『リンメンシータ(無限)』
2022年イタリア映画
監督:エマヌエレ・クリアレーゼ
主演:ペネローペ・クルス、ルアーナ・ジュリアーニ
フランスでの公開:2023年1月11日
私がヨーロッパに移住するずっと前(1960/70年代)から、ほぼカリカチュアのようにイタリアは離婚が非常に難しいお国柄であるという話は聞いていた。1961年マルチェロ・マストロヤンニが主演した『イタリア式離婚(Divorzio all'italiana)』など、殺人まで企てて離婚を達成しようとする喜劇映画であったが、ローマ・カトリック教会の道徳観がイタリアに重く重くのしかかるのはその後もしばらく続くのである。この『リンメンシータ』という映画は1970年代のローマが舞台である。時代は変わりつつあったが、離婚は極めて難しい。あの頃離婚が普通にできていたなら、こんなイタリア映画は成立しない。もしも離婚ができていたなら、もしも離婚ができていたなら、もしも離婚ができていたなら、もしも離婚ができていたなら。すまん、手が止まらなくなってしまった。
舞台は1970年代のローマであり、この家庭は小ブルジョワであり、近代的な広いアパルトマンに住み、夫婦はそれぞれ車を持ち、夫のはシトロエンDSカブリオレである。3人の子供たち(娘・息子・娘)は制服のあるカトリックの学校に通い(礼拝の義務あり)、就眠前にはお祈りを欠かさない。
ローティーンの上の娘アドリ(アドリアンナの愛称)(演ルアーナ・ジュリアーニ、素晴らしい!)はずっと神に祈願していることがある。誰もいない建物の屋上に上り、横たわって空に向かって祈り異星からの信号が降りてくるのを待っている(冒頭シーン)。アドリは女に生まれたくなかった。女であることが本来の自分ではないと苦しんでいる。神に祈り、神が願いを聞きつけ男に変身させる兆候を与えてくれることをずっと待っている。学校の礼拝堂の戸棚から、キリストの肉体である聖パンを盗み出し、それをたくさん食べれば願いが叶うはず、と。これは今日では「性同一性障害」として診断されるケースだが、当時はそんな言葉すら存在しなかった。この幼少時から「女はいや、男になりたい」と主張してきた娘を、父親フェリーチェ(演ヴィンチェンゾ・アマート)はおまえの躾け/教育が悪いからだ、と責任を妻クララ(演ペネローペ・クルス)に押し付ける。
権力も金も旺盛な性欲もあるこの夫は当時のイタリア(上流)社会では”並”にいたマッチョで強権的で暴力的で見栄っ張りな男であったが、信仰を尊び、マンマ(母上)を中心とする親類を含めた大家族(ラ・ファミリア)の繋がりを格別に大切にする。映画の中で夏のヴァカンスとクリスマスとこの大家族が2回集合するシーンが出てくるが、これが絵に描いたような(古き)イタリアブルジョワ大家族で...。この環境にそぐわないのが二人、すなわちクララとアドリであった。家父長権威を盾にとり、外で愛人と遊び、家で暴力を振るう男と別れたい、この当たり前の言い分を許さないのが当時のイタリアの法律とカトリック十全主義であった。
クララとアドリの共通の現実逃避場所たるヴァーチャル空間が、テレビの歌謡ヴァラエティーショーやサンレモ音楽祭といった”モダンで今風な”カンツォーネの世界だった。これも映画の最初の方のシーンで、アパルトマンの食堂でレコードプレイヤーに針を落とし、調子の良い(イタリア語)ポップチューンが始まると、3人の子供たちと一緒に素晴らしいコレグラフィーで踊りながら皿や食器のテーブルセッティングをするミュージカル仕立ての場面、まるで『ラ・ラ・ランド』の一場面を見ているよう。ペネローペ・クルスのダンスが素晴らしすぎて、ちょっとびっくり。そしてクララとアドリの空想空間で、当時のイタリアのテレビのように”白黒”になって、歌謡ショーで歌ったり踊ったりする。サウンドトラック盤出てるかな?挿入曲はセヴンティーズ・イタリアン・ポップがほとんどのはず。とてもいい感じ。
自分を「アンドレア」と男名前で名乗り、冒険と"悪さ”の好きなアドリは、親から行くことを禁じられている近所の空き地の一面に背の高い葦(あし)の生い茂った広大な茂みの向こうに、バラック野営の一群を見つける。"ジンガリ”(ロマ)か?と聞くと、季節労働者だと言う。その中の長い黒髪の美しい少女サラ(演ペネローペ・ニエト・コンティ)に電撃的な一目惚れをしてしまう。これが”男児”アンドレアの初恋であった。禁じられた場所での禁じられた恋。アドリはどんなに禁じられてもあの葦の茂みの向こうへ行き、”男児アンドレア”を好きになってしまったサラとの青い恋に心を焦がす。しかし...。
