2025年12月7日日曜日

夏の終わりは唐突にやってくる

"Mektoub My Love - Canto Due"
『メクトゥーブ・マイ・ラヴ - 第二の歌』

2025年フランス映画
監督:アブデラティフ・ケシッシュ
主演:シャイン・ブーメディン、サリム・ケシウーシュ、オフェリー・ボー、ジェシカ・ペニングトン
フランス公開:2025年12月3日


2018年公開の『メクトゥーブ・マイ・ラヴ - 第一の歌』に爺ブログは★★★★★評価で大絶賛したのであった。その後アブデラティフ・ケシッシュにはいろいろあった。『第一の歌』を含めた『メクトゥーブ・マイ・ラヴ』連作の撮影は2016年から2017年にかけて行われていて、その撮影素材(ラッシュ)は1000時間以上あったと言われる。ケシッシュはその『第一の歌』の高評価&興行成功に応えて、さっそく『第二の歌』の編集にかかるのだが、監督のヒラメキで『第二の歌』の前に、拾遺断片寄せ集めで『間奏曲(インテルメッツォ)』編というのを作ってしまい、それが2019年カンヌ映画祭に招待され、晴れて『メクトゥーブ・マイ・ラヴ - インテルメッツォ』でカンヌで初上映される。4時間に及ぶ長尺のこの『インテルメッツォ』はメディア/批評家/一般観衆のすべてから大不評を買い、その画面を覆って展開する裸体表現/性表現(模擬演技でないものを含む)で途中退場者が続出する大スキャンダルとなった。主演女優の一人オフェリー・ボーが無承諾の性映像であるとケシッシュを訴える事件も起こった。また挿入曲として使用したアバの「ヴーレ・ヴー」の”テクノリミックス”の使用権料(100万ユーロと言われる)も払えない。『インテルメッツォ』はそんなこんなでこのカンヌでの1回の上映だけで、誰もが手を引き、一般公開されずに姿を消し、アブデラティフ・ケシッシュの制作会社は倒産し、ケシッシュ自身が病気に倒れ、時代はコロナ禍期に突入し、『メクトゥーブ・マイ・ラヴ』は座礁してしまう... 。
 ところが2025年7月、スイスのロカルノ映画祭で、ほとんどの人々が忘れかけていたケシッシュ『メクトゥーブ・マイ・ラヴ - 第二の歌』がプレミア上映される。ケシッシュ自身は映画祭に出席していないが、主演俳優陣が登壇し、訴訟沙汰まで起こした女優オフェリー・ボーもケシッシュとの和解を示すように『第二の歌』プロモーションの重要メンバーとして振る舞っていた。評判は上々。『第一の歌』を絶賛した人々の期待は裏切られなかった、と...。


