2018年3月24日土曜日

ツリーとリゾーム

 Aki Shimazaki "Fuki-no-tô"
アキ・シマザキ『ふきのとう』

キ・シマザキの第三のパンタロジー(五連作)の第四作品です。前作(つまりこのパンタロジーの第三作)の『スイセン』の発表当時まで、このパンタロジーにはまだ名前がなかったのですが、昨年その総題は『アザミの影(L'Ombre du chaudron)』と発表されました。というわけで、現在までにパンタロジー『アザミの影』は :
1. 『アザミ』(2014年)
2. 『ホウズキ』(2015年)
3. 『スイセン』(2016年)
4, 『ふきのとう』 (2017年)
と4作発表されたことになり、残り1作で完結することになります。『アザミ』『ホウズキ』『スイセン』はそれぞれ拙ブログで作品紹介しているので、貼り付けたリンクで参照してください。この五連作の舞台は20世紀末から21世紀初頭(携帯電話はあるが、インターネットやスマホの一般的普及の前)の日本の中部地方(中心都市は名古屋)です。
 『ふきのとう』の話者は第一作品『アザミ』で主人公だった地方誌編集者のミツオの妻、アツコです。『アザミ』の中で、ミツオとアツコの夫婦は二児を授かった後「セックスレス」になり、ミツオは偶然再会した小学校時代の「初恋」の女ミツコ(セレクトバーで"アザミ”という源氏名で働いている)に激しい恋慕を燃やし「不倫」関係になり、それがアツコにも知られ夫婦&家族崩壊の危機となるのですが、ミツオが悔い改め元のサヤに戻ります。亡き父から引き継いだ田舎の農家と農地を今日的な有機野菜農園に変身させ、一人で切り盛りするアツコ、二人の子供はこの田舎が好きで母親と暮らしていますが、根っからの都市生活者で田舎が苦手だったミツオも独立して地方雑誌社を経営するようになってから会社を田舎の近くに移し、それまで週末だけ通っていたアツコの田舎家に同居して通勤するようになります。 一家四人が再び結束して暮らす平穏に支えられ、アツコの有機農園は軌道に乗り、助手が必要になってミツオの雑誌に求人広告を出します。その求職者のひとりとして現れたのが、20年間音信の途絶えていた高校時代の親友フキコ(漢字では"蕗子")でした。小さい頃から土いじりが好きで将来は農業の道に進みたいと考えていたフキコはその夢を捨てて高校を卒業してすぐ銀行マンと結婚して家庭に入り、アツコの前から姿を消します。銀行マンは地方都市の支店長に出世し夫婦は二児をもうけ、外側から見れば順風満帆で何不自由ない身分のフキコが低収入主婦パート求人に応募したのは、この夫婦は協議離婚を準備中だからなのです。フキコは結婚生活で中断された農業へのパッションを取り戻し、第三の人生を歩み始めようとしている...。
 さてこの最新作の重要な軸はジェンダーです。アキ・シマザキが大きくこのテーマを扱うのはこれが初めてです。回想される高校時代のフキコとアツコの出会いというのは、同じ町の別々の高校に通いながら、アツコに一目惚れしたフキコが「交換日記」(お立ち会い、この言葉を見ただけで甘酸っぱいセンセーションに襲われませんか?)を提案し、その日記交換は1年間続き二人は極私的なことまで告白する親友になります。少女同士の親友関係というのはあることじゃないですか。アツコはその時はそう思っていたのです。ところがフキコの側はそれは恋慕だったのです。それを明かすことなくフキコは高卒で突然結婚して姿を消します。アキ・シマザキはここでその当時の日本の地方部における同性愛者を取り巻く封建的な環境で、その蒸発を説明しようとします。挿入されるエピソードとして、フキコの叔父の娘で地方のテレビアナウンサーとして活躍していた女が、同棲していた女に関係の公開(カミングアウト)を迫られ、スキャンダルを恐れた花形アナウンサー嬢が自殺してしまう、というのがあります。フキコの家族はその秘密を漏らすまいという立場を取り、一家にこのような悲劇はあってはならない、「ノーマル」でなければならない、と。フキコはそこで自分のジェンダーに反して「ノーマル」の人生を歩まねばならない、という決断をし、「ノーマル」の証拠を家族と社会に見せつけるために18歳で結婚を選んだのです。
 アツコの助手として農園で働くことになったフキコは、会計事務処理能力も畑での農作業も優れていて申し分ないどころか、アツコとの友情復活で身も心も一新して活き活きとしています。しばらくしてフキコの離婚が成立して旧姓に戻ります。夫ミツオも家族も、すべてを任せられる頼もしい助っ人としてフキコは信頼を集めます。誰よりも嬉しいのはアツコでしたが、フキコの過去と現在を知っていくにつけ、その美しい同輩女性がそばにいるだけで、これまで味わったことのないエモーションの萌芽を感得するようになります。すなわち、アツコはその歳まで潜んでいたジェンダーが早春のふきのとうのようにむくむくと、という話なのです。
