暑中お見舞い申し上げます。
8月12日までサン・ローラン・デュ・ヴァール(南仏コート・ダジュール)におります。ブログの次回の更新は8月後半になります。
皆様、よい夏をお過ごしください。
カストール爺
2012年7月30日月曜日
2012年7月18日水曜日
アンリの頂上
Henri Salvador "Tant de temps"
アンリ・サルヴァドール『かくも長き時間』
愛撫するような声で歌う老人アンリ・サルヴァドール(1917-2008)が90歳で亡くなってから4年が過ぎました。この老人が,何度かコミック芸人ではなくミュージシャン/アーチストとして正当な評価を得ようとしたのですが,なかなか果たせず,その日は2000年にリリースされたアルバム『眺めのよい部屋』("Chambre avec vue",日本盤タイトルはなさけなくも『サルヴァドールからの手紙』)にやっとやってきたのでした。その時既にアンリ翁は80歳を過ぎていたのです。世界で最も甘美で哀愁的な声を持ったクルーナーを復活させるのに大きく貢献したのが,ケレン=アン・ゼイデルとバンジャマン・ビオレーという21世紀に華ひらく若いミュージシャン/アーチストでした。
このアルバムの後,アンリ翁は幸せなアーチストとして,死ぬその日までコンサートとアルバム制作に夢中で,その途中で立ったまま前のめりで倒れるように昇天しました。この人だったら,100歳まででも歌い続けられるだろう,と言われもしました。まあ,文字通り,天寿を全うした,と言っていいんじゃないでしょうか。
その3年後,仏ユニバーサル・ミュージックの社内レーベルPolydorに,作曲家フランシス・マッジューリが,実はアンリ・サルヴァドールの未発表デモ録音を6曲保管している,と告げます。マッジューリは90年代の仏ポップ・トリオ,レ・チャート(Les Charts。カロジェロとジョアキノのマウリチ兄弟とマッジューリのイタリア系3人少年のバンド)としてデビューしていて,その後は作曲家としてナターシャ・サン=ピエール,パトリック・フィオリなどに曲を提供しており,その最大のヒット曲はノルウェン・ルロワの"Cassé"(2003年)ということになっています。
このデモ6曲は1999年に録音されています。つまり『眺めのよい部屋』とほぼ同時期ということです。このもうひとつの「クルーナー・アルバム」は,実を結ぶことなく,デモテープのままお蔵入りしていました。これをPolydorは『眺めのよい部屋』の立役者バンジャマン・ビオレーに委託して,アルバムとして「完成」させるという企画を立てたのです。(途中でレーベルはPolydorから同じユニバーサル社内のV2に移っています)。
その作業中に未発表録音は全部で10曲まで見つかりました。1999年に録音された8曲,1991年に録音された1曲(6曲め "Qui es-tu ?"),そして1962年に録音された1曲(4曲め "Mon amour")。この10曲がバンジャマン・ビオレーのきめ細かく,巧みと贅を尽くしたオーケストレーションで「完成」されてしまいます。ジャズ・ビッグ・バンドのアレンジに包まれた6曲め "Qui es-tu?"では,元ラフェール・ルイス・トリオのユベール・ムーニエがデュエット・ヴォーカルで参加。もう1曲ビッグ・バンド編曲の9曲"Ca leur passera"では,バンジャマン・ビオレー自身がデュエット歌手として,ルイス・アームストロングのようなヴォーカルを聞かせます。
この10曲に加えて,ビオレーはサルヴァドールの代表曲「シラキューズ」(1962年録音版)のサルヴァドールのヴォーカルとギターだけを抽出して,それにビオレーの全く新しいオーケストレーションをかぶせ,まるでドビュッシー/ラヴェルを聞くような「ビオレー版シラキューズ」に仕上げて,このアルバムの終曲にしています。
奇妙な曲がひとつ。4曲めの"Mon amour"は,サルヴァドールがこの「モ・ナムール」という「わが愛する人よ」という言葉をくりかえして,ギターに合わせてヴォカリーズしているだけなのです。たぶん即興のいたずら録音だったかもしれないこのギターと「モ・ナムール」だけの曲に,ビオレー編曲のピアノ,サックス,ベース,パーカッションが介入することによって,これは「祈り」(テレラマ誌のヴァレリー・ルウーの表現です)のレベルまで高められていくのです。引き上げられたのはビオレーの編曲のせいかもしれませんが,私たちはここにアンリ・サルヴァドールの声の魔力の頂点のようなものを聞いてしまうでしょう。私はこれを「アンリの頂上」と名付けます。
ベストトラックは2曲め(そしてアルバムタイトル曲)"Tant de temps"。何度でも聞きたくなるようなサルヴァドール・サウダージがびしびし迫るボサ・ノヴァ曲です。
11曲34分19秒,なにか悠久の時の中で聞いているような体験です。 かくも長き時間。
<<< トラックリスト >>>
1. Ca n'a pas d'importance
2. Tant de temps
3. Une île sans elle
4. Mon amour
5. Une belle journée
6. Qui es-tu ? (with Hubert Mounier)
7. Paname à la havane
8. Mes petites préférences
9. Ca leur passera (with Benjamin Biolay)
10. Doucement
11. Syracuse
HENRI SALVADOR "TANT DE TEMPS"
V2/Universal CD 3700631
フランスでのリリース:2012年6月18日
(↓アルバム1曲め「たいしたことじゃないさ (Ca n'a pas d'importance)」。「歌入れ」が1999年、編曲が2012年。これは墓場の向こう側の声を目の前で聞く体験でしょう。)
アンリ・サルヴァドール『かくも長き時間』
愛撫するような声で歌う老人アンリ・サルヴァドール(1917-2008)が90歳で亡くなってから4年が過ぎました。この老人が,何度かコミック芸人ではなくミュージシャン/アーチストとして正当な評価を得ようとしたのですが,なかなか果たせず,その日は2000年にリリースされたアルバム『眺めのよい部屋』("Chambre avec vue",日本盤タイトルはなさけなくも『サルヴァドールからの手紙』)にやっとやってきたのでした。その時既にアンリ翁は80歳を過ぎていたのです。世界で最も甘美で哀愁的な声を持ったクルーナーを復活させるのに大きく貢献したのが,ケレン=アン・ゼイデルとバンジャマン・ビオレーという21世紀に華ひらく若いミュージシャン/アーチストでした。
このアルバムの後,アンリ翁は幸せなアーチストとして,死ぬその日までコンサートとアルバム制作に夢中で,その途中で立ったまま前のめりで倒れるように昇天しました。この人だったら,100歳まででも歌い続けられるだろう,と言われもしました。まあ,文字通り,天寿を全うした,と言っていいんじゃないでしょうか。
その3年後,仏ユニバーサル・ミュージックの社内レーベルPolydorに,作曲家フランシス・マッジューリが,実はアンリ・サルヴァドールの未発表デモ録音を6曲保管している,と告げます。マッジューリは90年代の仏ポップ・トリオ,レ・チャート(Les Charts。カロジェロとジョアキノのマウリチ兄弟とマッジューリのイタリア系3人少年のバンド)としてデビューしていて,その後は作曲家としてナターシャ・サン=ピエール,パトリック・フィオリなどに曲を提供しており,その最大のヒット曲はノルウェン・ルロワの"Cassé"(2003年)ということになっています。
このデモ6曲は1999年に録音されています。つまり『眺めのよい部屋』とほぼ同時期ということです。このもうひとつの「クルーナー・アルバム」は,実を結ぶことなく,デモテープのままお蔵入りしていました。これをPolydorは『眺めのよい部屋』の立役者バンジャマン・ビオレーに委託して,アルバムとして「完成」させるという企画を立てたのです。(途中でレーベルはPolydorから同じユニバーサル社内のV2に移っています)。
その作業中に未発表録音は全部で10曲まで見つかりました。1999年に録音された8曲,1991年に録音された1曲(6曲め "Qui es-tu ?"),そして1962年に録音された1曲(4曲め "Mon amour")。この10曲がバンジャマン・ビオレーのきめ細かく,巧みと贅を尽くしたオーケストレーションで「完成」されてしまいます。ジャズ・ビッグ・バンドのアレンジに包まれた6曲め "Qui es-tu?"では,元ラフェール・ルイス・トリオのユベール・ムーニエがデュエット・ヴォーカルで参加。もう1曲ビッグ・バンド編曲の9曲"Ca leur passera"では,バンジャマン・ビオレー自身がデュエット歌手として,ルイス・アームストロングのようなヴォーカルを聞かせます。
この10曲に加えて,ビオレーはサルヴァドールの代表曲「シラキューズ」(1962年録音版)のサルヴァドールのヴォーカルとギターだけを抽出して,それにビオレーの全く新しいオーケストレーションをかぶせ,まるでドビュッシー/ラヴェルを聞くような「ビオレー版シラキューズ」に仕上げて,このアルバムの終曲にしています。
奇妙な曲がひとつ。4曲めの"Mon amour"は,サルヴァドールがこの「モ・ナムール」という「わが愛する人よ」という言葉をくりかえして,ギターに合わせてヴォカリーズしているだけなのです。たぶん即興のいたずら録音だったかもしれないこのギターと「モ・ナムール」だけの曲に,ビオレー編曲のピアノ,サックス,ベース,パーカッションが介入することによって,これは「祈り」(テレラマ誌のヴァレリー・ルウーの表現です)のレベルまで高められていくのです。引き上げられたのはビオレーの編曲のせいかもしれませんが,私たちはここにアンリ・サルヴァドールの声の魔力の頂点のようなものを聞いてしまうでしょう。私はこれを「アンリの頂上」と名付けます。
ベストトラックは2曲め(そしてアルバムタイトル曲)"Tant de temps"。何度でも聞きたくなるようなサルヴァドール・サウダージがびしびし迫るボサ・ノヴァ曲です。
11曲34分19秒,なにか悠久の時の中で聞いているような体験です。 かくも長き時間。
<<< トラックリスト >>>
1. Ca n'a pas d'importance
2. Tant de temps
3. Une île sans elle
4. Mon amour
5. Une belle journée
6. Qui es-tu ? (with Hubert Mounier)
7. Paname à la havane
8. Mes petites préférences
9. Ca leur passera (with Benjamin Biolay)
10. Doucement
11. Syracuse
HENRI SALVADOR "TANT DE TEMPS"
V2/Universal CD 3700631
フランスでのリリース:2012年6月18日
(↓アルバム1曲め「たいしたことじゃないさ (Ca n'a pas d'importance)」。「歌入れ」が1999年、編曲が2012年。これは墓場の向こう側の声を目の前で聞く体験でしょう。)
(↓ Universal Musicで公開されているメイキング・オブ "Tant de temps")
2012年7月11日水曜日
カイリー来ぬ青春
『ホリー・モーターズ』
"Holy Motors"
2012年フランス映画
監督レオス・カラックス
主演:ドニ・ラヴァン、エディット・スコブ、エヴァ・メンデス、カイリー・ミノーグ
フランス公開:2012年7月4日
