮る映画作家で、最も知られているのが『人々の名前(Le Nom des gens)』(2010年)、その次作の『テレ・ゴーショ』(2012年)はこのブログでも紹介してるので参照してください。トーンは心優しい左翼人がどんどん変わっていく時代と折り合いをつけるのがとても難しくなっている滑稽さなんです。この新作では元パンク(あ、現役パンクか)のポールが、どうやって自分たちが信じてきた理想をこの難しい時代に生き残らせるのか、というのに必死になっている滑稽さなのです。
 タイトルは La Lutte des Classes とそのままの文字では「階級闘争」 と訳さなければなりません。この "Classes(クラス) = 階級”を "Classes(クラス)=学級/教室"とかけているわけです。学校のクラスをめぐるこの若いカップルの必死の闘争ということです。
 映画は最後は、詳しくは言いませんが、共和国の学校が勝利するかたちで終わります。そうですとも、このライックの価値をどうにかして私たちは守らなければならないと私も思っています。それはバニョレのような町がやっているようなある種の新しい冒険を、やっぱり大事にして応援してやるようなオピニオンが増えていかないといけないんじゃないか。「ボボ」という揶揄された目で見られようと、境を取り払い共存しようというイニシアティヴを持ってやってるのは、この30-40歳代の有機野菜世代なのですから。

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)『La Lutte des Classes(学級闘争)』予告編



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