2021年5月31日月曜日

太陽はもう輝かない

Oxmo Puccino "Les Réveilleurs de Soleil"
オクスモ・プッチーノ『太陽を目覚めさせる者たち』

オクスモ・プッチーノ(本名アブドゥーライエ・ディアラ)は1974年セグー(マリ)に生れ、翌75年に母と共にパリ19区に移住している。以来、このいわゆる”難しい地区”(暴力、犯罪、ドラッグ...)と呼ばれるプラス・デ・フェット(Place des Fêtes)界隈で育ち、11歳でラップ/ヒップホップと出会い、13歳で既に自らラッパーとなっている。1990年代後半、文法や韻を無視する"フリースタイル”/”ハードコア”派のラッパー連合タイム・ボム(Time Bomb)(ピット・バカルディ、X-メン、リュナティック...)に参加。1998年タイム・ボムの解散後、ソロ・デビューアルバム『オペラ・プッチーノ(Opéra Puccino)』を発表、アルバムはじわじわと売れ始め、8年後の2006年にゴールドディスク(売上10万枚)を認定される。2001年、オクスモはジャック・ブレルの最後の録音曲のひとつ"L'Amour est mort"(1977年録音、2003年に"未発表曲"として初CD化)にインスパイアされたセカンドアルバム"L'Amour est mort"を発表。以前からそのシャンソンに近い叙情性とディクシオン(発話法、明晰な語り口)で評価を得ていたラッパーが、ここにきて「黒いジャック・ブレル」と異名をとるようになる。まあ、「黒いブレル」と呼ばれた人はいろいろあって、アブダル・マリック、ストロマエもそう言われることがある。マリ出身でグリオの家系ではないが、その賢者(あるいは知識人)的な佇まいやストーリーテリングの妙でグリオ的な評価もされている。しかし私にしてみれば、オクスモの一番の魅力はその深々と響く声であり、この声から発せられる明晰で詩情に満ちた言葉が多くの人の心を掴んでいるのだと思う。他ジャンルのアーチストたちからも呼ばれることが多く、バンジャマン・ビオレー、ベルナール・ラヴィリエ、サルヴァトーレ・アダモ、イブラヒム・マールーフ、デーモン・アルバーン(ゴリラズ)などと共演している。ヴィクトワール賞2回(2010年と13年)、2019年にはフランス文化芸術勲章を授与されている。とまあ、大変な大物になってしまった人であるが、一応私の最も好きなオクスモの曲のクリップ動画を貼っておきます。↓"365 jours(365日)"(2009年)


 オクスモ・プッチーノはこれまで3冊の本を発表している。詩集"Mines de cristal(水晶鉱)"(2009年)、ツィート選集"140 piles"(2014年)、ツアー随想記"Au fil du chant"(2019年)。そしてこれが初の小説というわけである。長い間構想はあったものの、 小説として発表しようというきっかけを作ってくれたのが、(同業ラッパーである)ガエル・ファイユの『小さな国』(2016年)だったという。それまでプッチーノは歌詞(ライム、パロール)と小説の違いについて考えたことがなく、同じようなものだと思っていたのだが、この『小さな国』を読んでその相違がはっきりとわかり、そのおかげで初めて小説を書きたいという欲望が湧き出た、と。試作のように短編をいくつか書き、人に見せずにそのままにしておいたが、 COVID19の外出制限(ツアーの中止)となって、暇つぶしの整理作業のうちに出てきたその短編の一編、これを外出制限の間に加筆してふくらませたのがこの作品。
C'est l'histoire de la rencontre de l'aube et du crépuscule qui se réunissent chaque matin et chaque soir par amour pour agrémenter le lever et le coucher du soleil.
これは日の出と日の入りを愛によって飾り付けるために毎朝毎夕現れる二人、曙と黄昏の出会いの物語。

 時は太陽がもう輝かなくなったポスト・アポカリプス記。主人公は13歳の少女ロジー、両親は既にこの世になく、祖父のエドモンと二人暮らし。野菜と薬草の元となる花や草を育てて暮らしていたが、太陽が出なくなってから植物の成長は止まり、エドモンの老体も不調となって咳き込んでばかり。世界一の大富豪ノエが太陽光を独り占めしたからに違いない、とエドモンは老体に鞭打って直談判を試みるが叶わず、体の不調をいよいよ深刻化していく。祖父の命を救わんとロジーは愛車(自転車)ハーレイにまたがり、ひとり敢然と太陽を再び昇らせるために旅に出る。その道程で出会うのは : 冷たい風を吹きまくる嫌われ者のクレピュスキュール(夕闇)、その心の恋人のオーブ(朝焼け)、世界一美しい女ヴェニュス、大ホラ吹きの有名人ファモス、魔術師の女イルラとその夫で猫のシンノ、幾多の星を漁網で釣り上げる漁師モモ、酔いどれギャンブラーで太陽の目覚まし番だったベラット....。
 『オズの魔法使い』、『不思議の国のアリス』、『星の王子さま』、一連のティム・バートン映画を想わせるファンタジーである。当ブログでもかなり高く評価していた(近作はそうでもない)マチアス・マルジウ(ディオニゾス)のファンタジー小説群と同じ傾向の"文学”と言えよう。絵本、BD、アニメになった方が本領を発揮しそうな"コント"(conte。日本で使われる"コント"とは異なる「物語」「架空の話」「お伽話」の意味)である。奇想天外な登場キャラ、魔術や超自然現象などがものを言う世界なのだ。言うまでもなくそこには絵空事ではない環境危機が寓意の中心となっているわけだが、物語で描かれる少女の旅路は求道的で哲学的である。ロジーは太陽を再び昇らせることができる(可能性のある)人を探して東奔西走するのだが、その出会いは多くのヒントを与えはするものの、その人は望みを叶えることはできない。次から次に消えていく望みの果てに、最後まで道連れとなったクレピュスキュールとオーブの友情に支えられて、最終的に「自分がやるしかない」、ロジー自身が太陽を探しあて連れ戻すしかない、と悟るのである。
 その道程は二十数年前19区のハードコア・ラッパー/機関銃 ライム射手だった男が、メタファーの魔術師と呼ばれ、暗黒叙情の語り部となり、黒いジャック・ブレルと異名をとり、ヴィクトワール賞、文化芸術勲章を授かるに至る道のりとパラレルなものであろう。環境危機に打ちのめされた世界にあって、こんなにもひとりの少女のポジティヴな行動に光を見出してしまっていいのか。これにはもっと説明と違うアクションが必要であろう。オクスモ・プッチーノは2020年のある日自分の拠り所であった音楽が消えてしまった時に"小説"を書き始めた。音楽とは違う表現を得たことで生き返ったと思っていて、この第一作のあとも書き続けたいと望んでいる。
 絵のないBD、画面が闇のアニメ映画のように読めるこの作品、決して読みやすい文体ではない。イマジナティヴなメタファーやユーモアはラップのように直感できるわけではない。私の読み方が下手なのか。もっとラップのような速度でぐんぐん読み進めばいいのか。日本語化たところで、その文体がどんなものかをわかっていただくわけにはいかないだろうが、少しだけためしてみよう。大ほら拭き(今の言葉ではインフルエンサーか)にして大スターであるファモスとの出会いが全く何の役にも立たなかったことに落胆し、消耗し、疲れ果て、眠りに落ちたロジーは、その落胆を慰めるようなカラフルな夢を見る:
(・・・・)彼女は大きく息を吸い、何も考えずに水に飛び込んだが、その入水はあまりにも優美で、海の青いシーツにまったく皺を寄せることはなかった。世界と空と夜から護られて、ロジーは呼吸する必要を全く感じることなく深みへと泳いでいき、四肢の動きは早まっていった。海底に近づき、まさに足をつけようとした時、海底の砂が渦巻き、もっと暗い海底の奥への入り口となって開き、彼女は降下を続け、肩の後方に見える海面は小さくおぼろげな発光点に変わっていった。彼女の前には金色のきらめきがクジラの歌声に合わせて踊っていた。
光に近づいていくにつれて、怖くも震えることもなくなり、ロジーは水が赤く染まっていくのを見ても驚かなかった。あたりは明るくなり、水は緑色に変わり、きらめきは遠ざかっていった。ロジーが腕と脚をバタバタさせると、水の色はまた変わった....。危険な跳躍をした時のように彼女の胃はキリキリ舞いをしたが、それでも彼女は水の底へと降り続け、海底にどんどん近づき、しまいに光の前で海底に足をつけた。その熱は猛烈で、まるでピザ焼きの窯の中のようで、魚たちは大急ぎで退散したが、ロジーは何も感じなかった。それは一種の歓迎の熱であり、彼女はその輝きと二人だけで対面し、その周りは漆黒の夜の闇だった。彼女は大きな水の流れの奥にあるのが祖父の姿だと思った。
ー おじいちゃん? ねえ、おじいちゃんなの? 私は太陽はただ休みが必要だっただけなんだと思うの。ママンみたいに眠ってしまうんじゃなくて、パパみたいにいなくなっちゃうんじゃなくて... 。パパは帰ってくるって、おじいちゃんもうずいぶん前から言わなくなったよね。
ロジーが祖父だと思って話しかけている光の球は何も答えない。
(p113〜115)

私は最後まで読んだが、この音楽アーチストの大ファンでこの本を買った人たちの多くは、最後まで読まずに脱落したのではないか、と思う。私にも『オズの魔法使い』やティム・バートン映画と比較して論じることなどかなり無理があるように思う。私にとってこれは"文学”ではない。音楽とライムの達人であっても万能ではないし、オクスモ・プッチーノは得意な領分でがんばってくれればいい、と思ってしまうのですよ。

Oxmo Puccino "Les Réveilleurs de Soleil"
JC Lattès刊 2021年5月19日  170ページ 19ユーロ

カストール爺の採点:★☆☆☆☆


(↓)2021年5月、初小説のプロモーションとして、読書体験、エクリチュールなどについて語るオクスモ・プッチーノ。


(↓)ウォーカー・ブラザース「太陽はもう輝かない」(1966年)

