アンブル・シャリュモー『生きとし生けるもの』
1997年生れ、現在27歳のアンブル・シャリュモーの第一作めの小説で、3月12日の発売以来現在まで書店ベストセラー上位(3刷、3万部)にあり、Z世代小説の旗手のような現象となっている。ジャーナリストとして既にメディアに露出する有名人であり、2020年からテレビTMCのトークショー番組「コティディアン Quotidien」(ホスト:ヤン・バルテス)の文化時評コメンテーターとなっている。因みにこの番組からはこのブログでも2作を紹介している作家リリア・アセーヌを輩出している。
若いという字は苦しい字に似てるわ。小説はシャリュモーの自伝的な部分も含む「17歳→18歳」という1年間に集中している。それは2014年のパリに始まる。言わば”並に”裕福な3つの家族の子女ディアーヌ、コラ、シモンの3人は物心ついた頃から家族ぐるみの付き合いで、いつも一緒に遊び、毎夏同じところで海辺のヴァカンスを過ごしていた。17歳の夏のヴァカンスは、親たちの目から遠いところでの活動が多くなり、肝硬変が心配になるほどクロナンブールを浴びるほど飲み、ちょっと値の張る”煙”を吸った。On n’est pas sérieux, quand on a dix-sept ans(17歳の時など真面目なわけがない ー アルチュール・ランボー)。おそらく親たちと行く最後のヴァカンス、そして最後の三人一緒のヴァカンス。未成年最後の夏。9月(新年度)になれば将来(そんなものあるのか!)に向かって別れ別れになる。ディアーヌ(作者シャリュモーの化身)は将来何になるというアイディアがあるわけではないが、極めて成績優秀ゆえに、文系”プレパ”(エリート上級校入学準備クラス)を志願して書類審査パス。受け取った入学受理の手紙には入学前に(すなわち夏休み中に)多数の読むべき専門書/文献のリストが添付されていたが、ディアーヌは一冊も読めない。
ディアーヌは学業こそ秀でているが、”男子が振り向かない”タイプ。容姿にも性的興味にも頓着しない。それに対してその親友のコラは少女の頃からマヌカンのような美貌で人目を引いていた。現在頭の大部分を占めているのがマチューという5歳年上の男との交際であり、長い間つきあっているにも関わらず、二人は別れたりくっついたりを繰り返している。マチューも美貌の男子で物腰にそつがなく、娘たちは黙っていても寄ってくるタイプだが、この美しいコラだけは他の女たちとは違う。自由にならない。だからこそ征服したい、モノにしたいというマッチョな欲望なのか。それを見せまいとしていい男を演じているのか。コラはそれを知っているからか、時々距離を取るのであるが、しばらくしてまた元のさやに戻る。その夏まで二人の性的関係は"前戯”どまりだった...。
シモンはそんな二人の”兄貴分”で、両親からも他の子たちからも信頼される”いいやつ”で(そのことで弟のトマはずっと兄を嫉妬していた)、遊びごとのリーダーで、よろず相談役で、三人組の牽引者だった。だが、シモンはある夏、コラに”カミングアウト”し、そのことをディアーヌはコラを通して知る。コラはたぶんすんなりと受け取ったのだが、ディアーヌは少しモヤモヤしてしまう。だが三人組は変わらない...。
新年度開始が近いある日、ディアーヌがプレパに入ったら(その軍隊式詰め込みカリキュラムのせいで)しばらくは三人で会うことができなくなる、今季最後の機会になるから、某パーティーに集まろう、シモンも来るから、とコラからの誘い。ディアーヌとコラは会場でいつものように暴飲して夜更けまでシモンを待っているが、シモンは遂に現れない。
シモンの母セリーヌから電話。シモンが緊急入院し、昏睡状態に陥っている。午前3時、アルコール漬けの態で二人は病院に駆けつける。シモンは脳を侵す非常に稀なヴィールスに感染し、延命のためのさまざまな管をつけられて深い眠りに入っていて、その眠りはいつ醒めるのか医師たちは予測することができない。これが小説の19ページめまでのあらましである。