レオス・カラックスの13年ぶりの新作です。5月のカンヌ映画祭にオフィシャル(コンペティション)出品されたのですが、非常にポジティヴだったプレス評にも関わらず、賞なしでした。しょうないものはしょうない。この時の審査委員長はナンニ・モレッティでした。この映画にはナンニ・モ。
思えば私は『ボーイ・ミーツ・ガール』(1984年)から『ポーラ・X』(1999年)までの4本の長編映画はほとんど封切時に観ていて、多分多くのカラックス・フォロワーと同じように『ポーラ・X』を観るまではずいぶんポジティヴにこの監督を持ち上げていたと思いますよ。そして知ったふりして『ポーラ・X』褒める人たちとは口を聞かなくなりました。私は『ポーラ・X』は嘔吐寸前でしたからね。
『ポーラ・X』で東欧女イザベルを演じたカテリーナ・ゴルベヴァが、44歳で謎の死を遂げたのが2011年8月14日のこと。(自殺説もあり)。カラックスの伴侶として10年連れ添っていて、3人の子供あり。新作『ホリー・モーターズ』 はジェネリックで写真入りで「カテリーナ・ゴルベヴァに捧ぐ」と出てきます。
レオス・カラックスは本名をアレックス・デュポンというのですが、映画アカデミー賞の "Oscar"と自分のファースト・ネーム "Alex"の二つ "Oscar Alex"のアナグラム(字の並び替え遊び)で "Leos Carax "という源氏名を考えついたのです。映画守護神オスカーの子アレックスは、レオス・カラックスとして映画のアンファン・テリブルになったのです。そしてこの『ホリー・モーターズ』で11役をこなすドニ・ラヴァンの役名は「ムッシュー・オスカー」なのです。
一体、映画って何でしょうね? 唐突にこんなこと言ってしまいますが、巨大映画会社が大予算かけて小難しくてややこしい映画を作るはずはないのです。あらゆる映画がみんな金が取れるわけではない。映画にはいろんな可能性があるはずで、銭勘定だけでみんながみんなあんな映画やこんな映画になってもらっては困る、と思います。特にパリ/東京などの飛行機長距離便の機内サービス映画の数々を見るとそう思います。これではわれわれの映画は死んでしまうのだ、という危機意識から、古今の映画人は警鐘として「映画のための映画」を作ってきました。トリュフォーの『アメリカの夜』、ヴェンダースの『ことの次第』、フェリーニの『インテルヴィスタ』などがそうです。(私はゴダールの『映画史』を観ていません)。
映画の子でいながら(2007年に3者連作の短編映画集『東京』 の中に「メルド」という作品を作ったという例外はありますが)13年の沈黙を守っていたカラックスが、ここでカラックス流儀の「映画のための映画」を作ってしまったのです。
映画は寝室で長い眠りから醒めたパジャマ姿のレオス・カラックス(himself)から始まります。カラックスが壁の隠し扉を開けて、別の間に入っていくと、そこは映画館なのです。いっぱいの観客は音もなく座っていて、座席の間の通路には小さな女の子が歩いていたり、猛獣が歩いていたり...。ここで映画はなにものでもないのです。ただの活動写真。古い時代のスポーツ選手の動作を捉えるだけの「動く写真」。
転じて郊外の超高級邸宅から、早朝に仕事に出かける「ムッシュー・オスカー」(ドニ・ラヴァン)の登場です。白塗りのスーパーリムジンには運転手兼秘書のセリーヌ(エディット・スコブ)がいて、今日のアポイントメントをバインダーファイルにしてオスカーに教えます。電話が入り、わけのわからないファイナンシャル用語での会話があります。オスカーはここで世界経済上のVIPという役をひとつこなすわけですが、その陳腐なファイナンシャル用語でのダイアローグで、どうしようもなくヘボいのです。リムジンの中は舞台俳優の楽屋のようになっていて、化粧台、衣装、小道具などがたくさん詰まっています。これから一日、深夜遅くまでムッシュー・オスカーはそのアポイントをひとつひとつこなしていくのですが、その度に化粧と衣装を変え、まったく別の人格としてリムジンから降りていきます。全部で11。オスカーは11種の人間の役を演じるわけです。「11人いる!」は萩尾望都のSF漫画でしたが、関連は全くないとは誰にも言いきれないでしょう。
映画に何ができるのか? カラックスは彼の流儀で映画の11の可能性を提示するのです。オスカーは国際経済のVIPから、パリの橋の上にいる腰の曲がった老婆乞食になり人々から侮蔑の目で見られます(超社会派ルンペン・プロレタリア映画?)。サイバー格闘技の戦士になり、ゲーム空間のような暗闇の中で戦闘したり、くねくねうねるセックストイのようなサイバー女とセックスしたり、それをCGで別映像化したり(超アバター映画?)。中華街でヤクザの兄弟分の敵討ちのような、残忍でヘモグロビンが多量に出る殺害シーンと、害者の顔を改造してしまう後始末(超バイオレント・アジア映画?超タランティーノ映画?)。労働者階級の優しいパパが、十代の娘が行った友だちのホームパーティー(窓からカイリー・ミノーグの曲が聞こえる)に迎えに行って、車(プジョー205)の中で父娘の優しい会話があるのですが、娘がそのパーティーで誰ともダンスしなかったと聞くや、突然態度が豹変して激怒し、娘を途中で車から降ろしてしまうのです(超ホームドラマ?)。金持ちの老紳士が超高級ホテルのベッドの上で死につつあり、その死の床に姪(演エリーズ・ロモー)が現れ、そのあまりに歳のかけ離れた激しい恋愛の悲しい告白ダイアローグがあります(超メロドラマ?)が、それがすべて演技であり、即興のシチュエーション・フィクションであることが後でばらされます(超クサイ映画?)。
映画のハイライトは2つあります。短編映画『東京』(メルド編)で登場した、下水道マンホールから出てくる緑の服を着た乞食の狂人メルドです。片目が白眼で、手から黒い爪がうずを巻いて伸びた汚い男は、通行人たちにぶつかり、タバコを奪い、花や札束を食べます。行く先はペール・ラシェーズ墓地。そこで超トップ・モデル(演エヴァ・メンデス)が、超トップフォトグラファーと写真撮影中で、そこに荒々しく乱入したメルドに、このフォトグラファーはインスピレーションを得て、この醜さはただものではない、こうなったら「美女と野獣」をやってしまおうと被写体になることをプロポーズします。そんなものに聞く耳持たず、絶世の美女を前に激情してしまったメルドは、トップモデルを誘拐し、墓地の地下に逃げ込みます。ここで美女と野獣は恋に落ちるのです(超「美女と野獣」?)。メルドのペニスは雄々しく勃起し(画面上にはっきりと映されます)、その状態で裸のメルドはトップモデルの膝枕で安らかに(勃起したまま)眠り、トップモデルはメルドを優しく愛撫しながら子守唄を歌ってあげるのです(超X-rated映画?)。
アメリカ映画史において、男優のペニスの勃起角度で X-ratedの検閲度合いが違っていたという事実があります。あたかもペニスが勃起すれば革命が起こってしまうのではないか、と政府は恐れていたようです。その昔 X-ratedは「闘う映画」だったのです。
もうひとつのハイライトは「ポン・ヌフの恋人」との再会です。恋人を演ずるのはジュリエット・ビノッシュではなく、カイリー・ミノーグです。過去の恋から醒めきれぬ二人は、リムジン同士の衝突事故で、ポン・ヌフ橋のたもとで再会し、今や廃屋となっているサマリテーヌ百貨店(1991年映画『ポン・ヌフの恋人たち』では、ポン・ヌフ橋とサマリテーヌの精巧な映画セットを作っておきながら、気に入らなくてつぶしてしまう、という曰くつきの撮影エピソードがあります。本当にサマリテーヌをつぶしてしまったのはカラックスかもしれない)にエヴァ(カイリー・ミノーグ)とオスカーは入っていき、階段を一段一段昇りながら屋上までいたるのですが、愛しながら別れた男女の悔恨を、ミュージカル映画仕立てでエヴァ=カイリー・ミノーグは歌っていくのです(超シェルブールの雨傘?)。「わたしたちは誰だったの? Who were we ?」(詞:レオス・カラックス+ニール・ハノン/曲:ニール・ハノン)という本当に泣かせる歌なのです。こんなにおセンチで痛々しい歌と情景は、めったな映画で見れるものではありません。私が涙しそうになったすぐあとで、ポン・ヌフ橋を眼下に見るサマリテーヌ百貨店の屋上で二人は再び別れ、男が立ち去ったあとで、なんとエヴァは屋上から飛び降り自殺をしてしまうのです。ちょっと待て!おまえは『ポン・ヌフの恋人たち』にこんな落とし前をつけるか!と、私は猛烈に腹が立ちましたね。 - (ジュリエット・ビノッシュ代理殺人事件という解釈も可能でしょう)。
ムッシュー・オスカーの今日の最後の仕事はパパとしてある家庭に帰宅すること。「今帰ったぞ〜い」と入って行った家には、チンパンジーの奥さんがいて、その二階にはチンパンジーの娘さんがいます(超猿の惑星?)。そしてその平和な家庭の一日の終わりの情景をバックに、ジェラール・マンセの"Revivre"(再生)という歌が流れます。「再生したいんだ。それは同じことをするためにもう一度生きたいということだ」。
セリーヌが運転するのと同じようなスーパー・リムジンがたくさん「ホリー・モーターズ」社の車庫に帰っていきます。ムッシュー・オスカーと同じような「仕事」をしている人たちは世の中にたくさんいて、人気がまったくなくなった車庫の中でその人たちのことをリムジンたちが(口のように車体ボンネットをバクバク開けて)嘲笑したり、揶揄したり。
カラックスはどうだ映画はここまでできるんだ、というリミットを遠くに押しやるような映画を作りたかったのでしょう。11のエピソードは当たり外れはあれど、映画的にスリルもサスペンスもホラーもグロもSFもロマンティスムもエロもシュールレアリスムもある、というカタログのようです。ただ、それは「映画のための映画」かと言うと、私にはどうしてもその前に「自分のための映画」であるという強烈なメガロマニー(誇大妄想狂)な色づけが気になって、しばしば居心地が悪くなるのです。カラックスについてはよく言われることで、この性向を形容するフランス語は "Nombrilisme"(ノンブリリスム)です。手元の仏和辞書に載ってないので、日本語の訳語はわかりません。"nombril"とは「へそ」のことで、へそが体の中心であるように、自分のことを世界のへそ、つまり世界の中心と考える自己中心主義のことです。
オスカーが何役もこなしてリムジンから出入りしているのを知っているひとりの男(ミッシェル・ピコリ)が、オスカーにどうしてそこまでするのか、と尋ねます。オスカーはそれに "Pour la beauté du geste"(行為の美しさを追求するために)と答えます。彼は美の探求のためにあらゆる役回りをしなければならない。その美を決定する審美眼はカラックスひとりしか持っていない(映画というのはそういうものと言われればそれまでですが)。美醜のリミットを破ろうとすることや、俺様式の完全主義は、この映画で当たるものもあれば外れるものもあり、その外れるものでは極端な不快感さえ呼び起こすかもしれない(それが狙いもありうる)。「私の審美眼が映画を決定する、なぜなら私は映画=オスカーなのだから」という鼻の高さは、拍手する人もいれば、どうしたものかと思う人もいるでしょう。この映画がカラックスの「私は映画だ」というマニフェストであるならば、私は7割の強度で拍手します。
最後にこれだけははっきり言っておくと、カラックスは女性に対する敬意が欠落しています。『ボーイ・ミーツ・ガール』から数えて、私はカラックスの映画に登場するすべての女優たちはカラックスに大なり小なりの隷属を強いられているようにしか見えないのです。
(↓『ホリー・モーターズ』予告編)
Holy Motors, de Leos Carax (bande-annonce) par Telerama_BA
"Holy Motors"
2012年フランス映画
監督レオス・カラックス
主演:ドニ・ラヴァン、エディット・スコブ、エヴァ・メンデス、カイリー・ミノーグ
フランス公開:2012年7月4日