2021年5月20日木曜日

庭にワニ

Odessey & Oracle "Crocorama"
オデッセイ&オラクル『クロコラマ』

オデッセイ&オラクルはリヨンのサイケデリック/バロック系の4人組バンドでこれがサードアルバム。バンド名は60年代UKのサイケデリック/バロック・ポップのバンド、ザ・ゾンビーズのセカンドアルバム『オデッセイ・アンド・オラクル(Odessey and Oracle)』(1968年)から拝借しているが、このアルバムタイトルはジャケットアート制作者がスペルミスで正しくは"Odyssey"のところを"Odessey"としていて、この誤りを訂正することなくそのまま発売したという曰く付きの綴りを踏襲している。
このゾンビーズのアルバムは「ふたりのシーズン(Time of the season)」(日本でも大ヒット、私は当時中学生でシングル盤を買った)というスマッシュヒットを含んでいただけでなく、サイケデリック/バロック・ポップの傑作アルバムとして後世まで高い評価を保って40周年盤も出ている。その盤は持っていないが、43年の時を経て今回初めて全曲をYouTubeで聴いた。チェンバロ、オルガン、メロトロン、(ビーチボーイズ流)コーラスハーモニー、音階起伏と音符が多めの対位法作編曲、エフェクト、なんとアーティーで格調高くカラフルな音楽であろうか。多くの後進たちに多大な影響を与えたであろう。そのひとつがこのリヨンの4人組であったというわけか。名前までいただいて。
  さてリヨンのオデッセイ&オラクルが40数年前の先達と大きく違うとすれば、女性2人+男性2人のバンドであり、バンドのフロントとなっているのはファニー・レリティエというブロンド女性である。バンドの好き嫌いは99%この女性のヴォーカルで決定されるだろう。メンバーと担当を記しておこう。
ファニー・レリティエ(Fanny L'Héritier):ヴォーカル、エレピ、アナログキーボード
アリス・ボードワン(Alice Baudoin) : チェンバロ、ポジティヴオルガン、リコーダー、バロック・オーボエ
ギヨーム・メドニ(Guillaume Médoni):ギター、バンジョー、ベース、アナログシンセサイザー
ロメオ・モンテロ(Roméo Monteiro) : パーカッション

作詞作曲は全曲ファニーとギヨームの手になるもの。バロック楽器と60年代から80年代のヴィンテージ電子楽器を用いる。四の五の言わず、百聞は一聴に如かず、この新アルバム冒頭の曲を聴けば、どんなバンドかわかる。(↓)"Chercher maman(ママンを探しに)"

 
かなり高低の難度ある旋律を歌う可憐でフラットで非声楽系の少女声ヴォーカルと、バロック室内アンサンブルのようなインスト、そしてフーガ風なコーラスハーモニー、洒落っ気もあってよく構成された曲、と聞こえた方、まあそれだけじゃないんですよ。これは積年の恨みを晴らすべく、妻が夫を料理包丁で刺殺し、眠っている子供たちを起こして、パパがあの世に行ったからパーティーして祝おうとするのだけど、パトカーのサイレンが鳴って「ママンを探しに」憧れの王子様(警察)がやってくる、という歌詞。残酷なマザーグースを想わせる、優しいメロディーと歌詞のデカラージュ(ずれ)の妙。それはアルバムジャケットのシュールレアリスム風コラージュでも明らか。
で、この「ママンを探しに」という曲の(コロナ期の録画なので観客なし)ライヴ動画(↓)がYouTubeに載っていて、このバンドが実際に複数のヴィンテージシンセを駆使して、ギヨームのギター(いい味出てる)とコーラスを絡ませてバロックアンサンブルになっている様子がわかる。私はこの動画見て、絶対このバンド見てみたいと猛烈に思った。


 新作『クロコラマ』は11トラック41分のアルバムであるが、ファニーとギヨームのソングライティングの多彩さに驚かされる。(バロック)ソフトロック(5曲め"Le manège")、(バロック)サンバ(4曲め"Mascara")、(バロック)フォーク(7曲め"Antoine Rouge")、(バロック)ミュージカル映画風(8曲め"Les enfants")、(バロック)古楽ロック(10曲"Ferdinand L'Albigeois")...。それはファニーのヴォーカルの資質によるところだろうが、楽譜に忠実に難しい起伏の音階を歌い切るフラットな歌唱はある種童謡的でもアニメ的でもある。これは往年のNHK「みんなのうた」(60/70年代)に時々はさみこまれた(だいたいがアニメに彩られていた)「わかりやすい前衛」的なクリエイティヴな佳曲の数々に似ている。ちょっと難しめで高尚なことを、ソフトにユーモアを込めて、決してアグレッシヴになることなく、まる〜い音楽にしてしまう芸当。
 アルバムタイトル曲「クロコラマ」は、素晴らしいアニメのクリップと共に発表されたが、今日のウルトラリベラル資本主義の寡占階級をワニに喩えて、童謡のように子供たちにもわかるように世界を牛耳る超金持ちたちの悪行の数々を歌う歌であるが、数種のアナログシンセサイザーで表現されるワニたちの所業が聞きもの。

歌詞「クロコラマ」(↓)

クロコたちがまた悪巧みの箱を取り出したぞ
悪どい策謀の貯蔵庫だ
飽食経済に目をギラギラさせ
クロコたちが猛威をふるう


広告看板のうしろで待ち伏せし

クロコたちは易々と人々の頭脳と時間を盗み

それを大株主たちの利益のために転売する
クロコたちは億万長者


儲かる商売には頭をペコペコ下げ

オレンジの果肉を小分け鮮度包装で売り

労働者たちをまんまと騙してゼニ稼ぎ

満腹するドラゴンたち


ただの
湧水をプラスチック瓶につめて売り
その金を戦略的メディアに投資する

あらゆるニューステレビ局のおかげでクロコはメディア映え
実利に長けたクロコたちだ


クロコたちは海の底を傷つけるために歯をギラギラに研ぐ

その快挙に高笑いし、両顎を高く突き上げる

もっと富を増やすためにクロコたちは血生臭い計画を立てる
クロコたちは未来を先取り


クロコたちは子供たちを殺してワニ皮バッグを作る

税金を払わないための抜け穴もある

バハマ諸島でクルーズ遊び

クロコたちはマフィア野郎

クロコたちは身内の敵たちも見逃さないが
世の偉大な独裁者たちとは仲良しなんだ

大地はズタズタ、労働者たちはボロボロ
クロコは大虐殺者

このまま進めば近いうちにクロコの世は滅びる

人間たちは権利を取り戻す
古い世界を葬る屍衣を人民は縫い上げる
クロコよ、覚悟しておけ

 この曲の他にもう1曲ヴィデオクリップと共に発表されたのが3曲め「私はまどろみ(Je suis l'endormie)」。このモノクロで時代っぽく加工されたクリップはファニー・レリティエ自身がひとりヒロインとして出演している。シリアスな映像とストーリーであることはわかると思う。病院あるいは鉄条網で囲まれた収容所を裸足で脱走してきた女という図。私はミレーヌ・ファルメールのデビュー曲"Maman a tort"(1984年)の病院を想ったし、ミレーヌ・ファルメールという芸名のもととなったアメリカ女優フランシス・ファーマー(1913 - 1970)の受けた極端な精神病治療法のことを想った。

歌詞「私はまどろみ」(↓)

私はまどろみ
病室のベッドの上

午前の睡り


私の耳には静寂

私の目には風呂の水

私が飲み込むのは無意味

私はパンティーをはき
体には古代の膏薬が塗られる

一滴のシャンパーニュ ― なんて私はバカなの


エレベーターの音が聞こえる

看護師の腕 ― 怖いわ

停電 ― もう時間なのね


蔦のコルセットで

体を締めつけられ

私のまぶたを縫いつける

私を別人に変えるやり方を

あの人たちはよく知っている


光を奪われ

私の紐はほどけていき
私の体は軽くなる


光を奪われ

私を別人に変えるやり方を

あの人たちはよく知っている


サイケデリックにして病的な歌であるが、おそらくこのアルバムのベストトラックと思われる。しかしアルバムはこの曲だけではない。たくさんの人に発見していただきたいバンドである。かなり力をこめて応援している。

<<< トラックリスト >>>
1. Chercher Maman
2. Les Poupées Mécaniques
3. Je suis l'endormie
4. Mascara
5. Le Manège
6. Crocorama
7. Antoine Rouge
8. Les Enfants
9. Mélodie 1
10. Ferdinand l'Albigeois
11. Mélodie 2

Odessey & Oracle "Crocorama"
CD/LP/Digital Another Record & Dur et Doux
フランスでのリリース:2020年10月

カストール爺の採点:★★★★☆


(↓)2020年5月、フランスのコ禍ロックダウン中に、Radio Nova のために"遠隔録音/録画”したオデッセイ&オラクル「私はワニを見た(J'ai vu un croco)」