この夏の終わりの大変動が若いディアーヌとコラをどのようにグジャグジャにしていったかというのがこの小説の主なテーマであるが、もう一人、二人とは次元の異なる大きなダメージを負ってしまったのがシモンの母のセリーヌである。この三人だけが病室のシモンを見つめる立会人であり、面会制限時間15分の間にそれぞれのシモンとの”対話”を試みる。それがいつまで続くのかは医師も含めて誰も知らない。
セリーヌの”転落”はドラマティックである。シモンの入院の前奏のように、夫イーヴとの別離があった。元ジャーナリストで二人の子(シモンとトマ)の子育てのために現役を遠ざかっていたが、数年後その機会が来ても職復帰はできず、不定期ピジスト(フリーライター)の身に甘んじている。息子の災難を知った友人たちが、気晴らしにとパーティーに誘われるが、そこで言われる歯の浮くようなお見舞いの言葉の数々。フランス語ではこんな風には言わないが、日本語常套表現ならば「私にできることがあったら何でも言ってね」というアレ。「私にできることがあったら何でも言ってね」「私にできることがあったら何でも言ってね」「私にできることがあったら何でも言ってね」.... これは言われた方のムカツキを知ってのもの云いである。確信犯。張っ倒されたいんかオノレは。
セリーヌは何も言わず、聞いたフリをして何も聞かず、ひたすら飲み続ける。何杯も何杯もとめどなく飲み続ける。家に帰っても飲み続ける。それしかないように飲み続ける。着衣のまま泥酔して床に倒れているセリーヌを介抱するのが(コレージュを終え、新学期にリセに入ったばかりの)次男トマである。兄シモンと比較されてあらゆる点で”見劣り”を感じていたトマは、乱れた姿の母を抱きかかえてベッドに運び寝かせる。これはたぶんシモンの役だったはず。母を支える人間が自分ひとりになってしまった。図らずもトマはこうしてシモンへのコンプレックスを克服していく。それぞれの”ポスト・シモン”はここでも始まっていく。
コラはあの救急病院に駆けつけたあと、放心状態で未明のパリを彷徨いマチューのアパルトマンに辿り着き、極度のショックの癒しを求めたのか、マチューのところで眠りたかった。ところがマチューは泥酔・無抵抗のコラに、やっとこの機会が来たと言わんばかりに、”リラックスできる飲み物”を飲ませ...。これは男がそうではないと主張しようが明らかな同意なき性暴力であり強姦である。コラはこれを許さない。コラには前史があり、ペドフィリアの被害者だった。そのトラウマのせいで17歳になっても彼女が性関係を恐怖していた。長期の交際になったマチューにはいつかという気持ちがあったかもしれないが、マチューは無断で押し入った。しかもシモンの緊急時の日に。コラは絶対に許さない。P187 - 188、コラは赤々と燃えたぎるような憤怒の手紙を書いている。
この手紙を持ってマチューの住む建物へ行き、郵便受けに入れる寸前までいくのだが、結局この手紙はゴミ箱の中に消えていく。それが”大人”になることだろうか。こんな時シモンがいてくれたら何と助言するだろうか。コラはその怒りをそのまま保持して、精力的にSNSや文献で性暴力被害のことを読み漁り、フェミニズムに開眼していく。コラの”ポスト・シモン”は歩みはこうして踏み出される....。
ディアーヌは死に物狂いで予習復習しなければついていけないプレパの授業には気もそぞろで、シモンの難病の医学的情報をネットで調べたり、覚醒恢復のごく少ない症例、どんな治療法が有効か、昏睡した脳を刺激するとされる音(音楽)や言葉をシモンの病室で繰り返し実験してみたり...、シモンのことで頭がいっぱいになっている。成績はどんどん落ちていき、小学校で学業を始めて以来ずっと超優等生を続けてきたディアーヌは(超難しいクラスであるとは言え)初めて劣等生に転落する。あまりにも近くにいて、これからも近くにいるはずだったシモンの突然の眠り、それは不在でも消滅でもなく病室に横たわって”存在”している。