 「不倫」を悔い改め、家族の絆を第一に生き直そうとするミツオは、セックスレスをも解消するべく、ある日アツコと二人だけでの旅行(新婚旅行以来初めて)を提案します。アツコも諸手を挙げての賛成で、嬉々としてこの旅行プランを練ります。行く先は佐渡。子供たちは母に任せ、農園はフキコに任せ、夫婦二人水いらずの旅行になるはずだったのですが、旅行予約がすべて終わった頃、ミツオの書いた地方ルポルタージュが全国的なジャーナリズム賞をもらうことになり、その受賞セレモニー(於京都)の日と旅行日程が重なってしまいます。優先順位はミツオの授賞式。その場合旅行を後日に延期すれば済むことなのですが、小説だとそうはいかんのです。ミツオはせっかく予約したんだから、フキコと二人で行ってくれば?と提案します。この小説中の最大のターニングポイントなのですが、フキコの同行というのは唐突で無理矢理な筋の引っ張り方のように思えます。ま、それはそれ。
ここまで読んだら容易に予想できると思いますが、この佐渡旅行でアツコとフキコの関係は本物の恋になってしまうのです。旅館で一つのお風呂を使い、お互いの裸体を愛でて洗い合い、のっぴきならない仲になってしまいます。この佐渡旅行で作者はいろいろなディテールを挿入します。新潟から佐渡に渡るフェリー船に乗り合わせた夫婦といろいろな話を交わすのですが、その妻の方が、その後で二人が泊まる旅館の仲居であった。二人が旅館にチェックインする時に、アツコは同行者は私の妹なので一部屋でお願いします、というウソをつく(←こことても気になる。日本の旅館では夫婦家族や血縁者でなければ、普通ひとつ部屋で泊まれないものなのか? 女ふたり、男ふたり、婚姻していない男女ふたり、の旅館ひと部屋利用というのは人目をはばかるものなのか? 地方の旅館ではまだまだこういうタブーがありますよ、という含みなのか?)。そして部屋に通された後、紹介された仲居が、フェリー船で会話を交わした(その時アツコとフキコは友達旅行だと言っていた)女だったとわかり、二人は関係がバレるのではないかと不安になる。そしてこの旅行の最大のドジは、フキコが旅館にブレスレットを忘れてしまったことで、後日この忘れ物の件で旅館が宿帳に記帳されていたアツコの電話番号に連絡すると、その電話を取ったのはミツオで、ミツオはその電話でアツコとフキコが「姉妹」を名乗って一部屋に泊まっていたことを知ります...。
 こういう仔細をいろいろ差し挟むのは、ひとえにこのタブーの重さを強調するためでしょう。誰がどこで見ているかわからない。同性愛は今日の日本においてもなお「ノーマル」ではないし、夫婦、家庭、世間体を破壊してしまう契機があるもの、という重苦しさを非日本人読者にわからせようとしているのでしょう。 
 フキコの離婚後を私が「第三の人生」と書いたのは、すでに自分のジェンダーを把握していた18歳までの第一期、それを隠して結婚して家庭に入り「ノーマル」としての社会的責任を果たした第二期、そしてジェンダーを取り戻してそれに従って生きようとする第三期を意味しているのです。十代の時から恋い焦がれていたアツコは自分の胸に飛び込んできたのです。作者としては幸せにしてあげたいでしょうねぇ。
 そしてアツコはアツコで、自分はミツオを愛していて、かつての「不倫」の相手ミツコへの嫉妬は消えることがなく、今や「正常化」したミツオとの関係と家族の絆がより強くなったことにグローバルに満足しているものの、ミツオへの愛にパッションがないということを自覚していきます。形而下的には、フキコとのパッションを知った今となっては、もうミツオと二度とは性交ができない、ということを体は知っている、ということです。
 フキコがどんどん過去を清算して前へ進み、アツコと農業人として開花しようとするのに刺激され、アツコも新たに発見されたジェンダーと共に生き直すことを考えます。だがどのようにして? 小説はこのアツコの偽りのない思いを手紙にして、ミツオに手渡すところで章を閉じます。
 作者は象徴としてこのことをアツコの所有する土地の中にある竹林に例えています。竹林は長い間放っておいたので荒れていて、その生え放題の下枝を大々的に伐採しないと、売り物にできるようなタケノコが収穫できません。なんとかしなければとずっと思っていたのですが、その春、そこにふきのとうがたくさん生えたのです。フキの地下茎(リゾーム)として隠れていたものが、地表にポコッ、ポコッと。天ぷらにしても、茹でて三杯酢だけでも美味しい、と書いてあります。地下に見えずにいたリビドーかジェンダーのように、アツコの前に顔を出したのです。日本の花鳥風月的情緒とよくマッチしたメタファーであります。
 しかし、佐渡の観光スポット、「夫婦岩(めおといわ)」、二つの相似形のようなピラミッド状岩山、一つの方には割れ目があるでしょう、と説明するの、やっぱり非日本人系読者に分かってもらうためには必要なんでしょうねぇ。日本にはいたるところに性があるのに、どうしてタブーだらけなんでしょうか。

Aki Shimazaki "Fuki-no-tô"
Actes Sud刊 2018年4月  150ページ 15ユーロ

カストール爺の採点:★★★☆☆

(↓)今は昔、別の高校にいたフキコが、アツコのいる高校の放送部の昼休み音楽番組に、リクエストハガキを出して、アツコに名指しでプレゼントした曲。ビゼー作曲組曲「カルメン」よりインテルメッゾ。これが校内放送で流れた時、アツコの周りは「いったいどんなカレシが... ?」と囃し立てたのですが、アツコもまだ見ぬカレシに胸ときめかせていた。ああ青春。
 

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