2021年5月16日日曜日

(Say you) say me

Aki Shimazaki "Sémi"
アキ・シマザキ『セミ』

モンレアル(カナダ)在住のフランス語で創作する作家アキ・シマザキの17作目の小説で、名前がまだ発表されていない第四パンタロジー(五連作)では『スズラン』(2019年)に続く第2話。前作『スズラン』の話者であった女性陶芸家アンズ、その姉でガンで死んだキョーコ、そして弟ノブキという3人の子供の父であるテツオが今回の作品『セミ』の話者である。
 時間軸的には前作『スズラン』の後になり、文中に「令和」という年号も現れる。前作でキョーコが死ぬ前に産み、アンズが養子として迎え育てているスズコも5歳になっていてこの小説の中で「昭和ナツメロ」を歌ったりしている。舞台は前作同様山陰地方鳥取県米子。山陰のもうひとつの中核都市、島根県松江も物語上重要な場所になっている。前作ですでに症状が現れていたテツオの妻フジコのアルツハイマー型認知症はいよいよ重くなり、テツオとフジコの夫婦は医療看護設備の整った高齢者施設に入居する。この施設は末っ子にして長男のノブキが探して見つけたものだが、テツオとフジコは今でこそこの環境に満足しているものの、以前は多くの古い頭の日本人がそうであるように親の老後は長男夫婦が見てくれるものだと思っていた。アキ・シマザキの小説の屋台骨となっている日本の「しきたり」がここでも大いにものを言う。ノブキがこのしきたりを拒否したのは”時代の変化”だけではない「わけあり」ということが小説が進行するにしたがってわかっていく。
 シマザキ小説に欠かせない”日本の事情”の説明であるが、昭和期の地方都市の平均的長男夫婦のステロタイプとしてテツオとフジコが描かれる。結婚は見合いである。なぜ見合いかと言うと、長男であるゆえにその未来の夫婦は夫の両親との同居が前提となっており、あらかじめその条件を提示して見合い相手を探すというのが非常にプラグマティックである。そして見合いではその両親とのフィーリングの合致も確認できる。家父長的社会である日本における長男の結婚を失敗させないために、見合いは優れたプロセスである。ー そこに愛はあるか、この問題はそこでは顔を出さないようになっている。
 そしてフジコはテツオと結婚して、同居する義父母の世話をしながら、生まれてきた3人の子を育て、時間ができれば主婦パートに出て家計を助け、忙しく、ただ忙しく40数年テツオと共に生きてきた。義父母が亡くなり、子たちが独立し、さあ、今度は自分が楽をする番だと思っていたに違いない。テツオはテツオで会社員として、昭和期のサラリーマンとして、"男”として、忙しく、ただ忙しく、家のことはフジコに任せっぱなしで、ただ働いていた。これがフツーだったのだから。この一生懸命汗流してきた二人は、(夫の)両親を満足させ、子供たちをりっぱに育て、雨の日も晴れの日も寄り添って生きてきたのだが、夫婦ってフツーこういうもんでしょう、というスタンダードで漠然とした満足感しかなかったであろう。ここがシマザキ流のバイリンガル的で両世界的な視点では異議があるわけで、これをフランス語で読んだフランス語系読者たちには、この夫婦に決定的に欠落しているのは愛だということが明白なのである。日本ではフツーでしょ、が通用しない人たちに向かってシマザキは書いているのだから。そしてテツオが何も知らない間にフジコが精神的に病んでいくに至った大きな過去の重荷が、この今になって、高齢者施設という境遇になって、ものの短い間に一挙にテツオに明らかになるのである。
 夫婦として施設の一つ部屋で生活していたテツオとフジコだったが、さまざまな過去の記憶が抜け落ちていったフジコに、今度はテツオとの夫婦生活の記憶が欠落してしまう。フジコの頭の中では今はまだテツオと結婚しておらず、見合いして知り合い結婚前の交際をしていた時期にある。フジコは結婚前だからとテツオとの同室での生活を拒むが、施設所属の心療ヘルパーのはからいで、フジコとテツオのふたつのベッドの間に衝立を入れ、それぞれの独立ゾーンをつくることで「独身者」二人の同居が可能になった。夫婦ではなく婚約者同士の「テツオさん」「フジコさん」に戻り、会話も親密ぞんざいな tutoiement から、丁寧表現の vouvoiement で話されるようになる。日本語にそんなものあるかい?と思われようが、シマザキのバイリンガル世界ではありなのだ。そしてこの時から、心療ヘルパーの強い要請でフジコの症状悪化を防ぐために家族身内親しい知人たちすべてがフジコを40数年前の独身女性「フジコさん」として応対する集団的演技(フランス語で"cinéma"と言いたいところ)をするのである。子も孫も、おかあさん、おばあちゃんと呼ぶのをやめ「フジコさん」と呼ぶ。この集団演技の甲斐あって独身者フジコの日常は波風立たず過ぎていくように見えたが...。
 フジコの記憶は限定的に非常に鮮明なものもある。それは小学校の時に教わったセミに関する知識であり、セミを鳴き声で聞き分けその種類と特性を詳しく言うことができる。クマゼミ、ニーニーゼミ、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ヒグラシ...。そして(あとでフジコが子供の頃作詞作曲したものとわかる)こんな童謡のような歌を口ずさむ。
Sémi, sémi, sémi, où te caches-tu? セミ、セミ、セミ、どこに隠れているの?
Après tant d'années sous terre 何年も土の中にいたあと
Tu n'as que quelques semaines à l'air 数週間しか地上で生きられない
As-tu de la nostalgie pour ton long passé 暗闇の中で
Dans le noir ? おまえの長かった過去を思い出すの?
日本のセミは十数年土の中で幼虫として生き、地上で成虫となりわずか2週間ほどで死ぬ。これをフジコは自分の一生のメタファーのように歌っているということをテツオはなかなか気づかない。自分を滅して家庭と夫に尽くしてきた長く暗い日々のあとでフジコは短くても地上に生きることができるか。
 この高齢者施設で開かれた慰問コンサートに、アンズの娘スズコが出て懐かしい昭和メロディー(「とんがり帽子」「りんごの歌」「朝はどこから来るかしら」)を歌うが、スズコが自分の孫という記憶がなくなったフジコはその歌声に何の反応も示さない。しかし次に出演したアマチュア音楽家老夫婦のヴァイオリンとピアノ二重奏によるショパン夜想曲第20番が始まるやフジコが感極まって涙を流すのを見て、テツオはこの曲がフジコの記憶を刺激しているのに違いないと直感する。ここがテツオが40数年間一緒に暮らしていながら実はフジコのことを何も知らずにいたと自覚する第一歩なのだ。なにしろフジコがクラシック音楽の愛好家であったことすら知らなかったのだから。
 その直後、テレビのクラシック音楽番組に国際的に有名な指揮者であるミワが出演しているのを見たフジコは突然錯乱したかのように「この人から預かったお金を返さなければならない!」と言い出す。預かった30万円を返さなければ ー この時からフジコはこの妄想で頭がいっぱいになる。今のフジコにとっては「優しいフィアンセ」であるテツオであり、すべてに対して協力的であろうとするのだが、それは知り合って40数年目にして初めてフジコのことを知り理解することであった。そこから知っていくのは40数年間いかにテツオが"盲目”であったかを自覚させる驚くべきことばかりなのだった。
 ミワという有名音楽家をフジコは知っているのか、どんな関係だったのか、預かった30万円とは何の金か、それをフジコは信頼のおけるフィアンセであるテツオにあっさり語ってしまう。ミワと一夜を共にし、フジコは妊娠し、ミワはその中絶のために30万円をフジコに渡したが、フジコは中絶せずにその子を産んだので、30万円をミワに返す、と言うのである。この言葉だけではテツオはそれが錯乱した妄想であると思うこともできただろう。しかし、小説は複数の証言者によって、それが事実であったとテツオに確信させるところまで進んでいくのである...。
 その証言者たちは、そのことだけでなく、(テツオが全く想像できなかった)フジコが抱いていたテツオへの不満と不信(テツオの不倫の事実も知っていた)をもテツオに明らかにする。夫婦はもう古くからテツオの知らないところで崩壊しかけていた。息子のノブキですらこの両親の関係の危機を母から告白されて知っていた。知らないのはテツオひとりだったのだ。そのノブキが今や自分の子ではなく有名音楽家の息子である可能性が高いとテツオは知ったわけだが、ノブキはそのことは知らず、自らアマチュア音楽家(ギタリスト)として有名指揮者に近づいていく(ロドリーゴ『アランフェス協奏曲』をミワ指揮のオーケストラ、ノブキのギターソロで演奏することになる...)。

 上辺だけとればフツーに穏便で平和な夫婦だったと思っていたテツオは、内側で壊れて腐りかけていたのだとやっと状況を把握する。最大の被害者たるフジコは心のバランスを失いアルツハイマーに陥ることでここで生き延びている。衝撃と自責に打ち負かされそうになるがテツオはやり直したいと思う。フジコが今いる(と思っている)ところ、すなわち結婚前の初々しい関係だった頃からもう一度再スタートしたい、と。そのためには、フジコの病んだ観念にとりつかれている「30万円をミワに返すこと」をフジコと共に実行し、終わらせなければならない。お立ち会い、この小説にはマジックがありますよ。シマザキはこれを見事に成し遂げてしまうのですよ。
 
 セミは十数年地下にいて、その後2週間地上で成虫として生き、オスはハネを摩擦させて音を出し(”鳴く”のではない)、メスに求愛するのだが、すべてのオスとメスがその2週間に結ばれ子孫を作るというわけではない。長い地下の年月がすべて報われるわけではない。フジコは長い間待ち続けていたのに報われず心を病んでその生を終わらんとしているが、テツオはようやく長い眠りから覚めたようにそれを救おうとしている。アキ・シマザキの最新作にはおおいなる救いがある。そして音楽がふんだんに聞こえる小説でもある。

Aki Shimazaki "Sémi"
Actes Sud刊 2021年5月5日  160ページ 15ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)セミの鳴き声いろいろ

(↓)ライオネル・リッチー「セイユー・セミ」 
("Everybody sings together right now, come on!" )「セミ!!!」

2021年5月4日火曜日

羚羊はどこへ行った - リズィー・メルシエ・デクルー頌

(2021年5月4日記)

「2019年ノスタルジー」がとても強い私である。コロナ禍のなかった時代というのはついこの間のことではなく、遠いかなたのことに思える。そしてたぶんあの頃の世界には二度と戻れない。コロナ・パンデミックのなかった春というのは今から2年前を振り返るしかない。あの2019年5月、私の記録するところでは私は3本の雑誌原稿を書き、2件のブログ記事を上げ、4本の映画を観て、5本のCDを買い、病院に3回通い、娘の運転で遠出を2回(ドーヴィル、シャルトル)していて、ハードディスクには84枚の写真を残している。こんなにたくさんのことがたったひと月(美しい5月)でできていたのだ。夢のようではないか。リズィー・メルシエ・デクルーの原稿のことは(とても苦労したので)よく覚えている。1週間ほどで書いたが、参考にしたシモン・クレール著『リズィー・メルシエ・デクルー/金環食』(2019年3月刊)のおかげで知り得たリズィーの生涯のほぼ全容はめまいがするほど衝撃の連続だった。その生きざまを詩人アルチュール・ランボーに重ねたのは私だ。この記事をここに再録しながら(はるか昔のような)当時の興奮を懐かしむ、これが私の「2019年ノスタルジー」である。

★★★★  ★★★★ ★★★★ ★★★★

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2019年6月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

ランボーのように生き果てた女
リズィー・メルシエ・デクルーの軌跡


(In ラティーナ誌2019年6月号)


 

  2015年10月20日(バタクラン・テロ襲撃事件の3週間前)、パリ、オランピア劇場のステージでパティ・スミスは沈痛な面持ちで目を潤ませながら「エレジー」(1975年彼女のファーストアルバム『ホーセズ』の最終曲)を歌い、葬送曲のようなピアノコードに乗せて「私たちの友人たちが今日ここにいないことが本当に悲しい」と語り、ゆっくりとそれらの名を読み上げていき、観衆はそのひとつひとつにオマージュの拍手喝采を捧げていった : ジェームス・マーシャル・ヘンドリックス、ジム・モリソン、ジャニス・ジョプリン、ブライアン・ジョーンズ、ジョー・ストラマー、カート・コバーン、リズィー・メルシエ・デクルー。この最後の名が告げられた時、喝采は止み、重い沈黙が流れた。
 

 これはシモン・クレールによる評伝『リズィー・メルシエ・デクルー/金環食』(2019年3月プレイリスト・ソサイアティー刊)の序章(p17)に書かれた一部を抄訳したものである。その中にあるオランピアに流れた沈黙というのは、今やフランスでもリズィー・メルシエ・デクルーというフランス女性アーチストはほとんど記憶されていないということ、そしてこの彗星のように夭折したロックヒーローたちと同列とは誰も思っていないということ。だがパティ・シミスはこのフランスの親しかった友のことを忘れはしない。二人を結びつけたもの、それは19世紀の少年詩人アルチュール・ランボー(1854-1891)であった。2017年3月、パティ・スミスはその倉の中で少年ランボーが詩作をしていたと言われる北フランス・アルデンヌ地方の農家を買い取るほどのランボー崇拝者として知られる。(↓写真:パティー・スミスとリズィー 1976年)
 1975
年暮れ、パリ・レアールのレコード&雑貨ショップ「ハリー・カヴァー」で成功した金を元手に、ミッシェル・エステバンとリズィー・メルシエ・デクルーのカップルはニューヨークに移住し、ラモーンズ、テレヴィジョン、スーサイドなどNY初期パンクシーンの牙城になりつつあったクラブCBGBにも近い、ラファイエット通りに320平米のロフトを借り、その保証人として名を貸したエステバンの友人パティ・スミスがこのロフトをシェアする。すぐさま19歳リズィーと29歳パティはランボー詩と錬金術について語り合い、惹かれ合い、魅せられ合った。

