2021年12月27日月曜日

一年の計は元旦にあり(という意味ではない)

Les Irrésistibles
"My Year Is A Day"
レ・ジレジスティーブル「マイ・イヤー・イズ・ア・デイ」


詞トム・アリーナ/曲ウィリアム・シェレール
フランスでのリリース:1968年3月14日


ウィリアム・シェレール(1946 - )の来歴は、仏語版ウィキペディアに記載されたものを読むだけでも、かなり複雑なものがあり、いつかちゃんと紹介しなければと思っている。米軍GIとフランス女性の間に生まれた私生児であること、幼くして母に連れられてアメリカに渡り夢破れて帰仏、11歳でクラシック音楽家を目指し短期間で現代音楽の前衛まで習得してしまうが、ビートルズ音楽に邂逅して....。22歳で作編曲家からポップ音楽アーチストへ、25歳でバルバラ と出会いその強い進言で"歌手へ...。最初の妻との間に二人の子供、離婚後その妻は新興宗教に盲信し子供たちが庇護を求めて...。バイセクシュアル、アルコールとドラッグ(コカイン),,, etc etc 。2021年3月に出版された自伝"WILLIAM par William Sheller"(Equateur刊、193ページ)もあるが、読むべき時が来たら...。
 11歳でベートーヴェンを目指して音楽家を志した少年は、師事した高名な音楽教授(イヴ・マルガ、ガブリエル・フォーレ門下生)からその才能の萌芽を認められたものの、11歳からではスタートが遅過ぎ、この遅れを取り戻して一廉のクラシック音楽家になるには、学校をやめてコンセルヴァトワールに専修するように、と。ピアノ、和声法、作曲法などに加えてマルガ教授はラテン語、哲学、歴史、文学まで少年にみっちり教え込み、さらに「セリエル音楽」の領域まで踏み込んでいくが... 。すべて優秀な成績で習得していくが、ある日ガールフレンドのアパルトマンでビートルズの音楽と遭遇する...というのが前述ウィキペディアの説なのだが、そんな単純なものではないと思うよ。で、クラシック出身の作編曲家としてウィリアム・シェレールはポピュラー音楽の世界に入っていくのだった。
 一方パリの西郊外の保守的で排外的で裕福層だらけの旧城下町サン・クルーにあるアメリカン・カレッジで知り合った4人の在巴アメリカ人子弟で1966年に結成されたロックバンドがあった。名はまだない(とりあえず自分たちでは The Sentriesと名乗っていたようだ)。全員16歳のメリケンベビーフェイスのボンボンだった4人は双子兄弟のスティーヴ・マックメインズ(ベース)とジミー・マックメインズ(ヴォーカル、オルガン、リズムギター)、トム・アリーナ(リードギター)、アンディ・コーネリアス(ドラムス)。何ヶ月もレコードデビューのための曲を探していたが、ついにこれはというメロディーと出会う。作曲者は全く無名のウィリアム・シェレールという男。この曲にギターのトミー・アリーナが詞をつけて出来上がったのが"My year is a day"。

Really wanna change my mind
But I know it takes some time
Thoughts are boucing in my brain
Oh Lord are they gonna change
Seems I lost her years and years ago

I need her so, can I go on sad
I feel so bad, I think I'm had
And my year is a day,
And my year is a day,
My year is a day

日本には「十年一日(じゅうねんいちじつ)という四字熟語があり、長い間全く変化が見られない状態を指すのであるが、この「一年一日」という歌は、恋人を失った苦悩が1日で1年分ほど重いというココロなんですな。わかりやすい英語であり、このわかりやすさが非英語人にもビシビシせまるというのが「ヒットの秘訣」なのであった。
  1968年2月、(1965年開業、当時パリで最先端の録音スタジオだった)ステュディオ・ダヴートで、"サム・クレイトン”ことジャン・クロードリック編曲指揮の大所帯楽団をバックに、この曲とB面"She and I"(詞曲マックメインズ兄弟)は録音された。ルックスで売れるバンドと思われたのだろうが、高級メンズウェアブランド(一時はカルダンの対抗だったらしい)BRILがスポンサーにつき、けったいなデザインの服をバンドに着せ、もう一社スポンサーで英国高級スポーツカーのトライアンフがその新しいロードスターTR5をレコードジャケットとスコピトン(60年代版プロモーションクリップ)に登場させている。

