2021年12月23日木曜日

食う寝るところに住むところ

William Sheller "Un endroit pour vivre"
ウィリアム・シェレール「生きるための場所」


1981年アルバム"J’suis pas bien"より

ウィリアム・シェレール(1946年生れ現在75歳)は2016年に(長い闘病ののち)ステージ活動からの引退を宣言していて、それ以降は作曲を続けているようだが、新アルバムは発表していない。2020年4月にコロナ禍のさなか急死(死因は肺気腫でコロナではないと発表)したクリストフ(1945 - 2020)と混同する人たちがかなりいて、シェレールもこの世にないと思われている傾向があるが、まだ生きている。クリストフとの共通点は「孤高の音楽家」然としたところで、ちょっとおいそれと短い言葉で語ってはいけないような鬼才である。私はずっと苦手意識があって、一度もこの人のことを公のスペースで書いたことがない。たぶんそれはシェレールの出自であるクラシック音楽の要素が強すぎるという先入観で、音楽の勉強を一切していない私には語れるわけがない要素が多すぎるからだと思う。ま、いつになるかわからないけれど、ちゃんと取り上げなければと思っているアーチストのひとりです、ベルナール・ラヴィリエ、ユベール=フェリックス・ティエフェーヌなどと共に。
 今回なぜ、この曲なのか、と言うと、フランスにいる方たちにはすぐに合点がいくだろうけど、この年末テレビでよくかかっている大手スーパー・チェーンのアンテルマルシェ(Intermarché)の2021年3分間長尺CMフィルムのせいなのである。 食材/食品の種類の豊富さで他店との違いを特徴化する戦略のこのスーパーは"On a tous une raison de mieux manger(誰でもよりおいしく食べたいわけがある)"というキャンペーン・テーマでこの種の3分間長尺CMを既に何本か作っており、2019年バンジャマン・ビオレー歌「セ・マニフィック」を音楽として用いたCM作品は爺ブログのここで紹介している。
 ではまず"Un endroit pour vivre"という曲について。これは1981年に発表されたウィリアム・シェレールの5枚目のアルバム"J'suis pas bien"からシングル盤として切られた "Une chanson noble et sentimentale"のB面曲だった。その後、自作自演歌手シェレール全キャリアを代表する1曲となる"Un homme heureux"の入ったソロ・ピアノ弾き語りライヴアルバム"Sheller en solitaire"(1991年)などほとんどのライヴアルバムで重要レパートリーとして登場し、シェレールの"スタンダード"曲となっていく。

このピアノ弾き語りのバラード曲は、前半のフレーズだけ聞くと、たまたまたどり着いたその場所こそ自分が住むべき場所じゃないか、と単純に思ってしまうのだが、後半になると歌詞は難解になる。はっきり言ってよくわからない。一応訳してみた。

町のどこにでもあるような通りに立っていると想像してごらん

でもきみの町にはない灯りがついている
ひょっとしてそこが住むべき場所なんじゃないか

僕はよく知らないしうまく言えないけれど
そこでたくさんのいいことや悪いことが展開する日々があれば

ひょっとしてそこが住むべき場所なんじゃないか
たぶんそこが住むべき場所なんじゃないか

僕は何もない男だし、家柄もない
自分の道を見つけるまで僕は目隠しされていた
こっちへ来いと言われたことはないし
行きたいところへ行っちまえと言われていた
それで僕は下を向いて大人しく無益にほっつき歩いていた
僕は決して簡単じゃないことをしようとしてるんだ
僕は少しだけきみのために生きてたって言えるようになりたいんだ

ある日一緒に散歩するようにね

そして僕らは気分良くなり、きみを風が包むんだ
そこがたぶん住むべき場所なんじゃないか
一晩中家の外で語り合い
眠る子が安らかな夢を見ている
ひょっとしてそこが住むべき場所なんじゃないか
たぶんそこが住むべき場所なんじゃないか

いつでも僕がもう持っていないものを差し出せるようにならないとだめなのかな
知らず知らずのうちに僕から持ち去られたもの、誰も僕に返してくれなかったもの
僕が空気中に失ってしまったもの、あるいは僕がうまく売り損ねたもの

その果てにすべては遅過ぎたって僕が理解できるような

奇妙な瞬間を見つけられるようにならないとだめなのかな

忘れるためのなにか、僕がそれを信じるすべを持っていないなにか

 

でも自分を振り返るほんのひとときだけでも
あの日僕の声が大きく発せられて

きみ自身に覚えがあるだろうあの言葉で歌うことまでできたんだ

その印象を大事にしていたいんだ

わからないでしょ? まあ私の解釈では友情でも愛情でも男女関係でも男男関係でも(親子関係もありだろうな)複雑なさまざまなことを越えて”きみと僕”が生きてきた場所を信じているということだと思う。最後3行に見えるのは、この場所は”きみ”の言葉が引き金になった「歌の誕生」の場であった、ということ。その印象をずっと大事にしたい、と言うのだから、もう別れなのかもしれない。だから、決してそこが生きるための素敵な場所、という単純な歌でもテーマでもないのだよ。
 ところが、件のアンテルマルシェの長尺CM作品は、この難解部分を全部無視して、全く別のストーリーを展開させる。制作脚本&監督はこれまでの前4作同様カティア・レウコヴィッツで、ムールージ "L'amour l'amour l'amour"(2017年)、前述のバンジャマン・ビオレー「セ・マニフィーク」(2018年)、アンリ・サルヴァドール"J'ai tant rêvé"'(2019年)、テールノワール "Jusqu'à mon dernier souffle"(2020年)に続く大変な力作。まずロケ地がすばらしい。南仏プロヴァンス地方ヴァール県の小さな村トリガンス。ストーリーは村の小学校に3年間勤めた青年教師が、念願だったパリへの転勤が決まり、最後の授業を行い子供たちに別れを告げる。子供たちからも村人たちからも好かれ慕われたこの教師に、子供たちは素っ気なくさようならを言い、一目散でそれぞれの家に帰る。誰もいなくなった学校で教師は身の回りの片付けを始めながらノスタルジックに3年の日々を想う。その一方で、教師に気づかせぬように、子供たちと村人たちはサープライズで鷲ノ巣村の通りを全部つかった大規模な野外お別れ夕食会を準備している...。ここがひょっとして生きるべき場所なのかもしれない、という歌の最初のテーマそのものに、教師は胸打たれ、パリ行きをやめて村にとどまる...。(ここまで説明しなくてもいいか)


これはねえ、困ったことに、この長尺CMフィルムの方が歌を完全に喰ってしまうのですよ。美しい絵なんだから、それはそれでいいと思いますよ。

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