 少年の面影もあったこの英語の下手なフランス娘は、ぼうぼうで木の葉が絡んでいるかのような野生的な髪を銀色に染め、スリムな皮パンツにアイロン糊の効いた男もののシャツを着て、NYローワー・イーストサイドのアーチストたちのミューズになっていく。パティ、リディア・ランチら女友だちだけではない。多くの男たちもリズィーに惹かれていった。その中で激しく恋仲になったのが『ブランク・ジェネレーション』(1977年)のロッカー、リチャード・ヘルだった。二人が一緒に仲睦まじく写っている映像はNY初期パンクのドキュメンタリー映画『ザ・ブランク・ジェネレーション』(1976年、エイモス・ポー監督)で見ることができる。ランボーとジャン・ジュネの信奉者だったヘルは詩集や小説も多く発表するのだが、1999年発表の自伝的フィクション小説『とかげの目』の中でリズィーをモデルとしたフランス女性クリッサとの関係はこう描かれる。

「二人は一緒に本を読み、詩を作り、デッサンを描いた。ある夜二人はお互いに小便をかけあった。すべてのシーンは固定カメラショットのスローモーションのようだった。それはまさに画面に雨の降る白黒映画だった。この世の欲せられうるすべてのものは僕たち二人を結びつけたごく細密な繊維の中に凝縮していたし、二人はそれをボロボロになるまで使い切った。」
 この激しく短かったヘルの恋の残り火は、実はリズィーの最晩年まで燃え続けていたということは後で述べる。

 1956
年12月、リズィー・メルシエ・デクルーは、身元不詳の父親(リズィーの晩年に関係を回復する)と愛情の乏しい母親の間にパリで生まれ、レ・アール地区に住む叔母の夫婦に預けられた。ルノー工場で働く夫ロジェと叔母モーリセットの間に子供がなかったので、実の子のように育てられるが、40平米しかないそのアパルトマンには浴室がなく台所で体を洗うような暮らしぶりだった。1960年フランス政府は「パリの胃袋」と言われたレ・アール市場を9年計画で南郊ランジスに移動する大工事を開始し、レ・アールは巨大なクレーター状の空洞と化していく。工事の騒音と行き交うトラックの間で少女時代を過ごしたリズィーは、詩と絵(ボザール校の夜学でデッサンを学んでいた)と音楽に夢中でリセには退屈しきっていた。レ・アールのティーンネイジャーたちはロックの流行に敏感で、町には古着屋やストリート・ファッションの店も軒を並べていた。1972年、マルク・ゼルマティ(2008年11月号本連載「パンクの祖マルク・ゼルマティに聞く」参照)がレコードショップ「オープン・マーケット」開店、英米のインディー輸入盤でパリ中のロックフリークたちで賑わうようになる。それと競うように1973年、ミッシェル・エステバンが「ハリー・カヴァー」を開店、こちらはレコードもさることながらグッズ(Tシャツ、バッジ、アクセサリー
…)で若者たちの人気をさらった。このレ・アールの2つのショップは互いに反目し合いながら、パリの初期パンク/ニュー・ウェイブ・シーンの温床となって、どちらの地下倉庫もロックバンドの練習場となって近所の苦情は絶えなかった。そんな町の中でリズィーは風変わりなファッションの野生的な少女として目立っていた。リズィーの住むアパルトマンの向かいに住んでいたエステバンは、長い期間この少女を観察していたが、ついに74年のある日少女に「うちの店で働いてみないか」と声をかける。二人の長年の共同作業はここから始まるのだが、美大出のショップ店主エステバンは既にその界隈のドンのような25歳、一方リズィーは17歳。ここから彼女は「ハリー・カヴァー」の運営(特にファッショングッズ)に関わり、店の発行するロックファンジンの編集者/ライターとしてアメリカのパンクシーンの紹介したりして、しだいに彼女自身もレ・アールの「顔」になっていった。

 何度も渡米してアメリカのシーンに詳しかったエステバンは、ニューヨーク特集のためにひとりで現地長期滞在を計画していたが、出発2ヶ月前にリズィーの妊娠が発覚。18歳だった彼女は中絶を決意。エステバンはその状態で若い愛人をパリに残すのはしのびないと、手術後に二人で渡米するよう計画を変更した。時は1975年暮れ。

 ここからリズィーはニューヨークでパティ・スミス、リディア・ランチ、リチャード・ヘル、ジャン=ミッシェル・バスキア等との出会いを通じて、いわゆる「ノー・ウェイヴ」と呼ばれるアンダーグラウンド・シーンのど真ん中に位置するようになる。音楽的にはフリー/ノイジー/アヴァンなDNA(アート・リンゼイ)、ジェームス・チャンス、リディア・ランチなどのポストパンクを括る呼称だが、商業的な「ニュー・ウェイヴ」に対するアンチとして全くもって非商業的な性格を称して「ノー・ウェイヴ」と呼ばれたと言われる。リズィーはまずパティ・スミスとリチャード・ヘルの後押しを得て、詩+写真+デッサンで構成された本『デジデラタ』(1977年)を発表するが、それに飽き足らず勢いで買ってしまったギター(フェンダー・ジャズマスターモデル)の虜になり自己流で弾いていくうちに斬新なアイデアが音になっていった。遅れてニューヨーク入りしたディディエ・エステバン(ミッシェルの弟、ギタリスト)とデュオを組み、絡み合う二台のノイジーギター、プリミティヴなパーカッション、そしてリズィーの呪文・擬音・短詩・呻きのヴォカリーズが介入するアヴァンな音楽が生まれ、1978年アート・ギャラリー「ザ・キッチン」で初ギグが行われた。同年7月このカオス的バンドはスタジオ入りし、1分程度の曲を6曲録音し、EP化した。このバンドは虐殺された女性革命家ローザ・ルクセンブルクと、詩人ランボーゆかりのアフリカの地イエメンを合わせて「ローザ・イエメン」と名乗った。この誰も買うわけのないEPレコードをレーベル創立第一作としてリリースしたのがZEレコーズだったのである。

  イラク系英人富豪実業家のマイケル・ズィカ(Zikha)とミッシェル・エステバン(Esteban)の二人によってニューヨークで設立され、二人の頭文字
”Z”と”E”を合わせてZEレコーズと名付けられたこの独立レーベルは、非商業生を標榜しながらもスーサイド(アラン・ヴェガ)、キッド・クレオール&ザ・ココナッツ、ジェームス・チャンス、ウォズ(ノット・ウォズ)などで成功し、当時のインディーシーンで最も注目されるレーベルとなっていく。誰も気を止めなかった第一作ローザ・イエメンに続いて、1979年リズィー・メルシエ・デクルー名義のファーストアルバム『プレス・カラー』が制作され、ミュータント・ディスコ(ZE周辺のノーウェイヴ寄りディスコ作品群)の典型例とされる「ファイアー」(アーサー・ブラウン68年ヒット曲のカヴァー)を含み、今日までリズィーで最も評価の高いアルバムとなっているが、当時はほとんど売れていない。その印象的なアルバムジャケットの横顔は、エステバンの発案で長かった髪をハサミで野生的に切り落とし、ランボーを思わせる散切り頭の少年風貌(ヌード)を、ホテルの部屋の白壁にスライド映写機の明かりで照らして陰影を強調した白黒写真。23歳。リズィーの最も世に知られたポートレイトである。

 最初の恋人だったミッシェル・エステバンが目の前で次から次へ恋人を変えていくリズィーを見ながらも、彼女の制作のバックアップを惜しまなかったのは、出会った時から少女の潜在的才能を確信していたからであり、遅かれ早かれ世界的に認知されるアーチストになると疑わなかったからだ。順風満帆だったZEレコーズは、1980年、カリブ海ナッソー(バハマ)のコンパス・ポイント・スタジオ(アイランド・レコーズ社主クリス・ブラックウェルが77年に建設した当時最もハイプな録音スタジオ)にリズィーを送り込み、アフリカとカリブのビート音楽を取り込んだ前衛的ワールド・ファンキーなアルバム『マンボ・ナッソー』(ベナン出身のウォーリー・バダルーがプロデュース)を制作させた。
 後年「すべてにおいて早すぎた」と評される彼女の音楽であるが、ほとんど無視されたリズィーの2枚のアルバムの後、ZEレコーズはズィカとエステバンの分裂により活動休止を余儀なくされる。1983年エステバンは(数少ないリズィーの音楽の理解者)仏CBS社長アラン・レヴィに助けを求め、南アフリカのミュージシャンたちと共同でアルバムを作りたいというリズィーの企画を通させる。歴史的にはポール・サイモンのアルバム『グレイスランド』(1986年)の3年前、アパルトヘイト撤廃(1994年)の9年前、ガチガチの人種差別政策下のヨハネスブルグの象徴的黒人居住区ソウェトで西欧白人女性ミュージシャンが現地黒人ミュージシャンたちと一緒に録音スタジオに入ることなど全く考えられなかった時代である。そのアフリカ行きを、リズィーは崇拝する詩人ランボーと同じルート(エジプトからナイル川に沿い、アスワン、スーダン、エチオピアに至る)を経由して20日かけて南下するという冒険の資金までCBSレコードに負担させたのである。その投資の甲斐あり、ズールー・ジャイヴとムバカンガとリズィーの歌唱(初めて彼女がメロディーを歌った!)の見事なミクスチャーアルバム『リズィー・メルシエ・デクルー』(別称『ズールー・ロック』)は、リズィー初のヒットアルバムとなり、シングル
”Mais où sont passées les gazelles?”(羚羊はどこへ行った?)チャート上位に昇った。

 悲劇はここからで、このCBSのアルバムの曲目作者クレジットがかなり曖昧であり、南アフリカ既存楽曲にリズィーが詞をつけたものも彼女が作者ととられる表記だったため、音楽メディアはこれを「盗作」や「第三世界音楽の文化収奪」であると一斉に攻撃したのである。当時のワールドミュージックの中心的推進者だったラジオ・ノヴァは、かのヒットシングルはマハラティーニとマホテラ・クイーンズの歌「Kazet(カゼット)」とそっくりである(元歌が同じなので当然なのだが)とリズィー盗作キャンペーンを張った。リズィーの一時的な栄光はたちまちにして「盗作者」「文化収奪者」汚名に転落し、これはその後もずっとついて回るのである。

 早すぎたワールドビートのパイオニア、リズィー・メルシエ・デクルーは1986年ブラジル録音の『ワン・フォー・ザ・ソウル』(ほとんど演奏になっていないチェット・ベイカーと共演)、1988年にロンドン録音の『サスペンス』(NY時代の友人マーズのマーク・カニンガム制作)と2枚のアルバムを発表するが、途中で長年の盟友ミッシェル・エステバンにもサジを投げられ、音楽シーンから姿を消していく。(↓リズィーとチェット・ベイカー「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」1986年)
 