一方クララはアドリの悩みよりもアドリの若さと自由が羨ましく、この世界に生き辛い二人はより親密な関係になり、二人の少女の親友同士のように一緒に”悪さ”をする楽しみを共有するのだが、それは刹那的なものでしかない。夫フェリーチェは自分の秘書に手を出し、妊娠させてしまう(あの頃のイタリアなので中絶などもってのほか)。クララの精神は病んでいき、それはアパルトマンの火事騒ぎを起こすほどに(この筋は、映画化もされたオリヴィエ・ブールドーの小説『ボージャングルスを待ちながら』にちょっと通じるものあり)。その結果フェリーチェはクララを精神療養施設に送り込んでしまう...。
月日は経ち、アドリは母親クララとの約束を守って、葦の茂みの向こう側に行っていない。施設を退院し、生気を失って還ってきたクララにはまた同じ日常が待っている。そしてアドリはその間に葦の向こうのバラック野営集落がローマ市のブルドーザーで一掃されたことを知る...。
唐突に続く白黒画面の歌謡ヴァラエティーショー、「さよならなんて絶対に言わない、愛は永遠だ」と(イタリア語で)熱唱するフランシス・レイ作曲の映画主題歌「ある愛の詩/ラブ・ストーリー」、それを歌っているのはは変声して”男声”になったアドリ...。
国籍が違うとは言え、この映画のペネローペ・クルスはイタリア大女優ソフィア・ローレンを想わずにはいられない。華やかさ、グラムール、生活感、母親っぽさ、少女っぽさ...。アルモドバール映画では見せないものも、この映画では見えた気がする。稀代の大女優であることには異論の余地ない。
主演:ペネローペ・クルス、ルアーナ・ジュリアーニ
フランスでの公開:2023年1月11日
私がヨーロッパに移住するずっと前(1960/70年代)から、ほぼカリカチュアのようにイタリアは離婚が非常に難しいお国柄であるという話は聞いていた。1961年マルチェロ・マストロヤンニが主演した『イタリア式離婚(Divorzio all'italiana)』など、殺人まで企てて離婚を達成しようとする喜劇映画であったが、ローマ・カトリック教会の道徳観がイタリアに重く重くのしかかるのはその後もしばらく続くのである。この『リンメンシータ』という映画は1970年代のローマが舞台である。時代は変わりつつあったが、離婚は極めて難しい。あの頃離婚が普通にできていたなら、こんなイタリア映画は成立しない。もしも離婚ができていたなら、もしも離婚ができていたなら、もしも離婚ができていたなら、もしも離婚ができていたなら。すまん、手が止まらなくなってしまった。
舞台は1970年代のローマであり、この家庭は小ブルジョワであり、近代的な広いアパルトマンに住み、夫婦はそれぞれ車を持ち、夫のはシトロエンDSカブリオレである。3人の子供たち(娘・息子・娘)は制服のあるカトリックの学校に通い(礼拝の義務あり)、就眠前にはお祈りを欠かさない。
ローティーンの上の娘アドリ(アドリアンナの愛称)(演ルアーナ・ジュリアーニ、素晴らしい!)はずっと神に祈願していることがある。誰もいない建物の屋上に上り、横たわって空に向かって祈り異星からの信号が降りてくるのを待っている(冒頭シーン)。アドリは女に生まれたくなかった。女であることが本来の自分ではないと苦しんでいる。神に祈り、神が願いを聞きつけ男に変身させる兆候を与えてくれることをずっと待っている。学校の礼拝堂の戸棚から、キリストの肉体である聖パンを盗み出し、それをたくさん食べれば願いが叶うはず、と。これは今日では「性同一性障害」として診断されるケースだが、当時はそんな言葉すら存在しなかった。この幼少時から「女はいや、男になりたい」と主張してきた娘を、父親フェリーチェ(演ヴィンチェンゾ・アマート)はおまえの躾け/教育が悪いからだ、と責任を妻クララ(演ペネローペ・クルス)に押し付ける。
権力も金も旺盛な性欲もあるこの夫は当時のイタリア(上流)社会では”並”にいたマッチョで強権的で暴力的で見栄っ張りな男であったが、信仰を尊び、マンマ(母上)を中心とする親類を含めた大家族(ラ・ファミリア)の繋がりを格別に大切にする。映画の中で夏のヴァカンスとクリスマスとこの大家族が2回集合するシーンが出てくるが、これが絵に描いたような(古き)イタリアブルジョワ大家族で...。この環境にそぐわないのが二人、すなわちクララとアドリであった。家父長権威を盾にとり、外で愛人と遊び、家で暴力を振るう男と別れたい、この当たり前の言い分を許さないのが当時のイタリアの法律とカトリック十全主義であった。