レオス・カラックスの13年ぶりの新作です。5月のカンヌ映画祭にオフィシャル(コンペティション)出品されたのですが、非常にポジティヴだったプレス評にも関わらず、賞なしでした。しょうないものはしょうない。この時の審査委員長はナンニ・モレッティでした。この映画にはナンニ・モ。
思えば私は『ボーイ・ミーツ・ガール』(1984年)から『ポーラ・X』(1999年)までの4本の長編映画はほとんど封切時に観ていて、多分多くのカラックス・フォロワーと同じように『ポーラ・X』を観るまではずいぶんポジティヴにこの監督を持ち上げていたと思いますよ。そして知ったふりして『ポーラ・X』褒める人たちとは口を聞かなくなりました。私は『ポーラ・X』は嘔吐寸前でしたからね。
『ポーラ・X』で東欧女イザベルを演じたカテリーナ・ゴルベヴァが、44歳で謎の死を遂げたのが2011年8月14日のこと。(自殺説もあり)。カラックスの伴侶として10年連れ添っていて、3人の子供あり。新作『ホリー・モーターズ』 はジェネリックで写真入りで「カテリーナ・ゴルベヴァに捧ぐ」と出てきます。
レオス・カラックスは本名をアレックス・デュポンというのですが、映画アカデミー賞の "Oscar"と自分のファースト・ネーム "Alex"の二つ "Oscar Alex"のアナグラム(字の並び替え遊び)で "Leos Carax "という源氏名を考えついたのです。映画守護神オスカーの子アレックスは、レオス・カラックスとして映画のアンファン・テリブルになったのです。そしてこの『ホリー・モーターズ』で11役をこなすドニ・ラヴァンの役名は「ムッシュー・オスカー」なのです。
一体、映画って何でしょうね? 唐突にこんなこと言ってしまいますが、巨大映画会社が大予算かけて小難しくてややこしい映画を作るはずはないのです。あらゆる映画がみんな金が取れるわけではない。映画にはいろんな可能性があるはずで、銭勘定だけでみんながみんなあんな映画やこんな映画になってもらっては困る、と思います。特にパリ/東京などの飛行機長距離便の機内サービス映画の数々を見るとそう思います。これではわれわれの映画は死んでしまうのだ、という危機意識から、古今の映画人は警鐘として「映画のための映画」を作ってきました。トリュフォーの『アメリカの夜』、ヴェンダースの『ことの次第』、フェリーニの『インテルヴィスタ』などがそうです。(私はゴダールの『映画史』を観ていません)。
映画の子でいながら(2007年に3者連作の短編映画集『東京』 の中に「メルド」という作品を作ったという例外はありますが)13年の沈黙を守っていたカラックスが、ここでカラックス流儀の「映画のための映画」を作ってしまったのです。
映画は寝室で長い眠りから醒めたパジャマ姿のレオス・カラックス(himself)から始まります。カラックスが壁の隠し扉を開けて、別の間に入っていくと、そこは映画館なのです。いっぱいの観客は音もなく座っていて、座席の間の通路には小さな女の子が歩いていたり、猛獣が歩いていたり...。ここで映画はなにものでもないのです。ただの活動写真。古い時代のスポーツ選手の動作を捉えるだけの「動く写真」。
転じて郊外の超高級邸宅から、早朝に仕事に出かける「ムッシュー・オスカー」(ドニ・ラヴァン)の登場です。白塗りのスーパーリムジンには運転手兼秘書のセリーヌ(エディット・スコブ)がいて、今日のアポイントメントをバインダーファイルにしてオスカーに教えます。電話が入り、わけのわからないファイナンシャル用語での会話があります。オスカーはここで世界経済上のVIPという役をひとつこなすわけですが、その陳腐なファイナンシャル用語でのダイアローグで、どうしようもなくヘボいのです。リムジンの中は舞台俳優の楽屋のようになっていて、化粧台、衣装、小道具などがたくさん詰まっています。これから一日、深夜遅くまでムッシュー・オスカーはそのアポイントをひとつひとつこなしていくのですが、その度に化粧と衣装を変え、まったく別の人格としてリムジンから降りていきます。全部で11。オスカーは11種の人間の役を演じるわけです。「11人いる!」は萩尾望都のSF漫画でしたが、関連は全くないとは誰にも言いきれないでしょう。
映画に何ができるのか? カラックスは彼の流儀で映画の11の可能性を提示するのです。オスカーは国際経済のVIPから、パリの橋の上にいる腰の曲がった老婆乞食になり人々から侮蔑の目で見られます(超社会派ルンペン・プロレタリア映画?)。サイバー格闘技の戦士になり、ゲーム空間のような暗闇の中で戦闘したり、くねくねうねるセックストイのようなサイバー女とセックスしたり、それをCGで別映像化したり(超アバター映画?)。中華街でヤクザの兄弟分の敵討ちのような、残忍でヘモグロビンが多量に出る殺害シーンと、害者の顔を改造してしまう後始末(超バイオレント・アジア映画?超タランティーノ映画?)。労働者階級の優しいパパが、十代の娘が行った友だちのホームパーティー(窓からカイリー・ミノーグの曲が聞こえる)に迎えに行って、車(プジョー205)の中で父娘の優しい会話があるのですが、娘がそのパーティーで誰ともダンスしなかったと聞くや、突然態度が豹変して激怒し、娘を途中で車から降ろしてしまうのです(超ホームドラマ?)。金持ちの老紳士が超高級ホテルのベッドの上で死につつあり、その死の床に姪(演エリーズ・ロモー)が現れ、そのあまりに歳のかけ離れた激しい恋愛の悲しい告白ダイアローグがあります(超メロドラマ?)が、それがすべて演技であり、即興のシチュエーション・フィクションであることが後でばらされます(超クサイ映画?)。
映画のハイライトは2つあります。短編映画『東京』(メルド編)で登場した、下水道マンホールから出てくる緑の服を着た乞食の狂人メルドです。片目が白眼で、手から黒い爪がうずを巻いて伸びた汚い男は、通行人たちにぶつかり、タバコを奪い、花や札束を食べます。行く先はペール・ラシェーズ墓地。そこで超トップ・モデル(演エヴァ・メンデス)が、超トップフォトグラファーと写真撮影中で、そこに荒々しく乱入したメルドに、このフォトグラファーはインスピレーションを得て、この醜さはただものではない、こうなったら「美女と野獣」をやってしまおうと被写体になることをプロポーズします。そんなものに聞く耳持たず、絶世の美女を前に激情してしまったメルドは、トップモデルを誘拐し、墓地の地下に逃げ込みます。ここで美女と野獣は恋に落ちるのです(超「美女と野獣」?)。メルドのペニスは雄々しく勃起し(画面上にはっきりと映されます)、その状態で裸のメルドはトップモデルの膝枕で安らかに(勃起したまま)眠り、トップモデルはメルドを優しく愛撫しながら子守唄を歌ってあげるのです(超X-rated映画?)。
アメリカ映画史において、男優のペニスの勃起角度で X-ratedの検閲度合いが違っていたという事実があります。あたかもペニスが勃起すれば革命が起こってしまうのではないか、と政府は恐れていたようです。その昔 X-ratedは「闘う映画」だったのです。
もうひとつのハイライトは「ポン・ヌフの恋人」との再会です。恋人を演ずるのはジュリエット・ビノッシュではなく、カイリー・ミノーグです。過去の恋から醒めきれぬ二人は、リムジン同士の衝突事故で、ポン・ヌフ橋のたもとで再会し、今や廃屋となっているサマリテーヌ百貨店(1991年映画『ポン・ヌフの恋人たち』では、ポン・ヌフ橋とサマリテーヌの精巧な映画セットを作っておきながら、気に入らなくてつぶしてしまう、という曰くつきの撮影エピソードがあります。本当にサマリテーヌをつぶしてしまったのはカラックスかもしれない)にエヴァ(カイリー・ミノーグ)とオスカーは入っていき、階段を一段一段昇りながら屋上までいたるのですが、愛しながら別れた男女の悔恨を、ミュージカル映画仕立てでエヴァ=カイリー・ミノーグは歌っていくのです(超シェルブールの雨傘?)。「わたしたちは誰だったの? Who were we ?」(詞:レオス・カラックス+ニール・ハノン/曲:ニール・ハノン)という本当に泣かせる歌なのです。こんなにおセンチで痛々しい歌と情景は、めったな映画で見れるものではありません。私が涙しそうになったすぐあとで、ポン・ヌフ橋を眼下に見るサマリテーヌ百貨店の屋上で二人は再び別れ、男が立ち去ったあとで、なんとエヴァは屋上から飛び降り自殺をしてしまうのです。ちょっと待て!おまえは『ポン・ヌフの恋人たち』にこんな落とし前をつけるか!と、私は猛烈に腹が立ちましたね。 - (ジュリエット・ビノッシュ代理殺人事件という解釈も可能でしょう)。
ムッシュー・オスカーの今日の最後の仕事はパパとしてある家庭に帰宅すること。「今帰ったぞ〜い」と入って行った家には、チンパンジーの奥さんがいて、その二階にはチンパンジーの娘さんがいます(超猿の惑星?)。そしてその平和な家庭の一日の終わりの情景をバックに、ジェラール・マンセの"Revivre"(再生)という歌が流れます。「再生したいんだ。それは同じことをするためにもう一度生きたいということだ」。
セリーヌが運転するのと同じようなスーパー・リムジンがたくさん「ホリー・モーターズ」社の車庫に帰っていきます。ムッシュー・オスカーと同じような「仕事」をしている人たちは世の中にたくさんいて、人気がまったくなくなった車庫の中でその人たちのことをリムジンたちが(口のように車体ボンネットをバクバク開けて)嘲笑したり、揶揄したり。
カラックスはどうだ映画はここまでできるんだ、というリミットを遠くに押しやるような映画を作りたかったのでしょう。11のエピソードは当たり外れはあれど、映画的にスリルもサスペンスもホラーもグロもSFもロマンティスムもエロもシュールレアリスムもある、というカタログのようです。ただ、それは「映画のための映画」かと言うと、私にはどうしてもその前に「自分のための映画」であるという強烈なメガロマニー(誇大妄想狂)な色づけが気になって、しばしば居心地が悪くなるのです。カラックスについてはよく言われることで、この性向を形容するフランス語は "Nombrilisme"(ノンブリリスム)です。手元の仏和辞書に載ってないので、日本語の訳語はわかりません。"nombril"とは「へそ」のことで、へそが体の中心であるように、自分のことを世界のへそ、つまり世界の中心と考える自己中心主義のことです。
オスカーが何役もこなしてリムジンから出入りしているのを知っているひとりの男(ミッシェル・ピコリ)が、オスカーにどうしてそこまでするのか、と尋ねます。オスカーはそれに "Pour la beauté du geste"(行為の美しさを追求するために)と答えます。彼は美の探求のためにあらゆる役回りをしなければならない。その美を決定する審美眼はカラックスひとりしか持っていない(映画というのはそういうものと言われればそれまでですが)。美醜のリミットを破ろうとすることや、俺様式の完全主義は、この映画で当たるものもあれば外れるものもあり、その外れるものでは極端な不快感さえ呼び起こすかもしれない(それが狙いもありうる)。「私の審美眼が映画を決定する、なぜなら私は映画=オスカーなのだから」という鼻の高さは、拍手する人もいれば、どうしたものかと思う人もいるでしょう。この映画がカラックスの「私は映画だ」というマニフェストであるならば、私は7割の強度で拍手します。
最後にこれだけははっきり言っておくと、カラックスは女性に対する敬意が欠落しています。『ボーイ・ミーツ・ガール』から数えて、私はカラックスの映画に登場するすべての女優たちはカラックスに大なり小なりの隷属を強いられているようにしか見えないのです。
(↓『ホリー・モーターズ』予告編)
Holy Motors, de Leos Carax (bande-annonce) par Telerama_BA
2012年7月5日木曜日
ハイランド・モルトの恵み
『天使の取り分』2011年イギリス映画
"La Part Des Anges (The Angels' Share)" ケン・ローチ監督
主演:ポール・ブラニガン、ジョン・ヘンショー、ジャスミン・リギンス...