  一般に知られることのなかったその後の隠遁生活に関しては前掲のシモン・クレール著の評伝本によって明らかにされ、自動車も免許もない状態で中央フランスの人里離れた寒村に籠り、無一文で絵画制作と庭園造りにいそしんでいたことや、グアドループ島で妻子ある男の隠れ愛人としてロビンソン・クルーソーのような生活をしていたことがわかった。

 2003
年、パリで直腸ガンと診断されながらあらゆる治療を拒み衰弱していき、パリ14区の病室で夢を見ていた。その夢とは終生の場所としてコルシカ島の海辺の町サン・フロランで生き絶えること。この最晩年のリズィーの前に最初期のNYの恋人リチャード・ヘルが現れ、私財を売った金5000ドルをリズィーに差し出し、コルシカ行きの夢を叶えてやるのである。47歳、2004年4月20日午前5時、サン・フロランでリズィーは息絶える。故人の遺志で、その遺体は113年前にランボーが灰にされたのと同じマルセイユの火葬場で焼かれ、遺灰はコルシカの海に撒かれた。私はこう思う:19世紀の彗星詩人アルチュール・ランボーは20世紀に女に生まれ変わり、同じように夢破れ、人知れず21
世紀の夜明けに死んでいった、その名はリズィー・メルシエ・デクルー。

(ラティーナ誌2019年6月号 - 向風三郎「それでもセーヌは流れる」)

(↓リズィー・メルシエ・デクルー「ハード・ボイルド・ベイブ」from アルバム『プレス・カラー』1979年)


2021年4月30日金曜日

Born to be WILDER

ジョナサン・コー『ビリー・ワイルダーと私』
Jonathan Coe "Billy Wilder et moi"(原題"Mr Wilder and me")

フランスで非常に人気が高くそのほとんどが仏語訳されている英国作家ジョナサン・コー(1961 - )の最新作(長編小説では第12作め)で英国では2020年に刊行されたもの。題名が示すように、シネフィルで知られるコーがとりわけ偏愛するハリウッドの名匠ビリー・ワイルダー(1906 - 2002)をめぐる詳細な資料に根差したフィクション作。ワイルダーはオーストリア生まれのユダヤ人、映画の道(脚本家)でやっていけるメドがついた頃にナチス台頭があり、1933年にフランスに移住、さらに1934年に英語が全くできない状態で米国へ。父は既に死去していたが、オーストリアに残った母とその近親者たちはすべてアウシュヴィッツで命を失ったことになっている。このことへの「落とし前」というのがこの小説の重要なテーマのひとつである。
 小説が中心的に取り上げている時期は1977年と78年である。21世紀的現在に夫と二人の娘と共にロンドンに住み、仕事がほとんど来なくなった映画音楽作曲家となっているカリスタという名の中年女性が「話者=私」として書かれる、現在と回想が混じり合った構成の小説である。カリスタはギリシャのアテネに生まれ育ち、少女期に軍事政権統治を体験し、外国の文化が制限されていたこともあり、広い世界を知りたい願望が強く、大学の最終学年の夏(1977年)、バックパッキングでアメリカ旅行に出発し、グレイハウンド長距離バスで東海岸から西海岸まで旅していた。途中で知り合ったイギリス娘のギルと意気投合し、ロサンゼルスまでやってくるが、そのギルが父親の知り合いから夕食の招待を受けていて、ギルとカリスタは無頓着にTシャツ&デニムホットパンツ姿でその場に行ってみると、ビバリーヒルズ有数のフレンチ・レストラン「ビストロ」であった。そして招待主としてそこにいたのが、ビリー・ワイルダー夫妻とワイルダーと20年来共同脚本家としてコンビを組んでいるイズ・ダイアモンド(1920 - 1988。『お熱いのがお好き』、『アパートの鍵貸します』、『シャーロック・ホームズの冒険』等)夫妻だった。しかし、この若いヨーロッパ女学生の二人は、名前を言われてもこの初老男性二人がどんな人物なのか全く知らなかった。おまけにこの旅行中に激しい恋に落ちてしまったギルは、食事中彼と合流したい気持ちが抑えられず、カリスタひとりを残してトンズラしてしまう。カリスタは緊張と気まずさで固まってしまうのだが、この映画の巨匠二人(+好感度この上ない女性二人)との知的に刺激ある会話と極上のワインと料理に魅せられ、果てにはアルコールの心地よさで眠りこけてしまう。最後の失態こそあれ、カリスタは人生最高の夕食の宵として記憶し、アメリカ旅行の他のことなどほとんど印象に留めず、「ビストロ」の思い出だけを抱いてギリシャに帰っていく。そして軍政直後で映画館で過去の外国映画など観れない(+ヴィデオなどまだ一般に普及していない)状態ながら、英語書籍でビリー・ワイルダーの全作品を調べ、筋や配役や映画評などを暗記するほど読み耽り、マニアックなワイルダー通になってしまう。
 さてこの70年代後半という時期は、ハリウッド黄金時代を築いたワイルダーにとっても斜陽現象がはっきりしてきていて、映画作りが難しくなっている。コッポラ、スコセッシ、スピールバーグといった若手の台頭で、客の入る映画の傾向は一転してしまい、ワイルダーは時代遅れと見做されるようになる。とりわけスピールバーグに関してはことあるごとにワイルダーの口に昇り、「あの”サメ”の野郎」と敵意をあらわにする。サメのおかげで自分たちが映画を撮れなくなったのは事実である。これらの若手の映画には(才能は認めながらも)二つの大戦を体験したわれわれの重さがないんだ、と言う。後年のエピソードであるが、ナチスに家族を奪われた映画人ワイルダーが、権利を買い取ってどうしても自分が映画化したかったのがトーマス・キニーリー原作の『シンドラーのリスト』(1982年)であった。しかしその権利は宿敵スピールバーグに取られ、1993年に映画化され世界的な大成功を収めるのは周知の通り。このスピールバーグ版を観たワイルダーは「これ以上の描き方はない」と称賛する(なんていい話なのだ)。
 話を戻そう。70年代後半ワイルダーとダイアモンドは1年のうち3ヶ月間は脚本を書き、9ヶ月間は制作会社を探して奔走するという生活になってしまう。そしてついにアメリカの映画会社から尽く断られ、次作『フェドーラ(Fedora 日本題「悲愁」)』(1978年)は、西ドイツ資本の出資(しかもこの小説によると映画とあまり関係のない西ドイツ大企業の税金対策出資)で制作されることになる。美貌の衰えを隠すべくギリシャの孤島に隠遁する世紀の大女優フェドーラの悲劇的結末を描くこの映画(主演ウィルアム・ホールデン、マルト・ケラー)はギリシャと西ドイツとフランスで撮影される。
 小説はあの出会いから1年後、もう二度と縁はあるまいと思っていたカリスタのところへ、『フェドーラ』のギリシャでの撮影に通訳スタッフとして加わってほしい、というワイルダー側からのオファーがあり、英語教師として働く予定をキャンセルして現地に飛ぶ、という段になってから「ワイルダーと私」という題通りの本筋がスタートする。初めて飛び込んだ映画制作の現場に翻弄されながら、思い通りに撮影が進行しないワイルダーとダイアモンドの苦悩ともつきあうカリスタ、加えて(この作家のちょっと過剰なエンターテインメント性のように思える)カリスタのほのかな恋の目覚めもある。そしてギリシャでのロケ中から体調を崩していたイズ・ダイアモンド(座ることができないほどの腰痛で本人は帯状ヘルペスと言っていて、カリスタがギリシャで入手が難しい処方薬を手配していた。実際は1988年ダイアモンド死去の死因となる骨髄ガンがこの時既に進行していたようだ)のケアのおかげで、親密な関係になり、この親友共同脚本家から聞くことができる話でワイルダーの別サイドの顔も見えてくる。このおかげもあって、ギリシャロケだけでお役御免になる予定だったカリスタは、イズ・ダイアモンドの個人秘書という名目でミュンヘン、さらにパリへと、ヨーロッパでの撮影が終わるまでワイルダーたちと同行することになるのである。しかし映画撮影はワイルダーもダイアモンドもなかなか納得が行かない状態で進んでいく。 
 小説のハイライトはミュンヘンにあり。ホテル・バエリッシャーホフのバンケットルームで催されたディナー。出席はワイルダー、ダイアモンドの他に主演のウィリアム・ホールデン、マルト・ケラーと彼女の当時の恋人アル・パチーノ(どんな超高級レストランでもチーズバーガーを注文する)、メインゲストとしてこの映画の音楽を担当することになる(『ベン・ハー』などの映画音楽の巨匠)ミクロス・ローザ(ワイルダーとのコンビは『シャーロック・ホームズの冒険』など)、そしてドイツの出資会社からの代表数名(英語をまともに話せない者も)。宵は進み、ディジェスティフの段になって何度も訪問してミュンヘンをよく知るミクロス・ローザが、72年のオリンピックをきっかけとするミュンヘンの驚異的に豪勢な都市開発ぶりを指して、当時のドイッチュマルクのパワーの甚大さを皮肉をこめて語ると、イズ・ダイアモンドが「それはあまり近くで見ない方がいい」とシニカルに応じる。すると食事中ずっと無言だったドイツの出資会社役員が「それはどういう意味ですか?」と切り返す。さらにその若いドイツ人部下が「アメリカの最近の学術研究によると、前の戦争でドイツ軍が殺したとされるユダヤ人の実際の死者数は連合軍発表よりもずっと少ないのですよ」とネオ・ナチまがいの発言が飛び出す。ここでビリー・ワイルダーが、では私が実際に体験したことをこれからきみにお話ししよう、この話のあとできみにひとつ質問するから、答えてくれたまえ、と。
 ジョナサン・コーはこの小説の160ページめから219ページまで、つまり全部で60ページを映画脚本の形でナレーション、ダイアローグ、背景状況、カメラワーク、照明暗転などを記述している。ここに書かれているのは(素晴らしい60ページなので私がざっくり書いてどれほど伝わるかわからないが)1933年ベルリンに始まる若きオーストリア人脚本家ビリーが恋人ヘラとナチスを逃れてパリへの逃避行(パリ滞在中にミクロス・ローザとも邂逅している)、さらにヘラと惜別してロンドン経由で単身片道渡米 ー ここで11年飛び、戦争が終わり、アメリカ軍大佐の資格で連合軍の占領地における映画・演劇・音楽の統制責任者としてヨーロッパに派遣される。何十缶と本部に送られてくるアウシュヴィッツ他のナチスの強制収容所の記録フィルムをビリーは一本残らず試写する。それは編集してナチスによる大量虐殺の記録映画を作るためだが、ビリーはその一巻一巻の(生存者と死体がごちゃまぜになった)映像に(そこで死んだと伝えられている)母とその近親者たちの姿を探していたのだ。そして連合軍側の責任者として編集されたその記録映画を、ドイツ全国で上映し、すべての成人ドイツ国民に義務として見させることを厳命する。ビリーによる編集が終わったあとにも送られ続ける記録フィルムの最後の一巻に、夥しい数の死体に混じって微かに蠢いている瀕死の人間がカメラに向かって無気力な視線を向けている姿をビリーは正視できなくなる。これは母なのか。
 映画シナリオの形で作者が転載した、ミュンヘンの高級ホテルバンケットルームでのワイルダーの長い話はここで終わる。そしてあのドイツの出資会社の若い幹部社員に問う「ホロコーストがなかったと言うのなら、一体私の母はどこにいるのか?」ー