 12月3日、フランス一般劇場公開最初の日にわが町の商業映画館パテ・ブーローニュへ。7年ぶりかぁ。映画の場所と時期は『第一の歌』と同じ、1994年夏(の終わり)のセート。7年前に見たあの顔ぶれがみんな(もちろん同じ役で)出てきて、観る方は安心してしまう。オフェリーもシャルロットもセリーヌもカメリアもダニーもみんないて、『第一の歌』のまばゆい娘たちはみんな気心の知れた”コピーヌ”たちになっている。きれいな顔立ちをしたナイーヴな若者アミン(演シャイン・ブーメディン)は、パリで映画科学校を卒業して脚本家としてデビューしかけている、というのが『第一の歌』とはちょっと違う。夏、セートに帰省して、母(演デリンダ・ケシッシュ、この『第二の歌』でも素晴らしい)のところで寝泊まりしているのだが、その母が働いているクスクス・レストランに、閉店後だというのに、派手な赤いフェラーリで横柄なアメリカ人カップルが押しかけてきて、クスクスを出してくれと。ほほおぉ... 『第二の歌』はどうやら波乱万丈のドラマがありそうな展開。このアメリカ人カップル、いわゆる「ピープル」であり、女の方は名の通った女優(映画ではなくTV連ドラ系)のジェシカ・パターソン(演ジェシカ・ペニングトン)であり、男の方はその夫で映画プロデューサーのジャック(演アンドレ・ジャコブス)であった。こういうピープルに弱い土地柄なのかな?あるいはこの並外れて旺盛な食欲の持ち主でその上大酒飲みのスター女優に魅了されたか、われらがクスクスレストラン一派はこのカップルと打ち解ける。
 『第一の歌』と同じように映画の狂言回しの役として最も目立った存在となっているのが、アミンのいとこ(にして親友)のトニー(サリム・ケシウーシュ、本当にすばらしい)である。話術に長け、お調子者で、しかも天性の女たらしであるトニーは『第一の歌』でも複数の娘たちをその誘惑ゲームの輪に引き込むのであるが、その相手のひとりがオフェリーだった。『第二の歌』ではオフェリー(演オフェリー・ボー)がトニーの子を妊娠していて、(トニーがオフェリーと結婚する気も父親になる気も全くないので)時期を見て中絶するしかないのだが、”不義の子中絶”という家名を汚す大スキャンダルを許すはずのない頑迷固陋なオフェリーの父親を恐れて、アミンとの偽装結婚という懐柔策を企てている。セートで結婚式を上げて、二人は(アミンの仕事の拠点である)パリでしばらく暮らすというストーリーが出来上がっていて、周囲もその気になっているようなのだが、この映画ではほぼ現実性のないハナシのように軽んじられる。オフェリーはこの映画で目立っていない。『第一の歌』であの眩い豊満な肉体を誇らしげに晒し、酪農家として羊たちと苦楽を共にして生きる大地の女だったオフェリーだったが、『第一の歌』で印象的だったオフェリーが一人で子羊を出産させるシーンとは対照的に、『第二の歌』では子羊が次々に伝染病で死んでいき、その死体をトロッコに乗せて捨てに行くオフェリーの姿がとても象徴的だ。 
 それに引き換えお調子者のトニーは元気いっぱいで、米人女優&プロデューサー夫婦が逗留している丘の上の超豪奢なプール付きヴィラに、毎日(自分の経営する)クスクスレストランからクスクスその他料理を出前で運んでいく。いとこのアミンが映画の仕事をしていて、シナリオも書いているんだが、一度ハリウッドのプロデューサーの目で読んでみてくれないか ー という経緯でジャック・パターソンはアミンの草稿シナリオに目を通す。
 どんな筋かと言うと、近未来もので女性仕様アンドロイド(人間そっくりに造られたヒューマノイドロボットという意味)が、人間感情を深く学習した末に、恋愛ができるようになり、最後には涙を流すレベルに至るというもの。AI時代前の1994年時点の想像力と思って大目に見ていただきたい。この異種ラヴストーリーをジャックはえらく気に入って、色々手直しすればハリウッドで作れないことはない、とまで言う。あれを変えてこれを変えてという注文には、戯画的に”映画”を作るのではなく”ブロックバスター”を作るという意図が見え見えで、ケシッシュの皮肉が込められているのだろう。それはそれ。しかしすっかり乗り気になっているジャックは、この主演女優は妻ジェシカを置いて他にない、というヴィジョンまで展開する。
 こういう会話が豪奢なヴィラのプールサイドでクスクス(+アルコール)のテーブルを囲みながら、ジェシカ、ジャック、トニー、アミンの間でされるのである。シャイでナイーヴな微笑みを絶やさないアミンの下手くそな英語はジャックに通じるものの、プロデューサーの”押し”に負けっぱなしである。だが悪い話ではない+ハリウッドという遥か彼方の世界に接触できたかのようなホンワカ感はまんざらではない。お調子者トニーは、それに乗じて自らのハリウッド進出(ハリウッドでのクスクスレストラン開店)の野望まで出るほど舞い上がっている。そしてその天性の女たらしはスター女優ジェシカを誘惑することも忘れていない。ハリウッド映画狂を自認するトニーはこの二人のハリウッド人の前でロバート・デニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシの声帯形態模写をやってのけ、特にジョー・ペシがジェシカにバカウケで、ジェシカとトニーが二人で『レイジング・ブル』(1980年マーティン・スコセッシ監督)の名場面(ロバート・デニーロ = ジェシカ、ジョー・ペシ=トニー)を再現してしまうというシーンあり(おそらくこの映画のハイライトシーンのひとつ)。とにかくトニーはうまい。こうしてハリウッド人カップルとセートのマグレブ系青年二人は密接な関係を築いていくのだが....。
 夏の太陽に映える娘たちの肉体が大いに”ものを言った”『第一の歌』と対照的に、『第二の歌』は娘たちの視線が雄弁に多くを語っている。それは『第一の歌』の”欲望”、”誘惑”といったものを肉体が表現していたのとは違って、視線は距離があり”探り”があり”ためらい”もある。シャルロット、セリーヌ、ダニーらのアミンに向ける視線は複雑そうだがなんとなくわかってしまう。そして『第一の歌』の肉体の女王だったオフェリーも、視線は”引いて”いるのだ。バーやディスコで踊る娘たちは、『第一の歌』の狂熱さが薄らいでしまっている。夏の終わりは近い。そして彼女たちの重要なイヴェントとなるはずだったオフェリーとアミンの”結婚”も、どこか空々しいもののように、準備にも熱がこもっていない。
 一方ハリウッド人カップルのヴィラでは、ジェシカとアミンの間に深刻な会話がある。それはジャックの熱意とは裏腹にジェシカにはアミンのシナリオに全く乗り気がしないこと。ナイーヴで青臭く、”映画”に幻想を抱いているアミンを見て、「きみは世界を救いたいみたいね」とまで手厳しいことを言うジェシカ。映画で何をしたいの?映画監督になりたいの?あれは最低の職業よ、自分を限りなく失ってしまうわよ...。ハリウッドのスター女優のキャリアがそう言わせているのかも知れない。そしてジェシカはアミン一人への秘密の告白として、ジャックとの破局が間近であると告げる。ジェシカのアンニュイは爆発寸前なのである。これは暗にアミンへのSOSなのか、誘惑なのか....。
 『第一の歌』で映し出されたアミンの純朴そうな人物像は変わらない。美しく、ナイーヴで、もの静かでミステリアスな観察者、という態。抗弁せずに微笑みを浮かべながら見ている男。これを未来の”映画人”にするのはその観察眼ゆえか。たぶん心は細やかに動揺しているはずだが、出さない(出せない)若者。『第二の歌』でいつの間にかオフェリーのことなんかどうでも良くなっているのだよ。