2012年カンヌ映画祭審査員賞
フランス公開:2012年6月27日
舞台はスコットランドの大きな町です。たぶんグラスゴー。ロビー(ポール・ブラニガン)は元不良少年。コカイン吸飲の勢いで,見知らぬ青年を超人的なヴァイオレンスで殴る蹴るを繰り返し,一生残る障害のある体にしてしまいます。この結果ロビーは監獄刑を喰らうことになりますが,軽減されて強制労働奉仕刑になります。その間にロビーは恋人レオニーが妊娠し,父親として真っ当な人間に更正することを自ら誓うのですが,不良時代の古縁の諍いの盛り返しや,ロビーを忌み嫌いレオニーから引き離そうとするレオニーの父親の妨害が絶えず,ロビーは再び「暴力」の側の人間に戻ってしまいそうになります。
レオニーとロビーの子は無事誕生し,レオニーは新しい生活を求めますが,ロビーには職も住処もありません。レオニーの父親はロビーに金をやるから,この町から消え去りロンドンへ行け,という取引さえ提案します。この親に禁止された愛は「ロメオとジュリエット」ですな。
金なし,職なし,暴力沙汰に巻き込まれる脅威に常に曝されながら,ロビーはこの町でどうやって「父親」として生きられるのか - という暗〜い幕開きです。暴力もいっぱい出てきます。おお,これはシリアスな社会ドラマだなや,と不安になります。そこに現れるのが「強制労働奉仕刑」の受刑仲間です。いずれも社会不適合者ばかり。盗癖のある女モー,理屈の通らない反抗者アルバート,がさつな乱暴者ライノ,そしてロビーが奇妙な4人組として結束してしまいます。
それに加えて,崖っぷちのロビーに最も厚い救いの手を差し伸べるのが,受刑者教官のハリー(ジョン・ヘンショー)です。ペンキ塗りやら墓地掃除やらの労働奉仕の監督の他に,この教官は受刑者たちの再就職のための職能啓発にいろんな企業見学もさせるのですが,その中にウィスキー蒸留会社がありました。実はハリーも大のモルト愛好者で,自らの楽しみもあったのですね。ここでロビーの秘められていた驚くべき才能が発掘されてしまいます。この青年はなんと天性のウィスキーテスターなのでした。その才覚を自覚したロビーは独習でウィスキー学を猛勉強します。そしてハリーが連れていくウィスキー試飲会では、プロも顔負けのテイスターぶりを発揮してしまいます。
その試飲会で知った値のつけようのない至宝中の至宝のモルトの存在。その国際オークションが、ハイランドにある醸造所で開かれるという。盗みの名人モーはその資料を盗み出し、4人の頭脳たるロビーはこの至宝モルトを盗み出す計画を立てます。4人はハイランドの「ウィスキーおたく」を装うために、キルトを腰に巻き(これが最高に可笑しい)、ヒッチハイクで醸造所に乗り込んで行きます。(古式に則って,キルトの下には何もつけないもんだから,アルバートはひどいマタズレ状態になってしまうのですが,婦女子の皆さんにはこの苦しみわかるまいに)。
ここが社会派ケン・ローチの腕の見せ所です。スコットランドの明日のないどん底の前科者たち4人の前に見えてくるのは、金に糸目をつけない世界中のウィスキー・コレクターたちです。貧しい者はますます貧しくなり、金持ちはますます金持ちになっていく、21世紀的二極化世界です。このハッピー・フューたちは,アメリカや日本からやってきて,または電話やインターネット入札という手段で,この世にも稀な至宝モルトの樽を競り落とそうとしまう。激しい競り合いで桁はついに百万ポンドを越してしまいます。この熱い競り合いのエキサイトした場の空気のおかげで,ロビーが倉の中に忍び込んだことなど,誰も気にも止めないのです。
ロビーと仲間はその夜,ボトル4本分の至宝モルトを盗み出すことに成功するのですが...。
アルコール醸造の世界で言われる「天使の取り分」とは,樽の中で熟成していく年月のうちに蒸発してしまうアルコール分のことで,熟成開始の量から蒸発して減ってしまった分は,天使たちが頂戴しているのだ,という詩的に美しい表現です。この映画は値のつけようもないほどの超高価で超レアな液体を盗む,という行為を犯罪と断定してこの若者たちを地獄に戻すことはしません。むしろ,自然に蒸発して消えるべき「天使の取り分」を,偶然分ち合うことができた若者たちだ,というバッカスの神のお情けに包まれた恩寵の映画です。
ここからロビーは醸造会社のテイスターという定職につき,パパとして新しい人生を歩み出し,ほかの3人もやや多めの金(全然ン百万という単位の額ではなくその百分の一)を手にしたおかげでそれぞれ前に進み出せるのです。こういう過酷で殺伐とした21世紀的貧困の中で,彼らは一生の友と,前に進む機会を得たのです。その仲介となったのが.... アルコールです。ハイランド・モルトの豊穣なる恵みです。アルコールは健康を害するですと? - そういう了見の人はこの映画観て,考えを改めてください。
(↓『天使の取り分』予告編)
"La Part Des Anges (The Angels' Share)" ケン・ローチ監督
主演:ポール・ブラニガン、ジョン・ヘンショー、ジャスミン・リギンス...
2012年カンヌ映画祭審査員賞
フランス公開:2012年6月27日
舞台はスコットランドの大きな町です。たぶんグラスゴー。ロビー(ポール・ブラニガン)は元不良少年。コカイン吸飲の勢いで,見知らぬ青年を超人的なヴァイオレンスで殴る蹴るを繰り返し,一生残る障害のある体にしてしまいます。この結果ロビーは監獄刑を喰らうことになりますが,軽減されて強制労働奉仕刑になります。その間にロビーは恋人レオニーが妊娠し,父親として真っ当な人間に更正することを自ら誓うのですが,不良時代の古縁の諍いの盛り返しや,ロビーを忌み嫌いレオニーから引き離そうとするレオニーの父親の妨害が絶えず,ロビーは再び「暴力」の側の人間に戻ってしまいそうになります。
レオニーとロビーの子は無事誕生し,レオニーは新しい生活を求めますが,ロビーには職も住処もありません。レオニーの父親はロビーに金をやるから,この町から消え去りロンドンへ行け,という取引さえ提案します。この親に禁止された愛は「ロメオとジュリエット」ですな。
金なし,職なし,暴力沙汰に巻き込まれる脅威に常に曝されながら,ロビーはこの町でどうやって「父親」として生きられるのか - という暗〜い幕開きです。暴力もいっぱい出てきます。おお,これはシリアスな社会ドラマだなや,と不安になります。そこに現れるのが「強制労働奉仕刑」の受刑仲間です。いずれも社会不適合者ばかり。盗癖のある女モー,理屈の通らない反抗者アルバート,がさつな乱暴者ライノ,そしてロビーが奇妙な4人組として結束してしまいます。
それに加えて,崖っぷちのロビーに最も厚い救いの手を差し伸べるのが,受刑者教官のハリー(ジョン・ヘンショー)です。ペンキ塗りやら墓地掃除やらの労働奉仕の監督の他に,この教官は受刑者たちの再就職のための職能啓発にいろんな企業見学もさせるのですが,その中にウィスキー蒸留会社がありました。実はハリーも大のモルト愛好者で,自らの楽しみもあったのですね。ここでロビーの秘められていた驚くべき才能が発掘されてしまいます。この青年はなんと天性のウィスキーテスターなのでした。その才覚を自覚したロビーは独習でウィスキー学を猛勉強します。そしてハリーが連れていくウィスキー試飲会では、プロも顔負けのテイスターぶりを発揮してしまいます。
その試飲会で知った値のつけようのない至宝中の至宝のモルトの存在。その国際オークションが、ハイランドにある醸造所で開かれるという。盗みの名人モーはその資料を盗み出し、4人の頭脳たるロビーはこの至宝モルトを盗み出す計画を立てます。4人はハイランドの「ウィスキーおたく」を装うために、キルトを腰に巻き(これが最高に可笑しい)、ヒッチハイクで醸造所に乗り込んで行きます。(古式に則って,キルトの下には何もつけないもんだから,アルバートはひどいマタズレ状態になってしまうのですが,婦女子の皆さんにはこの苦しみわかるまいに)。
ここが社会派ケン・ローチの腕の見せ所です。スコットランドの明日のないどん底の前科者たち4人の前に見えてくるのは、金に糸目をつけない世界中のウィスキー・コレクターたちです。貧しい者はますます貧しくなり、金持ちはますます金持ちになっていく、21世紀的二極化世界です。このハッピー・フューたちは,アメリカや日本からやってきて,または電話やインターネット入札という手段で,この世にも稀な至宝モルトの樽を競り落とそうとしまう。激しい競り合いで桁はついに百万ポンドを越してしまいます。この熱い競り合いのエキサイトした場の空気のおかげで,ロビーが倉の中に忍び込んだことなど,誰も気にも止めないのです。
ロビーと仲間はその夜,ボトル4本分の至宝モルトを盗み出すことに成功するのですが...。
アルコール醸造の世界で言われる「天使の取り分」とは,樽の中で熟成していく年月のうちに蒸発してしまうアルコール分のことで,熟成開始の量から蒸発して減ってしまった分は,天使たちが頂戴しているのだ,という詩的に美しい表現です。この映画は値のつけようもないほどの超高価で超レアな液体を盗む,という行為を犯罪と断定してこの若者たちを地獄に戻すことはしません。むしろ,自然に蒸発して消えるべき「天使の取り分」を,偶然分ち合うことができた若者たちだ,というバッカスの神のお情けに包まれた恩寵の映画です。
ここからロビーは醸造会社のテイスターという定職につき,パパとして新しい人生を歩み出し,ほかの3人もやや多めの金(全然ン百万という単位の額ではなくその百分の一)を手にしたおかげでそれぞれ前に進み出せるのです。こういう過酷で殺伐とした21世紀的貧困の中で,彼らは一生の友と,前に進む機会を得たのです。その仲介となったのが.... アルコールです。ハイランド・モルトの豊穣なる恵みです。アルコールは健康を害するですと? - そういう了見の人はこの映画観て,考えを改めてください。
(↓『天使の取り分』予告編)
2012年6月24日日曜日
愛人と妻と祖母の葬式
『さらばベルト - あるいは祖母の葬式』
"Adieu Berthe - L'enterrement de Mémé"
2012年フランス映画
監督:ブルーノ・ポダリデス
脚本:ブルーノ&ドニ・ポダリデス
主演:ドニ・ポダリデス、ヴァレリー・ルメルシエ、イザベル・カンドリエ、ブルーノ・ポダリデス
2012年カンヌ映画祭・監督週間出品作
フランス公開:2012年6月20日
最初の飛行機が兄弟(ライト兄弟)だったように、最初の映画は兄弟(リュミエール兄弟)でした。以来映画はワーナー兄弟、マルクス兄弟、タヴィアニ兄弟、コーエン兄弟、ダルデンヌ兄弟など、さまざまな兄弟の活躍に支えられてきましたが、フランスは1992年の短編映画『ヴェルサイユ左岸』以来、このポダリデス兄弟(ブルーノ&ドニ)がその兄弟伝統を継承しています。
このポダリデスという地中海系の名前を持つ家は、ヴェルサイユという裕福な町で薬局を経営していました。父はその薬剤師。母は薬局とは関係がなく英語教師。しかし母方の祖母というのはヴェルサイユ屈指の老舗書店の経営者で、土地の名士でした、この映画はそういう自伝的要素がいっぱい出てきます。
アルマン(演ドニ・ポダリデス)は薬剤師で薬局経営者で、同じ薬剤師の妻エレーヌ(演イザベル・カンドリエ)とリセ生の息子ヴァンサンと(ヴェルサイユと特定できませんが)イル・ド・フランスの瀟酒な町に住んでいます。その薬局の階上にエレーヌの母シュザンヌ(カトリーヌ・イエジェル)が住んでいて、これが金持ちの上に婿いびりが好きという、どうしようもない姑様です。つまり上に書いたようなポダリデス家の背景と似せているわけですね。