 その後、同じミュンヘンで記者会見があり、ドイツ人女性ジャーナリストがドイツ語でこう質問する「ワイルダーさん、あなたは二つの世界大戦に挟まれた何年間をベルリンで暮らしていました。あなたの新作映画を撮影するためにあなたを再びドイツに来させることになったのはどんな理由からなのですか?」。これに対してワイルダーは全く冗談めかさず、真顔でこう答える:
ご存知でしょうが、この映画のためにアメリカで制作資金を集めることはたいへん難しかったのです。私はドイツの友人たちと同業者たちが力を貸してくれたことが本当にうれしかったのです。そして今、私自身ある意味でこの状況は私にとってどう転んでも勝ち目のあることがと思っているのですよ。
ー それはどういう意味ですか?
つまり私はこの映画で絶対に損をしないのです。もしもこの作品が大ヒットしたら、それは私のハリウッドへの復讐となり、もしも大コケしたら、それは私のアウシュヴィッツへの復讐となるのですよ。

ぷあぁぁっ!この一言がこの小説の心臓部であり、ワイルダーのこの映画の制作の難しさのすべてを語っているのですよ。(完成後、この映画はアメリカで大コケし、結果的にはワイルダーの言うアウシュヴィッツへの復讐とはなったのだが。)
 
 小説はミュンヘンに続いて、最後の撮影地のフランスへと移っていく。ワイルダーとダイアモンドはさまざまな難航にも関わらず、長年の映画職人の根性のようなもので乗り越え、ようやく最終の撮影をパリから60キロ東のモールセール(セーヌ・エ・マルヌ県)の国鉄駅で行うところまでこぎつける。カリスタはギリシャで生まれた淡い恋がパリで燃え上がり、その最初の一夜のあと幻滅で失ってしまう、という失恋の翌日の失意の状態でこの撮影に立ち会うことになるのだが、パリから撮影地へビリー・ワイルダーの専用車に同乗するという幸運を得る。二人は車中で長かった撮影道中(ギリシャ、ドイツ、イギリス、フランス)を振り返りながら、年齢の離れた親友のように話し始める。そしてここがフランス! 運転手が自分の親戚がこの地方の名産の極上のチーズを作っているから、寄り道して食べて行ってほしい、と。時間的にあまり余裕はないのだが、美食家のワイルダーとしては外せない申し出。車は主要道を降りて、土埃を上げて走る田舎道へ。そして大きな農家にたどり着き、主人から3種類のマルヌ地方名産チーズのブリー、加えてそれとこの上なく調和するピノ・ノワールの赤ワインを差し出される。もう、この部分の描写の素晴らしさよ。大難産の映画の最後にたどり着いた名映画監督と、それと付き合い通したあげく恋を失った娘は、馥郁とした香りの極上ブリーにすべてを忘れたかのような幸福を共有するのである。たまらん。撮影開始時間を忘れ、ブリー3種類を平らげピノ・ノワール2本を空けてしまった二人...。

 前述のように、この『フェドーラ』という映画は商業的には大失敗だったが、ビリー・ワイルダー的には「白鳥の歌」と称される作品になった。ワイルダー+ダイアモンドではその後もう一本『バディー・バディー(Buddy Buddy)』(1981年)という本当の最後の作品があるが、この小説でも「語るに値しない」作品のように書かれている。しかし世評にも関わらず、ジョナサン・コーにとっては『フェドーラ』が特別に重要な作品となっていることがよく了解できる。架空の人物ではあるが、ギリシャ娘カリスタはワイルダー(とダイアモンド)によって映画愛に目覚め、のちに映画に音楽家として関わっていく生き方は魅力的だ。77年の夏と78年の夏、ふたつの夏で人生が変わってしまった女性の姿だ。そして今、長年構想している(映画が存在していない)映画音楽を少しずつ完成に近づけている。その(存在しない)映画の名は『ビリー』、その脚本の一部がコーが転載したミュンヘンでのワイルダーの長い回想、という仕掛け。出来すぎた小説の構成に目がくらくらする。

Jonathan Coe "Billy Wilder et moi"
Gallimard "Du monde entier"叢書、2021年4月8日刊 300ページ、22ユーロ


カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)ガリマール社による『ビリー・ワイルダーと私』プロモーションクリップ

 