 そしてカタストロフはやってくる。 結婚準備中のアミンに、ジャック不在のヴィラにいてしたたかに酔いしれているトニーとジェシカから呼び出し電話が来る。見せたいものがあるから来い。クルマでヴィラまで行ってみると、ジェシカとトニーがサロンで情事の真っ最中なのである。『第一の歌』の冒頭でオフェリーとトニーの情事シーンに出くわす状況と同じように、アミンはその現場に立ち入らずヴィラのプールを囲む垣根の外から観察している。そこへ、赤いフェラーリに乗ったジャックが帰ってくる。全裸の男女、ジャックによるピストル発砲、アミンが割って入る、プール転落、銃弾はジャック自身に撃ち込まれる、流血、アミンの車で重傷のジャックを病院に運び込む、たちまちハリウッド女優のスキャンダル事件、(被疑者トニーがアラブ人と見るやたちまちレイシストと化す)警察取り調べ、アミンの逃走...。

 地中海の太陽の下の肉体と情愛の夏へのオードだった映画の『第二の歌』はこうして唐突な夏の終わりとして幕を下ろす。夜の街を走って逃げていくアミンは何を失ったのだろうか。ナイーヴさと夏をいっぺんに失ったのだろうか。2時間14分映画。特に終盤で膝がガクガクしてきた。なんと気まぐれな運命、これをアラブの賢人は「メクトゥーブ」と呼んだのであろうか。問いが残る。

カストール爺の採点:★★★★☆

(↓)『メクトゥーブ・マイ・ラヴ - 第二の歌』予告編