映画は唐突にアルマンの愛人アリックス(演ヴァレリー・ルメルシエ)の家で、アルマンの趣味のマジックショー芸の練習をしているところから始まります。顔に立方体の箱をかぶり、箱には四方八方から剣が突き刺さっています。アルマンの携帯電話にメールが着信されます。アリックスがメッセージ読んであげるから、解除コード教えて、と言うのですが、アルマンはいやそれは極私的なものだから、と教えず、たくさん剣の突き刺さった箱の中に携帯電話を入れさせます。そこでアルマンは祖母ベルトが亡くなったことを知るのです。
アリックスは前の恋人(アブデルという名前。電話の相手としてのみの出演)との間にひとり娘ジュリーを設けていて、ジュリーは今やアルマンによくなついていて、アルマンのマジック趣味まで伝染して、手品を披露するのが好き。アルマンの電動キックスクーターに同乗させて ジュリーのスポーツクラブへの送り迎えも彼がしているのです。
電動キックスクーターで行き来できる距離で、アルマンは妻(家庭&職場)と愛人宅を往復する二重生活を送っているわけです。日本式にたとえると、薬局のオヤジが仕事中にもかかわらず「ちょっとパチンコ行ってくるわ」と抜け出す身軽さですね。この二重生活は、当然のことながら平衡が続くわけがなく、愛人の方がクレッシェンドし、妻の方がデクレッシェンドしていくのです。それを象徴するのが、仕事中だろうが、妻との対話中だろうが、真夜中だろうが、だれかれはばかることなく着信されてしまう愛人からの携帯メールメッセージなのです。映画では大スクリーンにそのままメールメッセージが映し出され、その度に場内で笑い声が起こります。2012年的今日、人目をしのぶ恋人たちは、声をひそめて電話することなどせず、大胆に携帯メール交信で生活のどんな場面にあっても愛を確認できるようになったのです。恐ろしいことです。
妻エレーヌは愛人アリックスと一面識もありません。しかしアルマンとの破局が近いことを知っています。アルマンは別離がゆるやかでゆっくりであることを願っています。「少しずつ始めていこう」とアルマンはエレーヌに提案します。「例えば、明日から一緒に朝食を取らない、とか」。笑っちゃいますよね。
一方愛人アリックスは情熱の女で、どんどん領土拡張していきます。娘ジュリーの誕生パーティーに「アルマンのマジック・ショータイム 」という娘の手描きの招待状が、子供たちに配られ、もうアルマンは家族の一員という疑似「公式発表」したくてたまらないわけです。情熱の女は燃えやすく激しやすく(だから愛人でしょう)、度が過ぎるととんでもなく野卑な表現(例えばちんちんの大きさのことで男を罵倒したりすることです)がどんどん出てきます。これはヴァレリー・ルメルシエの真骨頂ですね。
さて、このジュリーの誕生パーティーに割って入ってきたのが、祖母の死です。アルマンの記憶にほとんど残っていない祖母を思い出すひまもなく、葬式の日取りの問題が発生します。ジュリーの誕生パーティーとぶつかってはいけない、という思いがアルマンにはありますが、ま、映画ですから、その日になってしまうんですね。それはエレーヌの母シュザンヌの強引な横やりであり、自分の娘婿の祖母にふさわしい豪奢な葬式にしたい、というので既にハイテクでポスト・モダンな葬儀屋と段取りを組んであったのです。このニューエイジな葬儀屋のプレゼンのシーンがまた傑作なのですが、 葬儀屋シャルルを演ずるのがポダリデス兄弟映画には欠かせない異色男優ミッシェル・ヴュイエルモズで、後半では妻エレーヌに横恋慕する男というポジションを獲得します。
この葬式の日を何とかずらさなければならない。義母シュザンヌの言いなりにさせてはならない。死んだのは俺のメメなんだから、俺が決めるんだ。
というところで、墓地で偶然、町の零細(二人だけで稼働している)葬儀屋のイヴォン(演ブルーノ・ポダリデス)と出会い、シュザンヌの決めた葬式日の前日にできると知り、即決。ベルトが死んだノルマンディーの養老院の遺体安置所に、イヴォンが遺体を取りに行くのに便乗して、アルマンとアリックスはベルトの養老院に遺品を回収に行きます。この霊柩車(イヴォンの葬儀屋にはこれ一台しか車がない)でのドライヴが、映画のポスターとなっているシーンです。
映画ですから、ここでまた事故が起こります。日帰りのつもりで出かけた一行は、遺体安置所を出た霊柩車バンが故障エンコしたため、アルマンとアリックスは養老院のベルトが使っていた部屋で一夜を明かすことになります。そこで二人は遺品の中から、若きベルトが書いていた手紙の束を見つけます。そこにはベルトが妻子ある興行マジッシャンと道ならぬ恋に落ちていたことがしたためられてあり、ただならぬ手品師への恋慕とベルトの苦悩が赤裸々に表現されています。アルマンはその夜、夢の中で若きベルトと再会し、自分は網タイツ姿のアリックスとエレーヌをアシスタントにして大マジックショーを披露するマジッシャンになって登場します...。
翌日、シュザンヌが手配したハイテク葬儀屋が遺体を回収に行ったら、遺体はすでになく(イヴォン葬儀屋が取ってしまった)、烈火のごとく怒ったシュザンヌは遺体とアルマンの居場所をつきとめ、葬儀屋シャルルと共にベルトの養老院に乗り付け、遺体を回収したばかりでなく、アルマンとアリックスの浮気の事実をつきとめてしまいます....。
この世代は40歳から50歳までの、今だったら壊れてももう一回やり直せる、と思っている人たちです。日本でもそうなのか、フランスが顕著なのかは知りませんが、この人たちは簡単に離婚し、別離します。私は娘の幼なじみの両親たちで実感するのですが、40歳すぎたらみんな競争するかのように離婚してしまいます。ベルトの養老院の女性ディレクターが、アルマンとアリックスを迎えての食事の時に「今の夫婦は本当に長続きしない。それにひきかえあなたたちはこんなにも仲がよろしくて...」と祝福するのですが、アルマンは小さく「実はこの女性は妻ではない」と言ったのに、聞こえていない。そう、軽いことなのです。結婚する、離婚する、愛し合う、別離する、これが40歳代にはその価値の重さが減ってしまったかのように、第二のチャンスの優位性に惹かれていきます。子供がある程度大きくなって、おまえにはもう十分してやった、という親の勝手なリクツも通るように思っています。そして何よりも、右を見ても左を見ても全然珍しいことではない、ということが免罪符になってますよね。「40歳代で離婚、フツーじゃん」という風潮ですな。
この映画は逆に「未練」の方を浮き彫りにします。アルマンはエレーヌやヴァンサンのことを想い、アリックスはジュリーの誕生日に来れないというアブデル(ジュリーの父)の言葉に逆上し、その強い悲しみを押さえ切れません。そしてベルトの手紙が教えてくれるもの、それはその悲恋の爪痕がどういう経緯は知らず、手品/魔術に魅せられる孫のアルマンに伝わって、それはさらに伝染して、アリックスの娘のジュリーにまで至っている。アルマンはそのすべてを強烈に愛することで、何も捨てられなくなってしまうのです。
ラストシーンは(書いちゃいけないことでしょうが)、ベルトの骨灰を養老院の庭園の沼に播き、ジュリーの誕生日のマジック・ショーが始まります。 大型木箱トランクにアルマンを入れ、アリックスが南京錠を二つかけます。そして木箱トランクに乗ったアリックスが大きな布でトランクと自分の体を覆って呪文をかけます。気合いと共に布が落ちていき、(通常この芸ではトランクの上にアルマンが登場し、トランクの中にアリックスが入れ替わっている)、あらら、失敗、トランクの上にはアリックスが残っている。その時、アリックスの携帯電話にメールが着信されます:"Je reviens"(帰ってくるよ)。トランクを開けてみるとアルマンの姿はありません。そしてその時同時にエレーヌの携帯電話にメールが着信されます:"Je reviens"(帰ってくるよ)。
マジッシャンですから、逃げがうまい映画です。ポダリデス兄弟はマジッシャンですって。
(↓『さらばベルト』予告編)
"Adieu Berthe - L'enterrement de Mémé"
2012年フランス映画
監督:ブルーノ・ポダリデス
脚本:ブルーノ&ドニ・ポダリデス
主演:ドニ・ポダリデス、ヴァレリー・ルメルシエ、イザベル・カンドリエ、ブルーノ・ポダリデス
2012年カンヌ映画祭・監督週間出品作
フランス公開:2012年6月20日
最初の飛行機が兄弟(ライト兄弟)だったように、最初の映画は兄弟(リュミエール兄弟)でした。以来映画はワーナー兄弟、マルクス兄弟、タヴィアニ兄弟、コーエン兄弟、ダルデンヌ兄弟など、さまざまな兄弟の活躍に支えられてきましたが、フランスは1992年の短編映画『ヴェルサイユ左岸』以来、このポダリデス兄弟(ブルーノ&ドニ)がその兄弟伝統を継承しています。
このポダリデスという地中海系の名前を持つ家は、ヴェルサイユという裕福な町で薬局を経営していました。父はその薬剤師。母は薬局とは関係がなく英語教師。しかし母方の祖母というのはヴェルサイユ屈指の老舗書店の経営者で、土地の名士でした、この映画はそういう自伝的要素がいっぱい出てきます。
アルマン(演ドニ・ポダリデス)は薬剤師で薬局経営者で、同じ薬剤師の妻エレーヌ(演イザベル・カンドリエ)とリセ生の息子ヴァンサンと(ヴェルサイユと特定できませんが)イル・ド・フランスの瀟酒な町に住んでいます。その薬局の階上にエレーヌの母シュザンヌ(カトリーヌ・イエジェル)が住んでいて、これが金持ちの上に婿いびりが好きという、どうしようもない姑様です。つまり上に書いたようなポダリデス家の背景と似せているわけですね。
映画は唐突にアルマンの愛人アリックス(演ヴァレリー・ルメルシエ)の家で、アルマンの趣味のマジックショー芸の練習をしているところから始まります。顔に立方体の箱をかぶり、箱には四方八方から剣が突き刺さっています。アルマンの携帯電話にメールが着信されます。アリックスがメッセージ読んであげるから、解除コード教えて、と言うのですが、アルマンはいやそれは極私的なものだから、と教えず、たくさん剣の突き刺さった箱の中に携帯電話を入れさせます。そこでアルマンは祖母ベルトが亡くなったことを知るのです。
アリックスは前の恋人(アブデルという名前。電話の相手としてのみの出演)との間にひとり娘ジュリーを設けていて、ジュリーは今やアルマンによくなついていて、アルマンのマジック趣味まで伝染して、手品を披露するのが好き。アルマンの電動キックスクーターに同乗させて ジュリーのスポーツクラブへの送り迎えも彼がしているのです。
電動キックスクーターで行き来できる距離で、アルマンは妻(家庭&職場)と愛人宅を往復する二重生活を送っているわけです。日本式にたとえると、薬局のオヤジが仕事中にもかかわらず「ちょっとパチンコ行ってくるわ」と抜け出す身軽さですね。この二重生活は、当然のことながら平衡が続くわけがなく、愛人の方がクレッシェンドし、妻の方がデクレッシェンドしていくのです。それを象徴するのが、仕事中だろうが、妻との対話中だろうが、真夜中だろうが、だれかれはばかることなく着信されてしまう愛人からの携帯メールメッセージなのです。映画では大スクリーンにそのままメールメッセージが映し出され、その度に場内で笑い声が起こります。2012年的今日、人目をしのぶ恋人たちは、声をひそめて電話することなどせず、大胆に携帯メール交信で生活のどんな場面にあっても愛を確認できるようになったのです。恐ろしいことです。
妻エレーヌは愛人アリックスと一面識もありません。しかしアルマンとの破局が近いことを知っています。アルマンは別離がゆるやかでゆっくりであることを願っています。「少しずつ始めていこう」とアルマンはエレーヌに提案します。「例えば、明日から一緒に朝食を取らない、とか」。笑っちゃいますよね。