2021年4月21日水曜日

パリに住んでて、ドヌーヴと知り合いなのよ

Edouard Louis "Combats et métamorphoses d'une femme"
エドゥアール・ルイ『ある女の闘争と変身』

21歳の時『エディー・ベルグールにケリをつける』で作家デビューしたエドゥアール・ルイは28歳になった。北部フランスの地方部の(これまで誰も書くことがなかった)極端な貧困と封建的男性原理社会の中でホモセクシュアルの子として疎外と虐待を受けて育ち、いかにしてそこから抜け出したかを綴った第1作『エディー・ベルグール...』(2014年)以来、著者はその生の真実しか書いていない。自伝的オートフィクションなどというレベルではない。これはルイにとっての真実なのである。だからこれが「小説」あるいは「作品」なのか、ということは著者にとっては何ら問題ではない。彼が生身で体験した事件と環境をそのまま描いた。これが世にはばかるのである。フランス語で言うところの "qui dérange"、つまり泰平の眠りを邪魔するものなのである。それは誰も書いたことがなかったことだったのだから。最初の書『エディー・ベルグール...』の原稿を出版社数社に送ったあとで受け取った拒否の返事がみな「21世紀のフランスにこのような貧困が存在するわけがない」というものだった。この赤裸々な真実は誰も書いたことがなかったから、編集者たちは信じなかったのだ。
 自らが性暴行の被害者となった事件の一部始終を描いた『暴行譚(Histoire de la violence)』(2016年)が、多面体的にたくみに構築された「文学作品」として読めるという点でやや例外的な一冊と言えるが、続く『誰が僕の父を殺したのか(Qui a tué mon père?)』(2018年。ラティーナ誌2018年7月号に紹介記事)は『エディー・ベルグール...』で心底憎悪していた暴力的で無教養であらゆる差別の代弁者であった父親を再考し、何世代にもわたって再生産される貧困のシステムの被害者として50歳で廃人と化した父を「理解」する書であった。
 16歳で奨学金を得て、村の実家から出てピカデリー地方の中心都市アミアンのリセに通うようになって初めて得られたエディー(当時の本名)の自由、この日から著者のラジカルな変身が始まるのだが、それは最初は過去と決別することであった。数年後その決別の経緯を題材として作家となったルイは、その後唾棄するほど嫌悪していた過去に何度も立ち戻り、再発見と和解を体験する。第二作『暴行譚』では妹のクララの真の姿を、第三作では政治と構造的貧困の犠牲者としての父の姿を。そしてこの新著では母親モニックを再発見してしまう。
 発端は一枚の写真である。いつどこで手に入れたのか思い出すこともできない、本に挟まっていた母の20歳の時の写真。セルフィーなどという言葉が存在しなかった30年ほど前、おそらく安物オートフォーカスカメラで遊んでいたのだろう、自分の顔にレンズを向け、自分でシャッターを切った写真。屈託も邪気もない若い娘の顔。ルイは思う:
きっと私は忘れてしまっていたのだ、私が生まれる前、彼女は自由で幸せだったのだということを。
もちろん彼は自分が生まれたあとのことしか知らず、その母は父と同じほどに彼に冷たく高圧的だった。 そしてその子のホモセクシュアリティーを理解しようとせず、擁護する側に立たず、父親と同じようにその”性向”(女の子のような動作ふるまい)をなじった。
 北フランスで貧しく育ったモニックにも若い頃は調理師になるという夢があった。16歳で専門学校に入ったものの、好きでもない鉛管工事職人と関係ができ妊娠してしまう。なりゆき上の結婚、18歳で一児の母にして専業主婦。男は暴力的でアルコール漬けで女癖が悪い。育児が落ち着けば専門学校に戻り好きでもない男と別れて自分の道を、と考えてもいたが20歳で第二子が。モニックは二人の子供のため、と夫の嘘と暴力とアルコールに耐えてきたが、我慢が限界を超え23歳で二人の子を連れ家出し、妹の住むHLMに居候する。学歴も職歴もない女が幼子二人の面倒を見ながらどうやったら生きていけるのか。前夫のところから飛び出して数ヶ月後、たぶんこれしか生き延びる方法がなかったのだろう、彼女はひとりの工場労働者と出会い、関係を持つ。これがエディーの父親になる男であるが、彼は三人を迎え入れ、新生活が始まる。しかしこの男は前夫と同じほどに暴力的でアルコール漬けで野卑なのだった。二人の子供を養うために始まった好きでもない男との家族生活は悪化の一途を辿る。第1作『エディー・ベルグール...』でも詳しく描写されているが、夫は働いている工場で工作機械が背中に落ちてきて重症を負い、入院とリハビリの甲斐なく、再び働くことが難しくなってしまう。労災と失業手当で一家を養うのは極めて厳しい。この窮状を忘れるためのアルコールの量は倍増し、口論とDVは耐えない。一家は再婚後にできたエディーのあと、さらにモニックが双子を妊娠してしまう。経済的に養育不可能と知っていながら、夫は(封建的家父長制のおきてか、信仰もないのに頭に叩き込まれているカトリック的価値観からか)、絶対にこの双子を出産して育てよ、とモニックに厳命する。子供5人(そのうちのひとり前夫からの連れ子の長男が凶暴な不良になっていく)、仕事に出れない夫、モニックは村の老人介護のパート仕事をもらいわずかな収入を得るが、極端な貧困状態は改善されるわけがない。
 本書はこの何重もの悲惨からモニックがいかにして抜け出したか、という記録である。著者がこの母親と同居していた15年間(生まれてからアミアン転居まで)、少年エディーにとってモニックは味方ではなかった。暴君的で無教養な父親側の人間であり、父親に対するのと同じようにエディーはこの母親を恥じた。子供同士の会話で「あれはおまえのママンか?」と聞かれたら、違う、と答えていたし、学校の父兄呼び出しの時に母親が学校に来ないように手を回していた。恥ずかしいのは貧しい身なりだけではない。とりわけその言葉づかい、語彙、口の聞き方だった。だが、それが少しずつ変わっていったということにエディーは気付いていなかった。今になって記憶の中でルイはその変化を再発見していく。それは、児童のある低収入家族のための夏休み補助金を初めて公的機関に(ややこしい書類を書いて)申請して行けた初めての子供たちとのヴァカンスの幸福であり、忙殺の家事の日常から初めて解放された笑顔を子供たちに見せたことだったり、偶然知り合った(階級的にひとつ上の)不幸な女性とあたためていった友情のおかげで、それまでしたことのなかった化粧や美容院通いや女同士でカフェで談笑することや近隣都市に行ってのショッピングなど”フツーの”女性たちの真似事ができた喜びだったり...。貧困と村社会と男性原理に打ちのめされ続けてきたモニックは、少しずつ「解放されたい」「自由になりたい」「自分の人生を取り戻したい」という希望の風を肌で感じるようになっていった。それを妨げるものは暴力を振るい、人前で彼女のことを「脂肪のかたまり」と罵り、身体能力が徐々に低下して手間がかかるようになり、アルコールと悪いダチとの付き合いがひどくなっていった夫(エディーの父親)だけなのである。
 既にパリで作家となっていた著者の第二作『暴行譚』で書かれた性暴行事件の翌年、夜に電話が鳴り、開口一番「私ついにやったわよ」という母の声。
私は彼女が何のことを話しているのかすぐに理解し、私も興奮してこう言った「話して!どんなふうにしてやったの?」。彼女は一息ついて語り出した「いつものことであの男、家に戻らなかったの、あんたも知ってるでしょ。何時に出て行ったのか知らないけれど、私は食事を作ってあいつを待っていたの。でもね私自分にこう言ったの、もうおしまいだって。私はもうあの男を待たないし、この先ももう絶対待たないって。もう待つのはうんざりだって。」
(僕はあんたを誇りに思うよ、あんたにそれもう言ったっけ?)
彼女は続けた「それから私はあの男の身の回りのものすべてをゴミ袋につめて、家の前の舗道に放り出したの。こんなふうにね。私はもう自分を止められなかった。それからあの男が戻って来て家の扉を開けようとしたけど、私は全部鍵をかけておいた。そしたらあいつ壁や窓を叩いて叫び出した。私あいつのことはよく知ってるよ、私から見ればあいつは何が起こったのかよくわかったんだと思うよ。私は扉越しにあいつに言ってやった、もう二度と帰って来るなって。あの男「もう二度と?」って聞き返すから、私は繰り返した「もう二度と!」。あいつ泣き出したんだけど、私は自分に言い聞かせた、許しちゃだめだ、屈したらだめだ、って。もう許すのはおしまいよ。」
(p81 - 82)
母は50歳に手が届く頃に、構造的貧困と夫の暴力と差別に打ちのめされた無産の地方女性から自由への逃走を果たした。 それは同じ貧困と父の暴力と封建的性差別に打ちのめされたホモセクシュアルの自分と同じ闘いだった、とエドゥアール・ルイは気付き、ひとりの女性モニックと和解し、母を誇りに思う。この薄い120ページの本は、その和解を祝福する闘争のドキュメンタリーと読める。
 その後も母の革命は続き、ひとりの男性と出会い、大きくなった子供たち(問題ある子もいる)と別れ、(移住にしばらく躊躇したものの)パリのアパルトマンのコンシエルジュとして働き始めた”彼”を信じて首都に上って行き、夫婦コンシエルジュとして働いている。若返り、生気を取り戻し、息子エディーのようにパリで生きている。著者はこの闘争と変身の書の打ち上げ花火のように、最後部にモニックとカトリーヌ・ドヌーヴの出会いという美しいエピソードを紹介する。これは是枝裕和監督がパリで『真実』(2019年、主演カトリーヌ・ドヌーヴ、ジュリエット・ビノッショ、イーサン・ホーク)を撮影していた時、その現場にエドゥアール・ルイが立ち会っていて起こった話。
 既に作家になっていた私は、ある映画撮影に招かれていてその現場に彼女もいた。ある時私の後ろにいた男が休憩を取ろうと私に言い、きみはカトリーヌ・ドヌーヴと話してみたくないかと尋ねた。私はもちろんですと答え彼のあとをついて行った。彼女と面と向かった時、私は彼女に何を話すべきかいろいろ考えてしまった。あまりシリアスなことでもだめだし無駄話でもだめだ、と。そして私は母のことを思いついた。母はドヌーヴのことが大好きだったのと同時に、これほど母と違った人生は母には不可能だったはずだから。私はドヌーヴに私の母があなたの家のすぐ近くに住んでいますよ、と軽い話題のように話した。政治や世相について通り一辺のことを話すことは避けたかったから。
 カトリーヌ・ドヌーヴは大きく目を見開いた。私は彼女が驚いたのを見てとり、彼女に母が建物のコンシエルジュとして働く伴侶を頼ってパリにやってきたことなど母の変身について語り始めた。彼女は微笑み、タバコを吸いながら、いつかあなたのお母さんに会いに行くわ、と言った。
 数日後、母が電話してきた。「たった今、誰と一緒にタバコ吸ってたと思う?カトリーヌ・ドヌーヴよ!」
 私はドヌーヴがそんなことをするとは思ってもみなかった。私は彼女が母に会いに行くと私に言ったのは礼儀からのことだけで、初対面の会話の気まずさを避けるためだけのことだと思っていた。
 母は電話でカトリーヌ・ドヌーヴが母の建物まで来て、一緒にタバコ吸いながらお話ししない?と母を誘ってきたと語った。「私は彼女と話してる間中、気づかれないように周りを見回したの。だって私はできるだけ多くの人たちに私が彼女と話しているところを見てほしかったの。私はすべての人にカトリーヌ・ドヌーヴが私に話しかけてるというのを知ってもらいたかったのよ。」
 私は母の声にこれほどまでの気の動顛を聞き取ったことはない。母が若い頃からずっと憧れていたこの女優とのやりとりが、母の変身のために母が費やしてきたすべての努力の凝縮を象徴しているかのように。目をくしゃくしゃにして母はこう要約した:「私はこれまで人生をなすがままに放ったらかしておいた。でもね、今、私はパリにいて、カトリーヌ・ドヌーヴと知り合いなのよ。」
(p101 - 103)

笑ってしまおうではないか。拍手しようではないか。闘争は勝利し、変身は真実のものになった。エドゥアール・ルイが書くから、この真実味はただものではない。

Edouard Louis "Combats et métamorphoses d'une femme"
Seuil刊 2021年4月 120ページ 14ユーロ

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)国営TVフランス2のトーク番組「On est en direct」で自著『ある女の闘争と変身』について語るエドゥアール・ルイ



2021年4月19日月曜日

エディー・ド・プレットとエドゥアール・ルイ

2021年3月から4月、本稿の二人の主役の新作が出た。現在29歳のエディー・ド・ブレットは3月26日にセカンドアルバム『A tous les bâtards (すべての雑種たちへ)』を発表し、デビューアルバムの極私的な”変わり者”の叫びからレンジを広げ、世から白眼視されるあらゆるビザールでフリークでマージナルな人々の代弁者たらんとしているようだ。デビューアルバムほどの支持を集められんことを。次いで4月1日、現在28歳のエドゥアール・ルイは第4作めの"小説(?)"『ある女の闘争と変身』を発表、4月中旬現在、書店ベストセラー1位の好評を博している。白状して比較すると申し訳ないが、前者に比して後者に何倍もの興味を持っている私である。2014年の第1作『エディー・ベルグールにケリをつける』以来、当ブログはこの作家の動向を積極的に紹介してきた。これまでエドゥアール・ルイの"文学”作品で当ブログが書いていなかったのは2018年の『誰が僕の父を殺したか(Qui a tué mon père?)』のみだったが、ここにラティーナ誌2018年7月号に発表したエディー・ド・プレットのデビュー作とルイのこの作品を紹介した記事を再録することにした。今読み返しても、非常に重要な作品だったことが了解される。
(2021年4月19日記す)

★★★★ ★★★★ ★★★★ ★★★★

この記事は音楽誌ラティーナに連載されていた「それでもセーヌは流れる」(2008 - 2020)で2018年7月号に掲載されたものを、同誌の許可をいただき加筆修正再録したものです。

ふたりのエディー
(in ラティーナ誌2018年7月号)

今から5年前、2013年4月23日、同性の結婚を認める法律(発案法相の名をとって「トービラ法」と呼ばれる)が国会で可決され、フランスは世界で14番目の同性結婚が可能な国になった。その前後で同法に反対する保守系+極右系+カトリック系市民のデモは一時は百万人を動員するほど勢いがあったが、時と共に同性結婚はフランスの普通の市役所前風景(記念写真)となりつつある。成果のあまりなかったオランド政権時代(2012-2017)の、ほぼ唯一の金星と言っていい。この一歩の前進にも関わらず、フランスでの同性愛者及びLGBT全般に関する偏見・差別はまだまだ根が深く、暴力的な嫌がらせや迫害事件は絶えない。少年期に家庭でも学校でもそういう苛めを体験した音楽アーチストと作家、共に今年25歳、共にゲイゆえに受けた苦渋の体験をベースにした作品を発表し、共に名前をエディーと言う。

 2017
年のブールジュの春フェスティヴァルで最高の新人と評価されて以来、エディー・ド・プレットは凄まじい勢いでその知名度を上げ、まだレコードも出ていなかったので有力レーベルが争奪合戦を繰り広げたと言う。レパートリーはすでにSNSで瞬く間に広がり、その秋には周るコンサート会場の先々でオーディエンスが全曲を声をかぎりに唱和するという現象に達した。このどこから出てきたのかわからない若者の衝撃の最初はそのルックスである。小柄(身長170センチ)な体躯に、中世フランドルの画家ヤン・ファン・エイクの肖像画から出てきたような青白く平面的な気難しい表情の顔、それは日本の俗っぽい表現では「ブサイク」な男である。そしてステージ上に現れるのは、バックトラックを詰め込んだスマホ(iPhone)、ドラムスセットを叩くドラマー、そして青白い青年(エディー)だけなのだ。この構図では観客は俺しか見ない、というしたたかな計算は、彼がリセ時代から学んだ演劇から得たものだと言う。ラップ/ヒップホップのDJによるシンプルで重みのある抒情的短調3コードのバックトラックに、驚くほど正調で明瞭な発声の歌い込みヴォーカル(クロード・ヌーガロ、ジャック・ブレルを想わせるほど)が一語一語の言葉をはっきりと聞き取らせる。約1年後の2018年3月にやっとリリースされた初アルバム『キュール(療養)』には歌詞ブックレットを故意につけていないのだが、その必要などない、という自信がはっきりと見える。
 この子は愛や希望など歌わない。その歌は世の規格や慣いから外れて生きた私的体験からの恨み節でもあり、反抗の表現でもある。エディー・ド・プレットは1993年にパリの南の郊外新都市クレトゥイユで生まれ、そこで育ち、早くからその郊外的環境から抜け出さねばと目覚めたと言う。それはすでにラップ系のアーチストたちが繰り返して告発していた貧困・失業・人種差別・パラレル経済(犯罪、ドラッグ)の環境であり、子供の頃から閉ざされた未来を看破してしまう。7歳の時、両親が離婚し、彼は母親の新生活に拒否反応を示す。甘ったれで母の愛を渇望していたこの子は、満たされずに泣いてばかりいた。彼の教育に関してはほとんど不在だった父親は口を開けば「泣くんじゃない、外でボール蹴りをしろ、強い男になるんだ」と言うばかり。この父親の「雄々しき男たれ」という叱責は後述のエドゥアール・ルイに共通する重要な小児期トラウマであるが、エディー・ド・プレットは「キッド」という歌でこう表現している。