 そしてレコード会社CBSはこのバンドに Les Irrésistibles(レ・ジレジスティーブル、抗しがたい魅力)という難しいフランス語バンド名をつける。ちなみに日本で最も知られているヴァリエテ曲のひとつ、シルヴィー・ヴァルタンの "Irrésistiblement"(あなたのとりこ、イレジスティーブルマン)も同じ1968年のリリースであるが、何のエニシもない。シングル盤の裏ジャケにバンド名の言い訳のように、レ・ジレジスティーブルは米国ロサンゼルスで結成されたバンドであり、"THE BELOVED ONES"が現地でのオリジナルのバンド名であり、レ・ジレジスティーブルはそのフランスデビューのためのフランス語訳バンド名であるかのように書いている。まるっきりウソであるが、ウソだらけの芸能界だから驚かない。↑ちなみに日本CBSソニーからのシングル盤”Lands of Shdow"に記されたバンド名は「ザ・ビラブド・ワンズ」であり、日本側にしてみればこれはアメリカ産のバンドなのだから、売る側にしてみればその方がしっくりくるという話なのだろう。
 そしてシングル盤「マイ・イヤー・イズ・ア・デイ」は1968年3月14日に発売になる。


あ、(と今気づく)、ヴォーカル君(ジミー・マックメインズ)のウール帽は、この記事を書いている時点から2週間前(12月10日)に他界したモンキーズマイク・ネスミス(1942 - 2021)にあやかったものかもしれない。モンキーズ(1965 - 1971)全盛期であったからして。
 時の偶然はこの発売直後に、戦後フランス最大の社会運動「68年5月」をもってくるのである。この全土ゼネストの数週間、大手ラジオは連帯ストで通常番組が流せず、音楽ばかりをぶっ通しで流し続け、その結果桁外れの”68年ヒット曲”をいくつか生むことになる。「パリ朝5時」(ジャック・デュトロン)、「騎兵」(ジュリアン・クレール)、「レイン&ティアーズ」(アフロディティーズ・チャイルド)、「オン・ザ・ロード・アゲイン」(キャンドヒート)、「シンク」(アレサ・フランクリン)、「自転車」(イヴ・モンタン)...
 「敷石の下は砂浜だ」ー 学生街カルティエ・ラタンで投石と道路封鎖用に剥がした舗道の敷石の下は砂だった。バリケードの中はビーチ・パーティーとなり、若者たちは砂の上で愛し合った ー なあんてね、後の世の人たちはロマンティックな作り話で美化するんだけど。この68年的状況の中で、レ・ジレジスティーブル「マイ・イヤーズ・イズ・ア・デイ」は、わかりやすいロマンティック・バラードとして大ヒットするのだった。「僕の1年は1日」ー これをカルティエ・ラタンの壁に落書きしてみよう、りっぱな68年スローガンになるではないか、意味は幾通りにでも解釈され、革命的な1行詩に勘違いもされよう。ー それはどうかわからないが、この曲は68年春から夏にかけてフランスでメガヒット曲となり、国境を越えベネルクス、英国、ドイツ、スペイン、カナダ、イスラエル、南米諸国、米国でもリリースされて、その総売上はなんと2百万枚と言われている。これが後にも先にもレ・ジレスティーブルの唯一のヒット曲であったことは言うまでもない。しかしこの曲は当時すでに(国際的)大スターであったダリダによってフランス語("Dans la ville endormie")とイタリア語("L'aquilone")でカバーされ、これがまたヒットしてしまうのだった。このうちダリダ1968年フランス語ヴァージョンは、2021年の007映画『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』(監督キャリー・ジョージ・フクナガ、主演ダニエル・クレイグ)の挿入歌にもなった。まあ、この最後の分の印税収入は別としても、1968年に無名作曲家ウィリアム・シェレールはこの1曲で巨万の富を得てしまう。
 その獲得した大金すべてを、ウィリアム・シェレールはシンフォニック・ロックアルバム『LUX AETERNA(永遠の光)』(1969年録音/1972年2000枚限定リリース)の制作費として注ぎ込むのだが、この話はまた別の記事で詳しく紹介しましょう。

(↓)レ・ジレジスティーブル「マイ・イヤー・イズ・ア・デイ」(1968年)別スコピトン。

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