一方愛人アリックスは情熱の女で、どんどん領土拡張していきます。娘ジュリーの誕生パーティーに「アルマンのマジック・ショータイム 」という娘の手描きの招待状が、子供たちに配られ、もうアルマンは家族の一員という疑似「公式発表」したくてたまらないわけです。情熱の女は燃えやすく激しやすく(だから愛人でしょう)、度が過ぎるととんでもなく野卑な表現(例えばちんちんの大きさのことで男を罵倒したりすることです)がどんどん出てきます。これはヴァレリー・ルメルシエの真骨頂ですね。
さて、このジュリーの誕生パーティーに割って入ってきたのが、祖母の死です。アルマンの記憶にほとんど残っていない祖母を思い出すひまもなく、葬式の日取りの問題が発生します。ジュリーの誕生パーティーとぶつかってはいけない、という思いがアルマンにはありますが、ま、映画ですから、その日になってしまうんですね。それはエレーヌの母シュザンヌの強引な横やりであり、自分の娘婿の祖母にふさわしい豪奢な葬式にしたい、というので既にハイテクでポスト・モダンな葬儀屋と段取りを組んであったのです。このニューエイジな葬儀屋のプレゼンのシーンがまた傑作なのですが、 葬儀屋シャルルを演ずるのがポダリデス兄弟映画には欠かせない異色男優ミッシェル・ヴュイエルモズで、後半では妻エレーヌに横恋慕する男というポジションを獲得します。
この葬式の日を何とかずらさなければならない。義母シュザンヌの言いなりにさせてはならない。死んだのは俺のメメなんだから、俺が決めるんだ。
というところで、墓地で偶然、町の零細(二人だけで稼働している)葬儀屋のイヴォン(演ブルーノ・ポダリデス)と出会い、シュザンヌの決めた葬式日の前日にできると知り、即決。ベルトが死んだノルマンディーの養老院の遺体安置所に、イヴォンが遺体を取りに行くのに便乗して、アルマンとアリックスはベルトの養老院に遺品を回収に行きます。この霊柩車(イヴォンの葬儀屋にはこれ一台しか車がない)でのドライヴが、映画のポスターとなっているシーンです。
映画ですから、ここでまた事故が起こります。日帰りのつもりで出かけた一行は、遺体安置所を出た霊柩車バンが故障エンコしたため、アルマンとアリックスは養老院のベルトが使っていた部屋で一夜を明かすことになります。そこで二人は遺品の中から、若きベルトが書いていた手紙の束を見つけます。そこにはベルトが妻子ある興行マジッシャンと道ならぬ恋に落ちていたことがしたためられてあり、ただならぬ手品師への恋慕とベルトの苦悩が赤裸々に表現されています。アルマンはその夜、夢の中で若きベルトと再会し、自分は網タイツ姿のアリックスとエレーヌをアシスタントにして大マジックショーを披露するマジッシャンになって登場します...。
翌日、シュザンヌが手配したハイテク葬儀屋が遺体を回収に行ったら、遺体はすでになく(イヴォン葬儀屋が取ってしまった)、烈火のごとく怒ったシュザンヌは遺体とアルマンの居場所をつきとめ、葬儀屋シャルルと共にベルトの養老院に乗り付け、遺体を回収したばかりでなく、アルマンとアリックスの浮気の事実をつきとめてしまいます....。
この世代は40歳から50歳までの、今だったら壊れてももう一回やり直せる、と思っている人たちです。日本でもそうなのか、フランスが顕著なのかは知りませんが、この人たちは簡単に離婚し、別離します。私は娘の幼なじみの両親たちで実感するのですが、40歳すぎたらみんな競争するかのように離婚してしまいます。ベルトの養老院の女性ディレクターが、アルマンとアリックスを迎えての食事の時に「今の夫婦は本当に長続きしない。それにひきかえあなたたちはこんなにも仲がよろしくて...」と祝福するのですが、アルマンは小さく「実はこの女性は妻ではない」と言ったのに、聞こえていない。そう、軽いことなのです。結婚する、離婚する、愛し合う、別離する、これが40歳代にはその価値の重さが減ってしまったかのように、第二のチャンスの優位性に惹かれていきます。子供がある程度大きくなって、おまえにはもう十分してやった、という親の勝手なリクツも通るように思っています。そして何よりも、右を見ても左を見ても全然珍しいことではない、ということが免罪符になってますよね。「40歳代で離婚、フツーじゃん」という風潮ですな。
この映画は逆に「未練」の方を浮き彫りにします。アルマンはエレーヌやヴァンサンのことを想い、アリックスはジュリーの誕生日に来れないというアブデル(ジュリーの父)の言葉に逆上し、その強い悲しみを押さえ切れません。そしてベルトの手紙が教えてくれるもの、それはその悲恋の爪痕がどういう経緯は知らず、手品/魔術に魅せられる孫のアルマンに伝わって、それはさらに伝染して、アリックスの娘のジュリーにまで至っている。アルマンはそのすべてを強烈に愛することで、何も捨てられなくなってしまうのです。
ラストシーンは(書いちゃいけないことでしょうが)、ベルトの骨灰を養老院の庭園の沼に播き、ジュリーの誕生日のマジック・ショーが始まります。 大型木箱トランクにアルマンを入れ、アリックスが南京錠を二つかけます。そして木箱トランクに乗ったアリックスが大きな布でトランクと自分の体を覆って呪文をかけます。気合いと共に布が落ちていき、(通常この芸ではトランクの上にアルマンが登場し、トランクの中にアリックスが入れ替わっている)、あらら、失敗、トランクの上にはアリックスが残っている。その時、アリックスの携帯電話にメールが着信されます:"Je reviens"(帰ってくるよ)。トランクを開けてみるとアルマンの姿はありません。そしてその時同時にエレーヌの携帯電話にメールが着信されます:"Je reviens"(帰ってくるよ)。
マジッシャンですから、逃げがうまい映画です。ポダリデス兄弟はマジッシャンですって。
(↓『さらばベルト』予告編)
2012年6月20日水曜日
「ノー・フューチャー」と共に老いる
『大いなる夕べ』2012年フランス映画
"Le Grand Soir" ブノワ・ドレピーヌ+ギュスターヴ・ケルヴェルン監督
主演:アルベール・デュポンテル、ブノワ・プールヴォールド、アレスキー・ベルカセム、ブリジット・フォンテーヌ
2012年カンヌ映画祭「ある視点」出品作
フランス公開:2012年6月6日
いろいろと無理のある映画です。それはズバリ、この2012年的現在において、パンク的反抗は可能か、という無理でもあります。また、結論的に言うと、「パンクは可能か」ということ自体が愚問で、パンクは自己デストロイであり、可能をノー・フューチャーに自壊するものだから、という最初からの言い訳があります。
この時代、誰もが "C'est la crise"(経済危機の時代だから)という、どんな事象にも通用する言い訳があります。生活が苦しいこと、貧乏人がさらに貧乏になっていくこと、職を失うこと、夫婦関係や家族関係が破壊されること.... これらをすべて "C'est la crise"という口実・免罪符で説明してしまえるのです。サルコジは2012年の大統領選挙運動の時に、「われわれを襲っている前代未聞の経済危機」がサルコジ失政のすべての原因であり、サルコジは「前代未聞の経済危機」をうまく舵取りできたから失業率がこの程度で収まったのだぞ、という自画自賛に論理をすり替える戦法を取りました。そして負けました。
この映画自体は他愛もない中年パンクの悲しい反抗の話です。地方都市郊外の高速道路インターチェンジに近い、ノーマンズランドに建設されたような大面積のショッピング街が舞台です。フランスではこういう無味乾燥で非人間的なショッピング街がいたるところにあり、そこにはどこでも判で押したようにカルフール(ハイパー)、ショーセリア(ディスカウント靴屋)、ルロワ・メルラン(ブリコラージュ、日曜大工、DIY)、グラン・レクレ(大規模玩具店)といった店が並んでいるのです。
その中でジャガイモ料理をスペシャリティーとする「パタットリー(pataterie)」というファミレスを経営するのが、ボンジニ夫妻です。夫ルネ・ボンジニ(演アレスキー・ベルカセム)、妻マリー=アニック・ボンジニ(演ブリジット・フォンテーヌ)。フォンテーヌ/アレスキーの夫婦に、こういう映画での演技をさせること自体がめちゃくちゃに無理のあることなのです。当然この二人は演技から外れた「地」がおおいにはみ出してきて、映画のリズムをおおいに壊しているのはしかたのないことです。その上、二人の子供に対して、「あんたたちはわたしたちの子供ではないんだよ」なんて(通常の映画では核心的な問題となりましょうが、この映画ではまったく「どうでもいい」問題)言わせるんですが、映画の流れ上、何の意味もないのです。この両親はほとんど何の意味もなくこの映画に登場するのですが、その存在感だけで、はいとても良くできました、と監督さんは及第点を上げて、どうぞお引き取りください、と出口までお送りするしかないのです。
その息子の長男の方のブノワ(演ブノワ・プールヴォールド。自分のことを"NOT"ノットと呼ばせている。額に"NOT"のクギ字入れ墨)は、一生に一度も働いたことのない、マルコム・マクラーレン言うところの「パーマネント・ノン・ワーキング・クラス」(70年代イギリスのパンク・ムーブメントを支えた郊外型若年失業者層)のパンク中年です。もう70年代から時間が止まってしまったかのような、モヒカンヘアとビールとドックマルテンス・ブーツの路上生活者です。
それに対して次男のジャン=ピエール(演アルベール・デュポンテル)は、一応定職もあり、妻も子供もいるフツー人という設定で登場しますが、その激しやすくキレやすい性格は兄以上であることが映画序盤で露呈してしまいます。寝具販売店チェーンに勤め、かの郊外ショッピング街の店で寝具セールスマンとして働くジャン=ピエールは、店から強いられた販売目標に大きく及ばず、その強度のプレッシャーに勝てずに逆ギレしてしまい、解雇されます。アルコールが入ると抑制が全く取れなくなるタイプ。
その解雇の不当性を訴えるために、ジャン=ピエールはかのチュニジア「ジャスミン革命」の発端となった青年と同じように、ショッピング街の最も目立つところ(ここでそれはカルフールのレジの前)でガソリンをかぶって焼身自殺を図ります。"Justice ! (正義を!)"と叫んで、衣服に火をつけたところまではいいのですが、すぐにスプリンクラーが作動して、天井シャワーによって鎮火。焼身自殺は衆人の注目を集めることなく、単なる迷惑行為としてガードマンからつまみ出されます。
この傷ついた魂を、兄のブノワ"NOT"はパンクに変身させることで救済するのです。頭髪にカミソリを入れてモヒカンにし、額には"DEAD"の クギ字入れ墨を。すなわち兄弟あわせて "NOT DEAD"。パンクス・ノット・デッド。映画はこのように、誰もが思い浮かべるようなステロタイプ化されたパンク像をこの二人に体現させます。兄は弟にパンクの心得を伝授し、人に物乞いをする方法を教えます。
そして夜にはディディエ・ヴァンパス(もちろん本人です)のコンサートでポゴダンスで炸裂し、ステージの上からダイブする兄弟になるのです。因みにディディエ・ヴァンパスは実生活ではパリ地下鉄公団(RATP)の電気作業員でしたが、この4月に50歳で退職しています。この映画で若いパンクスなどひとりも登場しません。すべて中高年です。中高年パンクは筋金入りだ、 と思われましょうが、2012年的現状の中でこの人たちはほとんど化石と化しているのです。いや、化していない、という標語が "NOT DEAD"です。
魂を解放されたジャン=ピエールは世の「システム」、「モラル」、「強いられた沈黙」などに徹底した反抗を開始します。造反有理。反抗することには意味がある。ナイーヴに頭脳を増幅させたジャン=ピエールは40年前の若パンクスと同じように「パンク革命」を夢想してしまいます。そして、イエス・キリストのように聖なる言葉を得たと自覚したジャン=ピエールは、その言葉で民衆を導くべく、ルロワ・メルランの大駐車場で演説集会を催すのです。名付けて「ル・グラン・ソワール」(偉大なる夕べ)....