この”物体”と私は語り続けるが、それは同じ友情か?そして私は一体シモンのどこまでを知っているのか?私に見えないシモンがあったのは知っているが、それはもう知りえないものなのか?そんな時、(同じようにシモンのすべてを知らなかったことを気にかけている)母セリーヌがディアーヌに核心的な問いかけをする「シモンはゲイなの?」(merde, merde, merde... とディアーヌは内心で叫んでいる)。私とコラはそのことは知らされたが、シモンがその種の交際をしていたかどうかについては何も知らない...。
若いという字は苦しい字に似てるわ。小説はシャリュモーの自伝的な部分も含む「17歳→18歳」という1年間に集中している。それは2014年のパリに始まる。言わば”並に”裕福な3つの家族の子女ディアーヌ、コラ、シモンの3人は物心ついた頃から家族ぐるみの付き合いで、いつも一緒に遊び、毎夏同じところで海辺のヴァカンスを過ごしていた。17歳の夏のヴァカンスは、親たちの目から遠いところでの活動が多くなり、肝硬変が心配になるほどクロナンブールを浴びるほど飲み、ちょっと値の張る”煙”を吸った。On n’est pas sérieux, quand on a dix-sept ans(17歳の時など真面目なわけがない ー アルチュール・ランボー)。おそらく親たちと行く最後のヴァカンス、そして最後の三人一緒のヴァカンス。未成年最後の夏。9月(新年度)になれば将来(そんなものあるのか!)に向かって別れ別れになる。ディアーヌ(作者シャリュモーの化身)は将来何になるというアイディアがあるわけではないが、極めて成績優秀ゆえに、文系”プレパ”(エリート上級校入学準備クラス)を志願して書類審査パス。受け取った入学受理の手紙には入学前に(すなわち夏休み中に)多数の読むべき専門書/文献のリストが添付されていたが、ディアーヌは一冊も読めない。
ディアーヌは学業こそ秀でているが、”男子が振り向かない”タイプ。容姿にも性的興味にも頓着しない。それに対してその親友のコラは少女の頃からマヌカンのような美貌で人目を引いていた。現在頭の大部分を占めているのがマチューという5歳年上の男との交際であり、長い間つきあっているにも関わらず、二人は別れたりくっついたりを繰り返している。マチューも美貌の男子で物腰にそつがなく、娘たちは黙っていても寄ってくるタイプだが、この美しいコラだけは他の女たちとは違う。自由にならない。だからこそ征服したい、モノにしたいというマッチョな欲望なのか。それを見せまいとしていい男を演じているのか。コラはそれを知っているからか、時々距離を取るのであるが、しばらくしてまた元のさやに戻る。その夏まで二人の性的関係は"前戯”どまりだった...。
シモンはそんな二人の”兄貴分”で、両親からも他の子たちからも信頼される”いいやつ”で(そのことで弟のトマはずっと兄を嫉妬していた)、遊びごとのリーダーで、よろず相談役で、三人組の牽引者だった。だが、シモンはある夏、コラに”カミングアウト”し、そのことをディアーヌはコラを通して知る。コラはたぶんすんなりと受け取ったのだが、ディアーヌは少しモヤモヤしてしまう。だが三人組は変わらない...。
新年度開始が近いある日、ディアーヌがプレパに入ったら(その軍隊式詰め込みカリキュラムのせいで)しばらくは三人で会うことができなくなる、今季最後の機会になるから、某パーティーに集まろう、シモンも来るから、とコラからの誘い。ディアーヌとコラは会場でいつものように暴飲して夜更けまでシモンを待っているが、シモンは遂に現れない。
シモンの母セリーヌから電話。シモンが緊急入院し、昏睡状態に陥っている。午前3時、アルコール漬けの態で二人は病院に駆けつける。シモンは脳を侵す非常に稀なヴィールスに感染し、延命のためのさまざまな管をつけられて深い眠りに入っていて、その眠りはいつ醒めるのか医師たちは予測することができない。これが小説の19ページめまでのあらましである。