クララとアドリの共通の現実逃避場所たるヴァーチャル空間が、テレビの歌謡ヴァラエティーショーやサンレモ音楽祭といった”モダンで今風な”カンツォーネの世界だった。これも映画の最初の方のシーンで、アパルトマンの食堂でレコードプレイヤーに針を落とし、調子の良い(イタリア語)ポップチューンが始まると、3人の子供たちと一緒に素晴らしいコレグラフィーで踊りながら皿や食器のテーブルセッティングをするミュージカル仕立ての場面、まるで『ラ・ラ・ランド』の一場面を見ているよう。ペネローペ・クルスのダンスが素晴らしすぎて、ちょっとびっくり。そしてクララとアドリの空想空間で、当時のイタリアのテレビのように”白黒”になって、歌謡ショーで歌ったり踊ったりする。サウンドトラック盤出てるかな?挿入曲はセヴンティーズ・イタリアン・ポップがほとんどのはず。とてもいい感じ。
自分を「アンドレア」と男名前で名乗り、冒険と"悪さ”の好きなアドリは、親から行くことを禁じられている近所の空き地の一面に背の高い葦(あし)の生い茂った広大な茂みの向こうに、バラック野営の一群を見つける。"ジンガリ”(ロマ)か?と聞くと、季節労働者だと言う。その中の長い黒髪の美しい少女サラ(演ペネローペ・ニエト・コンティ)に電撃的な一目惚れをしてしまう。これが”男児”アンドレアの初恋であった。禁じられた場所での禁じられた恋。アドリはどんなに禁じられてもあの葦の茂みの向こうへ行き、”男児アンドレア”を好きになってしまったサラとの青い恋に心を焦がす。しかし...。
一方クララはアドリの悩みよりもアドリの若さと自由が羨ましく、この世界に生き辛い二人はより親密な関係になり、二人の少女の親友同士のように一緒に”悪さ”をする楽しみを共有するのだが、それは刹那的なものでしかない。夫フェリーチェは自分の秘書に手を出し、妊娠させてしまう(あの頃のイタリアなので中絶などもってのほか)。クララの精神は病んでいき、それはアパルトマンの火事騒ぎを起こすほどに(この筋は、映画化もされたオリヴィエ・ブールドーの小説『ボージャングルスを待ちながら』にちょっと通じるものあり)。その結果フェリーチェはクララを精神療養施設に送り込んでしまう...。
月日は経ち、アドリは母親クララとの約束を守って、葦の茂みの向こう側に行っていない。施設を退院し、生気を失って還ってきたクララにはまた同じ日常が待っている。そしてアドリはその間に葦の向こうのバラック野営集落がローマ市のブルドーザーで一掃されたことを知る...。
唐突に続く白黒画面の歌謡ヴァラエティーショー、「さよならなんて絶対に言わない、愛は永遠だ」と(イタリア語で)熱唱するフランシス・レイ作曲の映画主題歌「ある愛の詩/ラブ・ストーリー」、それを歌っているのはは変声して”男声”になったアドリ...。
国籍が違うとは言え、この映画のペネローペ・クルスはイタリア大女優ソフィア・ローレンを想わずにはいられない。華やかさ、グラムール、生活感、母親っぽさ、少女っぽさ...。アルモドバール映画では見せないものも、この映画では見えた気がする。稀代の大女優であることには異論の余地ない。
不幸な母親と3人の子供たち、という設定はカルロス・サウラの大名作『カラスの飼育(Cria Cuervos)』(1976年)のことも頭をよぎる。この『リンメンシータ』もそのクラスの名画の風格がすでにあると思う。
なお、監督のエマヌエレ・クリアレーゼはこの映画の初上映(2022年ヴェネツィア映画祭)の際に、この映画の性同一性障害の娘アドリは自分をモデルとしており、自らがトランスセクシュアルであることをカミングアウトしたのでした。
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)『リンメンシータ』予告編
(↓)クララと3人の子供たちがダイニングで踊りながら食卓テーブルセッティングをする”ミュージカル”シーン。曲はラファエラ・カラ(Raffaella Carra)「ルモーレ(Rumore)」(1979年)
なお、監督のエマヌエレ・クリアレーゼはこの映画の初上映(2022年ヴェネツィア映画祭)の際に、この映画の性同一性障害の娘アドリは自分をモデルとしており、自らがトランスセクシュアルであることをカミングアウトしたのでした。
カストール爺の採点:★★★★☆
(↓)『リンメンシータ』予告編
(↓)クララと3人の子供たちがダイニングで踊りながら食卓テーブルセッティングをする”ミュージカル”シーン。曲はラファエラ・カラ(Raffaella Carra)「ルモーレ(Rumore)」(1979年)
(↓)挿入歌のひとつ、パティ・プラヴォ「ラヴ・ストーリー」(1971年)
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