すべてにおいて無理のある映画ですから、 その無理は通りません。監督したブノワ・ドレピーヌとギュスターヴ・ケルヴェルンは、民放TVカナル・プリュスの共和国風刺番組「グロランド」(フランスに似た共和国グロランドでの出来事の週間ニュース・スケッチ集)の出身で、低予算のパロディー・スケッチ・コントには卓抜な手腕をふるえるコンビです。この映画でもそのテレビでのテクニックのような、シチュエーション・ギャグが随所に登場しますが、当たりハズレあり。ちょい役で、ヨランド・モロー、ジェラール・ドパルデュー、バルベ・シュローダー、ドニ・バルト(ノワール・デジールのドラマー。バーマン役。ばっちりはまっていた)なども出演。音楽はディディエ・ヴァンパス(ライヴ!)、ノワール・デジール、ブリジット・フォンテーヌなどの曲が聞こえます。そしてショッピング街の荒涼殺伐とした風景に流れる「荒野のハーモニカ」は、アラン・バシュング。
だから、どうなんだ、という映画ではありまっせん。私は何も言いません。
(↓『大いなる夕べ』予告編)
"Le Grand Soir" ブノワ・ドレピーヌ+ギュスターヴ・ケルヴェルン監督
主演:アルベール・デュポンテル、ブノワ・プールヴォールド、アレスキー・ベルカセム、ブリジット・フォンテーヌ
2012年カンヌ映画祭「ある視点」出品作
フランス公開:2012年6月6日
いろいろと無理のある映画です。それはズバリ、この2012年的現在において、パンク的反抗は可能か、という無理でもあります。また、結論的に言うと、「パンクは可能か」ということ自体が愚問で、パンクは自己デストロイであり、可能をノー・フューチャーに自壊するものだから、という最初からの言い訳があります。
この時代、誰もが "C'est la crise"(経済危機の時代だから)という、どんな事象にも通用する言い訳があります。生活が苦しいこと、貧乏人がさらに貧乏になっていくこと、職を失うこと、夫婦関係や家族関係が破壊されること.... これらをすべて "C'est la crise"という口実・免罪符で説明してしまえるのです。サルコジは2012年の大統領選挙運動の時に、「われわれを襲っている前代未聞の経済危機」がサルコジ失政のすべての原因であり、サルコジは「前代未聞の経済危機」をうまく舵取りできたから失業率がこの程度で収まったのだぞ、という自画自賛に論理をすり替える戦法を取りました。そして負けました。
この映画自体は他愛もない中年パンクの悲しい反抗の話です。地方都市郊外の高速道路インターチェンジに近い、ノーマンズランドに建設されたような大面積のショッピング街が舞台です。フランスではこういう無味乾燥で非人間的なショッピング街がいたるところにあり、そこにはどこでも判で押したようにカルフール(ハイパー)、ショーセリア(ディスカウント靴屋)、ルロワ・メルラン(ブリコラージュ、日曜大工、DIY)、グラン・レクレ(大規模玩具店)といった店が並んでいるのです。
その中でジャガイモ料理をスペシャリティーとする「パタットリー(pataterie)」というファミレスを経営するのが、ボンジニ夫妻です。夫ルネ・ボンジニ(演アレスキー・ベルカセム)、妻マリー=アニック・ボンジニ(演ブリジット・フォンテーヌ)。フォンテーヌ/アレスキーの夫婦に、こういう映画での演技をさせること自体がめちゃくちゃに無理のあることなのです。当然この二人は演技から外れた「地」がおおいにはみ出してきて、映画のリズムをおおいに壊しているのはしかたのないことです。その上、二人の子供に対して、「あんたたちはわたしたちの子供ではないんだよ」なんて(通常の映画では核心的な問題となりましょうが、この映画ではまったく「どうでもいい」問題)言わせるんですが、映画の流れ上、何の意味もないのです。この両親はほとんど何の意味もなくこの映画に登場するのですが、その存在感だけで、はいとても良くできました、と監督さんは及第点を上げて、どうぞお引き取りください、と出口までお送りするしかないのです。
その息子の長男の方のブノワ(演ブノワ・プールヴォールド。自分のことを"NOT"ノットと呼ばせている。額に"NOT"のクギ字入れ墨)は、一生に一度も働いたことのない、マルコム・マクラーレン言うところの「パーマネント・ノン・ワーキング・クラス」(70年代イギリスのパンク・ムーブメントを支えた郊外型若年失業者層)のパンク中年です。もう70年代から時間が止まってしまったかのような、モヒカンヘアとビールとドックマルテンス・ブーツの路上生活者です。
それに対して次男のジャン=ピエール(演アルベール・デュポンテル)は、一応定職もあり、妻も子供もいるフツー人という設定で登場しますが、その激しやすくキレやすい性格は兄以上であることが映画序盤で露呈してしまいます。寝具販売店チェーンに勤め、かの郊外ショッピング街の店で寝具セールスマンとして働くジャン=ピエールは、店から強いられた販売目標に大きく及ばず、その強度のプレッシャーに勝てずに逆ギレしてしまい、解雇されます。アルコールが入ると抑制が全く取れなくなるタイプ。
その解雇の不当性を訴えるために、ジャン=ピエールはかのチュニジア「ジャスミン革命」の発端となった青年と同じように、ショッピング街の最も目立つところ(ここでそれはカルフールのレジの前)でガソリンをかぶって焼身自殺を図ります。"Justice ! (正義を!)"と叫んで、衣服に火をつけたところまではいいのですが、すぐにスプリンクラーが作動して、天井シャワーによって鎮火。焼身自殺は衆人の注目を集めることなく、単なる迷惑行為としてガードマンからつまみ出されます。
この傷ついた魂を、兄のブノワ"NOT"はパンクに変身させることで救済するのです。頭髪にカミソリを入れてモヒカンにし、額には"DEAD"の クギ字入れ墨を。すなわち兄弟あわせて "NOT DEAD"。パンクス・ノット・デッド。映画はこのように、誰もが思い浮かべるようなステロタイプ化されたパンク像をこの二人に体現させます。兄は弟にパンクの心得を伝授し、人に物乞いをする方法を教えます。
そして夜にはディディエ・ヴァンパス(もちろん本人です)のコンサートでポゴダンスで炸裂し、ステージの上からダイブする兄弟になるのです。因みにディディエ・ヴァンパスは実生活ではパリ地下鉄公団(RATP)の電気作業員でしたが、この4月に50歳で退職しています。この映画で若いパンクスなどひとりも登場しません。すべて中高年です。中高年パンクは筋金入りだ、 と思われましょうが、2012年的現状の中でこの人たちはほとんど化石と化しているのです。いや、化していない、という標語が "NOT DEAD"です。
魂を解放されたジャン=ピエールは世の「システム」、「モラル」、「強いられた沈黙」などに徹底した反抗を開始します。造反有理。反抗することには意味がある。ナイーヴに頭脳を増幅させたジャン=ピエールは40年前の若パンクスと同じように「パンク革命」を夢想してしまいます。そして、イエス・キリストのように聖なる言葉を得たと自覚したジャン=ピエールは、その言葉で民衆を導くべく、ルロワ・メルランの大駐車場で演説集会を催すのです。名付けて「ル・グラン・ソワール」(偉大なる夕べ)....