雄々しくなるのだ、キッドよ
体力と威圧する態度と大物の恰幅をもって輝くのだ

おまえの性は弱者たちを嘲り勝利する

目に花火を散らして歓喜するのだ

限度を知らぬ雄々しさ

限度を知らぬ雄々しさ

でも僕は女の子たちと遊ぶ

でも僕はペニス自慢などしない

でも僕はあんたの顔に皺を作らせ

あんたの説教なぞ消えてなくなれ

(「キッド」)
 自らのホモセクシュアリティーと両親の目と世の中のコードを曖昧に妥協させるために、少年は「ヘテロ・アクティング」(あるいはストレート・アクティング)という生活態度を取る。すなわち筋力を鍛え、女の子を誘惑し、男言葉だけを使う。だが、それもある日「おまえなんかおかしい」「おまえはノーマルじゃない」「おまえはフツーじゃない」という極めてアグレッシヴな言葉の前に、空中分解を起こしそうになるのである。この世界は凶暴である。子のジェンダーを理解しない親、少数派のセクシュアリティーを認めようとしない社会、ノーマルと見なされない性。

  僕は完璧にノーマルだ 

  完璧にフツーだ

  僕は完璧にノーマルだ

  愚かでかなりビョーキだ

  (「ノーマル」)

 
 この叫びは、ジェンダーを問わず、ノーマルを強いる世の中に窒息しそうだった子たちに響き、コードに順応しないこともノーマルであるという新しいマニフェストになる。表面的にエディーの歌はゲイ・コミュニティー運動闘士のメッセージのように読まれるきらいがあるが、その物語はもっと具体的で個的な体験から抜け出そうという極私的な反逆である。まだアルバムも出ていないのにヴィクトワール賞にノミネートされ、そのコンサートスケジュールは2019年までソールドアウトという異常な熱狂が彼を包んでいる。ストロマエやジャック・ブレルと比較されながら、シャンソンやヒップホップのコードを破った15トラック入り極私的アルバム『キュール』は2018年3月にリリースされるや、5月現在までチャート1位を独走している。

 もう一人のエディー、作家エドゥアール・ルイは本名エディー・ベルグールとして生まれたのだが、その生い立ちと縁を切りたいがために21歳の時に正式な法的手続きをとってエドゥアール・ルイに改名した。その経緯は2014年の衝撃のデビュー小説『エディー・ベルグールとケリをつける』(邦訳『エディに別れを告げて』2015年東京創元社)で展開されている。

 北フランス、鉄道駅まで15キロ離れた人口数千人の村、皆が皆と顔見知りで、何十年も何百年も同じ時に生きているような村社会での鉄の掟は、女は女らしく、そしてとりわけ男は男らしく。その掟が最も徹底しているのが労働者階級の環境であり、話者エディーの家庭は父親が工場就労中に事故で背中を砕かれ、療養後の再就労も再就職も難しく、最低生活保障金に頼って生きるようになる。父のアルコール依存、兄の暴力、切り盛りする母もあらゆるゴマカシなしにはやっていけない。エディー・ド・プレットの歌と同じように「雄々しく生きろ」を小さな息子に繰り返す父親。この環境の中でホモセクシュアリティーを自覚してしまった少年は、学校と家庭で徹底的に苛め抜かれるのである。
 2012年この小説の原稿を彼は複数の出版社に送りつけるのだが、読んだ編集者たちが一様にこれを拒否した理由が「地方と言えども今日のフランスにこのような旧社会があるわけがない」と描写の過度の誇張と見なしたからなのだ。パリ左岸に集中する文芸出版社各社の編集者たちには地方の現実が何も見えていなかったのだが、それはパリや大都市に住むフランス人たちが選挙の度に地方が極右政党FNに大挙して投票することが理解できないのと同じことなのだ。エドゥアール・ルイはこれはすべて真実であり、僕はフィクションを書かないし、書けないと言い張る。

 幸いにして2014年スイユ社から出版されたこの小説は初版2000部を発売日に売り切り、2ヶ月後には16万部に達する大ベストセラーになった。小説は貧困とホモ差別に打ちのめされた少年エディーが、学業が優秀であるというその一点に救いを見出し、16歳で地方の中央都市(アミアン)のリセに編入移住することで村と家から脱出するストーリーである。なお、この6月に横浜で開催されるフランス映画祭で上映予定のアンヌ・フォンテーヌ監督の映画『マーヴィン、あるいは素晴らしい教育』は、この小説を原作としている(ただし原作からかなり自由翻案されている)ので、観れる方はぜひ。

 第2作の『暴力の物語』は2016年1月に発表された。これも実話に基づく私小説で、第1作『エディー・ベルグール』を書き終え(まだ出版にこぎつけていない)、パリで社会学を専攻するエリート学生となっている2012年のクリスマスの夜、社会学の研究者仲間二人と共に聖夜の夕食を済ませた後、帰宅する途中の道で出会った北アフリカ(カビリア)出身の不良青年に誘惑され、フィーリングが合い自宅に引き連れ性交したのち、青年の態度が豹変して首を絞められ、絞殺寸前まで締め付けられながら強姦される、という実体験が描かれる。このあらましを複数の話者(エドゥアール自身、彼の妹のクララ、研究者仲間二人)の証言で再現するという、やや手の混んだ立体的に構築された小説世界を展開する。事件そのものの凄まじさもさることながら、第1作とは異なる文学のディメンションの大きさを思わせ、この若い作家の力量を見せつけた作品だった。

 それから2年少し経った2018年5月に発表された第3作めが『誰が僕の父を殺したのか』である。この90ページ足らずの薄い作品は小説と呼ぶべきものか、私は判断できない。「誰が殺したのか」と題するも推理ものではない。ましてや「僕の父」は殺されても死んでもいない。その父とは第1作『エディー・ベルグール』で、男らしくない息子を罵り侮蔑していた人物であり、息子が憎悪しか抱いていなかった人物である。あの村社会だけでなく、この男から逃れるために少年エディーは必死に抵抗していた。あの小説を書いてから5年後、作者は再考した。父親と同居していた十数年間、物心がついて以来父親を敬遠し、その不在を願い、その侮蔑の言葉に傷ついてばかりいた。憎悪しかないと断定していたのは、それ以外のことを知らなかっただけなのではないか。

 父親は息子だけでなく、妻にも見限られた。現在父親は妻に追い出された家から遠くない村に「新しい女性」と二人で暮らしている。しかしもうほとんど歩行もままならず、夜は酸素補給装置をつけて寝ている。まだ50歳である。この年齢でこれほどボロボロになったのは、十数年前に働いていた工場で重機が背中に落ちてきて背骨を砕いてしまったのが原因だった。リハビリで完治しない状態で工場復帰するが長続きせず、失業、最低生活保障金で一家はどん底で生き延びてきた。そしてアルコール依存。しかしサルコジ政権の時代、「就労可能なのに求職せず社会保護受給する者」への締め付けが始まり、健康上のハンディキャップも考慮されず父親は車で30分の距離にある自治体の清掃夫として再就職を余儀なくされ、そこでさらに体を痛めてしまうのである。この21世紀に文明国の人間を50歳で廃人にしてしまうものは何なのか。これが『誰が僕の父親を殺したか』の主題である。
 問いは一方的に息子のもので、父親は問いも答えもしない。作者は憎悪の対象としてしか見ようとしなかった父親の見えなかった記憶を他者や事件の記録を通して再訪する。憎しみを消すためではなく、理解するために。どうせ16歳で工場に勤めるしかないという閉ざされた展望ゆえに、少年期の父親は勉学と学校を嫌い、皆と同じようにワルで硬派だった。この村では男として生まれたらその他に選択の余地はない。だから息子も、という一本道を作者は拒んだ。父を裏切り、男らしくならずに学問の世界に進むことを選んだのだ。

 この作品の冒頭で作者はアメリカの女性知識人ルース・ギルモアの「レイシズムとはある階層の人々を早期の死の危険に晒すことである」という言葉を引用し、「この定義は男性上位、反同性愛・トランスジェンダー、階級による支配、その他あらゆる社会的政治的抑圧にも通用する」と続けている。この90ページの本は、前2作にはなかった政治的考察に満ちている。50歳にして廃人になった父親の問題は政治的なのである。再会した父親の人生を再検証したエドゥアール・ルイからは憎しみが瓦解していくものの、その50歳の惨状に激しい憤怒が立ち上ってくる。彼の第一小説を拒否した編集人たちの反応と同じで、彼が出てきた地方の労働者階級の人々(それは全国津々浦々にいるものであるが)にとって政治とは生きるか死ぬかの問題であるということを理解しない裕福階層に激しく怒っている。労働法を改悪すれば死ぬ労働者が出てくる、社会保障費を減額すれば死ぬ家族が出てくる、この現実を嘲笑するかのように歴代の政府は貧しい者たちをさらに追い込んできた。「誰が父親を殺したか」その答は政治であり、父親を殺した者たちには名前があり、シラク、サルコジ、オランド、エル・コムリ(オランド政権時の労働法改悪大臣)、マクロン…と作者は名指していく。これは一体文学か、という問いには、私はこの告発と憤激の記述のエモーションは文学の力であると断言できる。

 この書物の最後に息子と父親の短い会話がある。父親は変わったし弱くなった。それまで村の周囲の大人たちと同じように極右に投票していた父親が、息子が高校の頃に左翼運動をしていたことを思い出す。

「おまえ、まだ政治のことしてるか?」
「前よりももっとしているよ」
「おまえが正しい、俺も一回いい革命があったらいいと思うよ」

68年5月革命から50年めの5月、エドゥアール・ルイと父親は革命という言葉で和解した、と読めるのではないか。

(ラティーナ誌2018年7月号・向風三郎「それでもセーヌは流れる」)


Eddy de Pretto "Cure"
CD/Digital Initial Artist Services - Universal
フランスでのリリース:2018年3月2日

Edouard Louis "Qui a tué mon père"
Seuil刊 2018年5月3日 90ページ  12ユーロ

 
(↓)エディー・ド・プレット「キッド」オフィシャルクリップ。



(↓)2018年5月、国営テレビFrance 5「グランド・リブレーリー」で『誰が僕の父を殺したか』について語るエドゥアール・ルイ。