この夏の終わりの大変動が若いディアーヌとコラをどのようにグジャグジャにしていったかというのがこの小説の主なテーマであるが、もう一人、二人とは次元の異なる大きなダメージを負ってしまったのがシモンの母のセリーヌである。この三人だけが病室のシモンを見つめる立会人であり、面会制限時間15分の間にそれぞれのシモンとの”対話”を試みる。それがいつまで続くのかは医師も含めて誰も知らない。
セリーヌの”転落”はドラマティックである。シモンの入院の前奏のように、夫イーヴとの別離があった。元ジャーナリストで二人の子(シモンとトマ)の子育てのために現役を遠ざかっていたが、数年後その機会が来ても職復帰はできず、不定期ピジスト(フリーライター)の身に甘んじている。息子の災難を知った友人たちが、気晴らしにとパーティーに誘われるが、そこで言われる歯の浮くようなお見舞いの言葉の数々。フランス語ではこんな風には言わないが、日本語常套表現ならば「私にできることがあったら何でも言ってね」というアレ。「私にできることがあったら何でも言ってね」「私にできることがあったら何でも言ってね」「私にできることがあったら何でも言ってね」.... これは言われた方のムカツキを知ってのもの云いである。確信犯。張っ倒されたいんかオノレは。
セリーヌは何も言わず、聞いたフリをして何も聞かず、ひたすら飲み続ける。何杯も何杯もとめどなく飲み続ける。家に帰っても飲み続ける。それしかないように飲み続ける。着衣のまま泥酔して床に倒れているセリーヌを介抱するのが(コレージュを終え、新学期にリセに入ったばかりの)次男トマである。兄シモンと比較されてあらゆる点で”見劣り”を感じていたトマは、乱れた姿の母を抱きかかえてベッドに運び寝かせる。これはたぶんシモンの役だったはず。母を支える人間が自分ひとりになってしまった。図らずもトマはこうしてシモンへのコンプレックスを克服していく。それぞれの”ポスト・シモン”はここでも始まっていく。
コラはあの救急病院に駆けつけたあと、放心状態で未明のパリを彷徨いマチューのアパルトマンに辿り着き、極度のショックの癒しを求めたのか、マチューのところで眠りたかった。ところがマチューは泥酔・無抵抗のコラに、やっとこの機会が来たと言わんばかりに、”リラックスできる飲み物”を飲ませ...。これは男がそうではないと主張しようが明らかな同意なき性暴力であり強姦である。コラはこれを許さない。コラには前史があり、ペドフィリアの被害者だった。そのトラウマのせいで17歳になっても彼女が性関係を恐怖していた。長期の交際になったマチューにはいつかという気持ちがあったかもしれないが、マチューは無断で押し入った。しかもシモンの緊急時の日に。コラは絶対に許さない。P187 - 188、コラは赤々と燃えたぎるような憤怒の手紙を書いている。
「Je suis venue te dire que je te hais. 私はあんたが大嫌いだと言いに来た。今になって私はあんたが何ものかを知った。私はもう子供じゃないし、あんたのことをちゃんと認識した。あんたはもはや変なコブのついた奇妙な男なんかじゃなくて、哀れにも汚く犯罪的な変態でしかない。あんたに知らせてやる、覚えておいて、私はゾッとするほどあんたが大嫌いなんだと。あんたが私の体に無理矢理押し入った時に味わった私の痛みと同じ痛みをあんたにも味わせてやりたい。私が味わったように、汚され、裂かれ、自分自身でなくなってしまったような、吐くほどの罪悪感をあんたに味わせてやりたい。あんたの被害者たちのひとりで私よりも勇気ある女があんたを見つけ出して、あんたの竿(teub)を錆びたナイフで切りつけてくれたらいいと望んでいる。あんたはオシッコするたびにそこが焼けるように痛むのさ。あんたは血を吐けばいい。あんたは小学校の前を通ってモノが固くなって勃起したとたんに痛くなるのさ。