すべてにおいて無理のある映画ですから、 その無理は通りません。監督したブノワ・ドレピーヌとギュスターヴ・ケルヴェルンは、民放TVカナル・プリュスの共和国風刺番組「グロランド」(フランスに似た共和国グロランドでの出来事の週間ニュース・スケッチ集)の出身で、低予算のパロディー・スケッチ・コントには卓抜な手腕をふるえるコンビです。この映画でもそのテレビでのテクニックのような、シチュエーション・ギャグが随所に登場しますが、当たりハズレあり。ちょい役で、ヨランド・モロー、ジェラール・ドパルデュー、バルベ・シュローダー、ドニ・バルト(ノワール・デジールのドラマー。バーマン役。ばっちりはまっていた)なども出演。音楽はディディエ・ヴァンパス(ライヴ!)、ノワール・デジール、ブリジット・フォンテーヌなどの曲が聞こえます。そしてショッピング街の荒涼殺伐とした風景に流れる「荒野のハーモニカ」は、アラン・バシュング。
だから、どうなんだ、という映画ではありまっせん。私は何も言いません。
(↓『大いなる夕べ』予告編)
2012年6月19日火曜日
マリールーはいつつのカタカナ
『われらの世界へようこそ』
"Bienvenue Parmi Nous"
2012年フランス映画
監督:ジャン・ベッケル
主演:パトリック・シェネ、ジャンヌ・ランベール、ミウミウ
フランス公開:2012年6月
最初に言っときます。プレスから酷評されてます。それがまた、そそるところではあるのですが。とにかくこのシナリオの単純さと甘っちょろさは、シネフィルならずとも一目瞭然のものではありますが、それを超えたなにかがあって、私の琴線をおおいに震わすものがあります。
少女の名前はマリールー。自己紹介はこうです「わたしの名前はマリールー、あの歌と一緒よ」。うっそだぁぁ。これ、まずい、と思ってしまった時には既に遅く、この映画の随所で、ミッシェル・ポルナレフの『グッバイ、マリールー』の流麗な旋律が流れるのです。この映画はポルナレフ『マリールー』が、いかに完成度の高い名楽曲であるかを思い知らされる作品です。夕日に似合う,浜辺に似合う,老人の物思いに似合う,そして別れの場面に似合う(なにしろ「グッバイ」と歌ってるのだから),そういう映像にどんぴしゃにシンクロする曲なのです。逆に言うと,この映画は壮大なる(この曲の)ヴィデオ・クリップのようでもあります。この辺がね,映画批評家の攻撃のタネになりますわね。
タイヤンディエ(演パトリック・シェネ)は60歳を過ぎた老画家で,妻アリス(ミウミウ)とイル・ド・フランスの風光明媚な田舎に住んでいます。コローが描いたようなグリーンな環境にある田舎家です。子供たちと孫たちが時々やってきますが,老画家は不機嫌で,何を見ても不愉快で,その厭世観はただものではありません。画家として名声を得たにも関わらず,もう10年も絵筆を持つことができない状態です。インスピレーションの枯渇。何もかも投げ出したい。生きている意味などない。絵に描いたような鬱老人です。
ここが私は弱いと思いました。全然芸術家の鬱に見えない。普通人のストレスとさほど変わりないパトリック・シェネの苦悩の演技。唐突に老画家は銃砲店に入り,猟銃を購入して,自殺を準備します。愛する妻に手紙を残して,自殺行に旅立ちます。ところが死にきれません。
車での雨の夜の彷徨いの果てに,助手席のドアを開けて「乗せてってちょうだい」と闖入する少女あり。「家を追い出されちゃったの。町まで連れていって」。俺と何の関係があるのか。老画家はそれどころではない、俺は死にたいのだ、という神経衰弱の頂点(そうは見えない)で、強引な少女に押し切られて、車の同乗を許すのです。
少女マリールー(演ジャンヌ・ランベール。新人。初出演)のバックボーンは郊外集合社会住宅(シテ)で、母親と二人暮らしだったのが、母親に暴力的な愛人が出現して二人の巣に入り込み、邪魔になった娘を追い出したのでした。暴力に弱い母親。しかもこの娘(15歳。溢れ出る青い色気)が、愛人を誘惑してしまうのではないかと疑う、 嫉妬深くも母親とは思えないような母親。この辺りの描写、とっても弱くて、単純化しすぎてますね。なぜなら、最後は母親と娘の愛情の復活という大団円があるわけですから、母親のこともっと掘り下げるべきでしょうが、どうなんでしょうか。
この「溢れ出る青い色気」というところは、ひとつのリファレンスがあります。それはジャン・ベッケル自身の映画『殺意の夏』(1983年)のイザベル・アジャーニなのです。少女は蓮っ葉な装いと厚めの化粧が好きで、野卑な言葉を使い、無作法で激情的です。どこにでもあるような怖いもの知らずの不良郊外少女でしょうが、その野性的なところはアジャーニのクローンのようです。おまけにこの映画では『殺意の夏』が深夜テレビで放映され、母親の愛に飢えたマリールーが、映画の中のアジャーニに自己投影して、さめざめと泣くというシーンがあるのです。
家に帰れない老画家と、家に帰れない少女。この共通項が二人を遠出させるのです。長い時間車を走らせ、着いたところは特定されていません。私は映画誌の資料で、そこがフランス西海岸、ポワトゥー・シャラント地方であることを知ります。未成年誘拐罪が立件してしまうこの逃避行をカムフラージュするために、タイヤンディエはマリールーを娘と称して、海辺の週貸し一戸建て別荘に住み込みます。同じく映画誌の資料で、私はそこがレ島(イル・ド・レ)であることを知ります。レ島、ラ・ロッシェル、ロッシュフォール、内陸湿地帯のマレ・ポワトヴァン... それはそれは美しいポワトゥー・シャラント地方の風景で、そこにポルナレフ『グッバイ・マリールー』の流麗なストリングス間奏部が流れたりするもんだから、まるで...音入り絵はがきのようなもんです。
行儀の悪い少女、町で遊ぶのが好きな少女、扇情的な格好をする少女、タイヤンディエはこの少女との奇妙な共同生活で少しずつ変化していきます。そして 二人の共犯関係は、生を捨てかけていた老画家に、再び絵筆を持たせるという奇跡(そんな大げさな)を起こすのです。海水から上がってきた15歳の瑞々しい肉体が、レ島の砂浜に横たわった時、老画家はスケッチブックに多色フェルトペンで夢中になって描き始めるのです。「わお、おっちゃん、絵ぇうまいやんけ。これいっぱい描いて、日曜市で売ったらもうかるで。10枚やったら100ユーロはかたいんちゃう?」と事情を知らない少女は無邪気に言うのですが、著名老画家はその評価に反論して「いいや、200ユーロはいけるだろう」と言うのです。私、ここのダイアローグ、いいなあぁ、と感心しましたね。
タイヤンディエの絵をレ島の日曜市で売る、この卓抜なるアイディアを実行するべく、スケッチブックを買いに行ったキオスクで一緒に買った新聞で、老画家はマリールーの母親が愛人に殴打されて瀕死の重傷を負ったという記事を見つけます。(これもあり得ないでしょう。こんな三面記事以下のニュースを新聞紙面の半分使って、被害者の大きな顔写真が出るなんて。弱いシナリオだなあ....)
二人の共同生活はここで終止符を打ち、病院にかけつけ、マリールーは命をとりとめた母親と和解します。タイヤンディエはアリスの待つ家に戻り、マリールーを描く絵に取り組みます。母親の入院生活が終わり、マリールーを母親の住む郊外集合住宅(シテ)に送っていき、老画家と少女は別れます。それぞれの再出発。車を出発させ、バックミラーでマリールーの姿を見ながら..... われわれはここでミッシェル・ポルナレフ『グッバイ、マリールー』 をフルコーラス聞かされることになるのです! エンドマーク。
いったい、どうしたらいいんですか、こんな映画。
(↓ 『われらの世界へようこそ』予告編)
(↓ Youtube アマチュア投稿によるクリップ『グッバイ、マリールー』)
"Bienvenue Parmi Nous"
2012年フランス映画
監督:ジャン・ベッケル
主演:パトリック・シェネ、ジャンヌ・ランベール、ミウミウ
フランス公開:2012年6月
最初に言っときます。プレスから酷評されてます。それがまた、そそるところではあるのですが。とにかくこのシナリオの単純さと甘っちょろさは、シネフィルならずとも一目瞭然のものではありますが、それを超えたなにかがあって、私の琴線をおおいに震わすものがあります。
少女の名前はマリールー。自己紹介はこうです「わたしの名前はマリールー、あの歌と一緒よ」。うっそだぁぁ。これ、まずい、と思ってしまった時には既に遅く、この映画の随所で、ミッシェル・ポルナレフの『グッバイ、マリールー』の流麗な旋律が流れるのです。この映画はポルナレフ『マリールー』が、いかに完成度の高い名楽曲であるかを思い知らされる作品です。夕日に似合う,浜辺に似合う,老人の物思いに似合う,そして別れの場面に似合う(なにしろ「グッバイ」と歌ってるのだから),そういう映像にどんぴしゃにシンクロする曲なのです。逆に言うと,この映画は壮大なる(この曲の)ヴィデオ・クリップのようでもあります。この辺がね,映画批評家の攻撃のタネになりますわね。
タイヤンディエ(演パトリック・シェネ)は60歳を過ぎた老画家で,妻アリス(ミウミウ)とイル・ド・フランスの風光明媚な田舎に住んでいます。コローが描いたようなグリーンな環境にある田舎家です。子供たちと孫たちが時々やってきますが,老画家は不機嫌で,何を見ても不愉快で,その厭世観はただものではありません。画家として名声を得たにも関わらず,もう10年も絵筆を持つことができない状態です。インスピレーションの枯渇。何もかも投げ出したい。生きている意味などない。絵に描いたような鬱老人です。
ここが私は弱いと思いました。全然芸術家の鬱に見えない。普通人のストレスとさほど変わりないパトリック・シェネの苦悩の演技。唐突に老画家は銃砲店に入り,猟銃を購入して,自殺を準備します。愛する妻に手紙を残して,自殺行に旅立ちます。ところが死にきれません。
車での雨の夜の彷徨いの果てに,助手席のドアを開けて「乗せてってちょうだい」と闖入する少女あり。「家を追い出されちゃったの。町まで連れていって」。俺と何の関係があるのか。老画家はそれどころではない、俺は死にたいのだ、という神経衰弱の頂点(そうは見えない)で、強引な少女に押し切られて、車の同乗を許すのです。
少女マリールー(演ジャンヌ・ランベール。新人。初出演)のバックボーンは郊外集合社会住宅(シテ)で、母親と二人暮らしだったのが、母親に暴力的な愛人が出現して二人の巣に入り込み、邪魔になった娘を追い出したのでした。暴力に弱い母親。しかもこの娘(15歳。溢れ出る青い色気)が、愛人を誘惑してしまうのではないかと疑う、 嫉妬深くも母親とは思えないような母親。この辺りの描写、とっても弱くて、単純化しすぎてますね。なぜなら、最後は母親と娘の愛情の復活という大団円があるわけですから、母親のこともっと掘り下げるべきでしょうが、どうなんでしょうか。
この「溢れ出る青い色気」というところは、ひとつのリファレンスがあります。それはジャン・ベッケル自身の映画『殺意の夏』(1983年)のイザベル・アジャーニなのです。少女は蓮っ葉な装いと厚めの化粧が好きで、野卑な言葉を使い、無作法で激情的です。どこにでもあるような怖いもの知らずの不良郊外少女でしょうが、その野性的なところはアジャーニのクローンのようです。おまけにこの映画では『殺意の夏』が深夜テレビで放映され、母親の愛に飢えたマリールーが、映画の中のアジャーニに自己投影して、さめざめと泣くというシーンがあるのです。
家に帰れない老画家と、家に帰れない少女。この共通項が二人を遠出させるのです。長い時間車を走らせ、着いたところは特定されていません。私は映画誌の資料で、そこがフランス西海岸、ポワトゥー・シャラント地方であることを知ります。未成年誘拐罪が立件してしまうこの逃避行をカムフラージュするために、タイヤンディエはマリールーを娘と称して、海辺の週貸し一戸建て別荘に住み込みます。同じく映画誌の資料で、私はそこがレ島(イル・ド・レ)であることを知ります。レ島、ラ・ロッシェル、ロッシュフォール、内陸湿地帯のマレ・ポワトヴァン... それはそれは美しいポワトゥー・シャラント地方の風景で、そこにポルナレフ『グッバイ・マリールー』の流麗なストリングス間奏部が流れたりするもんだから、まるで...音入り絵はがきのようなもんです。
行儀の悪い少女、町で遊ぶのが好きな少女、扇情的な格好をする少女、タイヤンディエはこの少女との奇妙な共同生活で少しずつ変化していきます。そして 二人の共犯関係は、生を捨てかけていた老画家に、再び絵筆を持たせるという奇跡(そんな大げさな)を起こすのです。海水から上がってきた15歳の瑞々しい肉体が、レ島の砂浜に横たわった時、老画家はスケッチブックに多色フェルトペンで夢中になって描き始めるのです。「わお、おっちゃん、絵ぇうまいやんけ。これいっぱい描いて、日曜市で売ったらもうかるで。10枚やったら100ユーロはかたいんちゃう?」と事情を知らない少女は無邪気に言うのですが、著名老画家はその評価に反論して「いいや、200ユーロはいけるだろう」と言うのです。私、ここのダイアローグ、いいなあぁ、と感心しましたね。
タイヤンディエの絵をレ島の日曜市で売る、この卓抜なるアイディアを実行するべく、スケッチブックを買いに行ったキオスクで一緒に買った新聞で、老画家はマリールーの母親が愛人に殴打されて瀕死の重傷を負ったという記事を見つけます。(これもあり得ないでしょう。こんな三面記事以下のニュースを新聞紙面の半分使って、被害者の大きな顔写真が出るなんて。弱いシナリオだなあ....)
二人の共同生活はここで終止符を打ち、病院にかけつけ、マリールーは命をとりとめた母親と和解します。タイヤンディエはアリスの待つ家に戻り、マリールーを描く絵に取り組みます。母親の入院生活が終わり、マリールーを母親の住む郊外集合住宅(シテ)に送っていき、老画家と少女は別れます。それぞれの再出発。車を出発させ、バックミラーでマリールーの姿を見ながら..... われわれはここでミッシェル・ポルナレフ『グッバイ、マリールー』 をフルコーラス聞かされることになるのです! エンドマーク。
いったい、どうしたらいいんですか、こんな映画。
(↓ 『われらの世界へようこそ』予告編)
(↓ Youtube アマチュア投稿によるクリップ『グッバイ、マリールー』)
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