Abd Al Malik "Méchantes Blessures"
アブダル・マリック8作めの小説。紹介はラティーナ2019年10月号の「それでもセーヌは流れる」で書いているのでそちらを参照してください。ここではジュリエット・グレコが登場する箇所(p155〜156)を(無断で)部分的に訳してみたので、読んでみて。
ある日、パリのリュテシア・ホテルで昼食を共にしながら、私に孤独について語り出したのは彼女の方だった。それは誰もが嘆いていることがらだが、自分の片割れ(moitié、伴侶、ベターハーフ)と出会った瞬間からこの苦しみはおしまいになるものなのよ、と彼女は言った。でもあなたは何度も片割れを変えたじゃないですか、と私は指摘した。「それはその男たちが私の片割れじゃなかったということなのよ」ー「どうしてあなたはそうわかったのですか?」 ー 「アンニュイ(退屈、倦怠)よ、カミル、アンニュイでわかるのよ。正真正銘の片割れとは退屈することなんてありえないのよ」。私は少し考えて、こう聞いてみた:「ではあなたはジェラール(・ジュアネスト)とは一度も退屈しなかったということ?」 ー 「30年間で一度もなかったわ」と彼女は言い切った。「私には彼の前にももう一人正真正銘の片割れがいたけれど、彼とはうまくいかなかった」 ー 「本当ですか?それは誰ですか?」 ー 「マイルス... マイルス・デイヴィス、向こうから私と決別したたったひとりの男、私の人生で別れがこの方向で告げられたのはたった一度だけよ。私も彼の正真正銘の片割れだったのに.. ドラッグやらなにやらで。もうずっと昔のことよ」と彼女は声を震わせた。短いものだったが、多くの文献で語られたジュリエット・グレコとマイルス・ディヴィスの恋物語は、フランスとアメリカの間で起こったひとつの事件への私の見方に大きなインパクトを記した。ギリシャの女神とエジプトの神というこの二人が形成したカップルは、多くの意味において20世紀後半における前衛であったし、シモーヌ・ド・ボーヴォワールとジャン=ポール・サルトルのカップルと同じほど象徴的であり、この二人は私にとってそれぞれの芸歴のすべてにおいて、最も厳格で豊穣な音楽と詩の顕現であり、その現れは世界に及ぼす影響力となりえたし、世界を加工できるほどのものでもあった。
長い沈黙の末に、ジュリエットは私に尋ねた ー 「あなたの長編映画はどうなってるの?」 ー 「とりかかってますよ、真剣に」 ー 「そうね、今の時代ではポエジーは難しいわよね」と彼女は続けた ー 「最初ポエジーというのは理解されるのは難しかったのよ。誰かがね、濃い内容ながらも大衆的な作品を発表して、ポエジーはいたるところにあるんだということを証明してくれた日まではね。その意味で、本物のポエジーというのは絶対に間違いないのよ。」 ー 「そうですとも」と私は大声で同意した ー 「たったひとつの作品で十分だった!」 ー 「その通りよ、プレヴェール、コスマ、カルネをご覧なさい。今の時代はもうちょっと複雑かもしれないけれど、人々は理解するのよ。偉大なポエジーは必ず最後には理解される。そのためにはいい表現者さえあればいいのよ...」
("Méchantes Blessures" p155-156)
ABD AL MALIK "MECHANTES BLESSURES"
PLON刊 2019年8月22日 220ページ 19ユーロ
(↓)自作『やっかいな傷』 を紹介するアブダル・マリック
0 件のコメント:
コメントを投稿