あんたはもう二度と二度と二度とオルガスムを味わえなくなればいい。一生欲求不満で、痛み続け、苦しむのよ。愚かな間抜け野郎、あんたの臓器の腐敗はあんたが生きることの邪魔はするが、あんたは絶対に死なないんだ。私があんたが107歳まで生きることを望んでいるよ。107年の不幸が被さるように呪ってやる。あんたへの呪いが100倍になり、あんたの両腕は切り落とされ、あんたの肉体は焼かれ、あんたの内臓は引っ掻き回されればいい。私があんたの被害者だということを決して忘れないで。そしてこの判決文も。私のことをいつまでも覚えておいて。万が一あんたの間抜けなおつむが俺は改心したと思うようになっても、あんたがホームレスに2ユーロあげたり、あんたの祖母に絵ハガキを送ったりして、これで罪の償いをしたつもりになっても、それであんたがいい人間になったって思ったとしても、橋の下に川の水が流れるように、あんたが私にしたことは大したことじゃないって思うようになったとしても、私は絶対にあんたを許さないってことを永遠に覚えておいてほしい。私はあんたが長生きして孤独にボロボロになって死ねばいいと思ってることを絶対に忘れないで。」
この手紙を持ってマチューの住む建物へ行き、郵便受けに入れる寸前までいくのだが、結局この手紙はゴミ箱の中に消えていく。それが”大人”になることだろうか。こんな時シモンがいてくれたら何と助言するだろうか。コラはその怒りをそのまま保持して、精力的にSNSや文献で性暴力被害のことを読み漁り、フェミニズムに開眼していく。コラの”ポスト・シモン”は歩みはこうして踏み出される....。
ディアーヌは死に物狂いで予習復習しなければついていけないプレパの授業には気もそぞろで、シモンの難病の医学的情報をネットで調べたり、覚醒恢復のごく少ない症例、どんな治療法が有効か、昏睡した脳を刺激するとされる音(音楽)や言葉をシモンの病室で繰り返し実験してみたり...、シモンのことで頭がいっぱいになっている。成績はどんどん落ちていき、小学校で学業を始めて以来ずっと超優等生を続けてきたディアーヌは(超難しいクラスであるとは言え)初めて劣等生に転落する。あまりにも近くにいて、これからも近くにいるはずだったシモンの突然の眠り、それは不在でも消滅でもなく病室に横たわって”存在”している。この”物体”と私は語り続けるが、それは同じ友情か?そして私は一体シモンのどこまでを知っているのか?私に見えないシモンがあったのは知っているが、それはもう知りえないものなのか?そんな時、(同じようにシモンのすべてを知らなかったことを気にかけている)母セリーヌがディアーヌに核心的な問いかけをする「シモンはゲイなの?」(merde, merde, merde... とディアーヌは内心で叫んでいる)。私とコラはそのことは知らされたが、シモンがその種の交際をしていたかどうかについては何も知らない...。
そしてある日病室付きの看護婦から、ひとりの少年がシモンとの面会を求めてやってきたことを知らされる。この病人の面会には親権者(この場合母セリーヌ)の許可が必要なので、母親と連絡を取り許可を得てから来るように、と追い返されたという。ディアーヌはそれがシモンの”恋人”だと直感した。ここからディアーヌはSNS(主にFacebook)のシモンのアカウントの内容を徹底的に分析し、この少年の割出しを試みる。ここのパッセージ、推理小説のようにワクワクする。3桁はあるだろう”友だち”の中から、知り合った時期、登場回数、一緒に写っている写真のあるなし、イベントやさまざまな事象に共通して”ライク”しているかどうか、共通のイベントに参加しているかどうか、コメントの交換の頻度と”熱”具合... などを分析して、”ホシ”を絞り出していく。そしてその結果、マキシムという少年が浮かび上がり、ディアーヌはかなりの確信を持ってFBメッセンジャーでマキシムにシモンのことで会いたいとメッセージを送る....。
「私の知らないシモン」がそこに現れた。知らないことだらけのままシモンを失うかもしれなかったディアーヌは、このことで少なからず救済されている。エモーショナル。
小説の時間は9ヶ月。さまざまな管を繋がれ眠ったまま延命させられていたシモンは9ヶ月で息絶える。この9ヶ月間のシモンを見つめていた3人の女たち、ディアーヌ、コラ、セリーヌそれぞれの変身を描いた300ページである。ディアーヌはプレパを落第し、プレパなどというブルジョワ家庭のお決まり路線のように分別なく従ってしまったコースを捨て、これからは違う(自分のための)道に踏み出すということに全く後悔はない。コラはフェミニズム視線で世を見つめ直し、マヌカン紛いの人形であることをやめ、これまでと違う出会いの可能性を仄めかせる新しい生活が始まる。少女から大人へ、という括りだけではない大きな”成長”がある。シモンは死に、それを見つめ生き残った者たちはみな”新しく”なる。その生き残った者にはシモンの弟トム、セリーヌの夫イーヴ(セリーヌとよりを戻す)、シモンの”友”マキシムも含ませて、作者は小説を終えるのである。Les Vivants 生きている者たち、というタイトルは最後にとても合点のいくものになる。
Z世代の小説であり、私のような老人にはとても読み取れないその世代の風俗文化リファレンスが多く登場し、読むのに大変苦労したが、その甲斐は大いにあった。大切な人間の死を見つめて生き残った人間にとって「生きる」とは越えること、越えなければならないことだったとあらためて教えられた。この作者は私の娘よりも若いのだった。
カストール爺の採点:★★★★☆
Ambre Chalumeau "Les Vivants"
Stock刊 2025年3月12日 297ページ 20,90ユーロ
(↓)アンブル・シャリュモーの(ファースト)プロモーションインタヴュー
テレビで鍛えられた人の饒舌という感じ。悪口じゃなくて。
「私の知らないシモン」がそこに現れた。知らないことだらけのままシモンを失うかもしれなかったディアーヌは、このことで少なからず救済されている。エモーショナル。
小説の時間は9ヶ月。さまざまな管を繋がれ眠ったまま延命させられていたシモンは9ヶ月で息絶える。この9ヶ月間のシモンを見つめていた3人の女たち、ディアーヌ、コラ、セリーヌそれぞれの変身を描いた300ページである。ディアーヌはプレパを落第し、プレパなどというブルジョワ家庭のお決まり路線のように分別なく従ってしまったコースを捨て、これからは違う(自分のための)道に踏み出すということに全く後悔はない。コラはフェミニズム視線で世を見つめ直し、マヌカン紛いの人形であることをやめ、これまでと違う出会いの可能性を仄めかせる新しい生活が始まる。少女から大人へ、という括りだけではない大きな”成長”がある。シモンは死に、それを見つめ生き残った者たちはみな”新しく”なる。その生き残った者にはシモンの弟トム、セリーヌの夫イーヴ(セリーヌとよりを戻す)、シモンの”友”マキシムも含ませて、作者は小説を終えるのである。Les Vivants 生きている者たち、というタイトルは最後にとても合点のいくものになる。
Z世代の小説であり、私のような老人にはとても読み取れないその世代の風俗文化リファレンスが多く登場し、読むのに大変苦労したが、その甲斐は大いにあった。大切な人間の死を見つめて生き残った人間にとって「生きる」とは越えること、越えなければならないことだったとあらためて教えられた。この作者は私の娘よりも若いのだった。
カストール爺の採点:★★★★☆
Ambre Chalumeau "Les Vivants"
Stock刊 2025年3月12日 297ページ 20,90ユーロ
(↓)アンブル・シャリュモーの(ファースト)プロモーションインタヴュー
テレビで鍛えられた人の饒舌という感じ。悪口じゃなくて。
(↓)南沙織「十七歳」(1971年)