2018年1月12日金曜日

Tout pour la musique !

ランス・ギャルの死(2018年1月7日)から数日間、テレビの特番や新聞雑誌の特集ページに目を奪われておりました。追悼記事では爺ブログの別ページで紹介したテレラマ誌ヴァレリー・ルウーのものの他に、レ・ザンロキュプティーブル誌1月10日号のクリストフ・コントによる「永遠のフランス(France Eternelle)」と題されたオマージュ(やはりほとんどゲンズブール絡み。独特の視点)と、パリ・マッチ誌1月11日号(←)の40ページ追悼特集の中の、ヤン・モワックスによる「フランス人たちのかわいいフィアンセ」と題されたオマージュが最も興味を引きました。
 ヤン・モワックス(↓)は1959年生まれの作家(2013年度ルノードー賞受賞)、映画監督(2004年クロード・フランソワのモノマネ芸人を描いた『ポディオム、俺がスターだ』)である他に、国営テレビFrance 2の人気トークショー番組 "On n'est pas couché"の常任パネリストとして毒舌を振るっています。
このオマージュ、フランス・ギャルが私たちに愛されたのは「フツーだったから」というイントロを持ってきます。私たちの70-80年代のフツーの日常にフツーに耳にした彼女の歌が、どれだけ私たちの日々に染み入っていたかを思い起こさせてくれます。そしてその80年代は、フランスにいた私たちの最後の無邪気な日々だったことも。私の和訳でどこまでエモーションが伝わるかわかりませんが、これまで読んだ最高のオマージュです。

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フランス人たちの可愛いフィアンセ
(ヤン・モワックス)

フランスを去ることには慣れているが、フランスに去られることはめったにない。彼女が「フランス」という名前をもらったのは良い偶然だった。彼女はこの国によく似ていた:ちょっと気難しい美しさ、シックな気まぐれ、ふてくされた仏頂面。はっきりした個性、気の強さ。フランス・ギャルはスターになりえないすべての素質を持っていた。すなわち彼女はフツーの子だった。そしてこのフツーさこそ私たちが好きだったものだ。スニーカーを履いた気のいいガールフレンド、同じ学部の学友、週末に壁のペンキ塗り替えに手伝いに来てくれるような。一緒にキャンプ場でヴァカンスを過ごしたいような、一緒にヒッチハイク旅行をしたいような。1960年代、70年代、80年代:「シャルルマーニュ大王」からニューヨークまで成功の渦に包まれた「スターマニア」を経由して「レジスト」まで。ヴェロニク・サンソン、フランソワーズ・アルディと共に彼女はわが国の女声版サウンドトラックであった。彼女はいつもそこにいたし、未来にもいつもそこにいるはずなのだ。永遠のフランス、それが彼女だった。最初はベビードールだったが、様々な出来事が彼女を追い越していった。純真な心で「夢みるシャンソン人形」を歌って1965年のユーロヴィジョンの優勝を勝ち取ったが、次いで彼女はニンフと同時に性悪女になり、男たちをてんてこ舞いさせたり、その心を打ち砕いたりできるようになる。その小さな体躯にもかかわらず、彼女のディメンションはゆっくりと大きくなっていく。「コム・ダビチュード(マイ・ウェイ)」という普遍のモニュメントは彼女に捧げられたものであるし。この点は少しミウ・ミウと似ていて、彼女はいわゆる「小柄で可愛い女」に属しながら、ハイヒールの恐るべきヴァンプたちよりもファム・ファタルたりうるものを持っていたのである。それに続いて「サロペット」時代がやってくる。すなわちミッシェル・ベルジェとの音楽/情熱両方のデュエットを組んだ時期で、ベルジェはまだ塞がらぬ傷を癒すために彼女を選び、彼女を守り通すために偉大な作曲家になっていく。

フランス・ギャルは生涯を通じて、相手の男に(彼女のせいで、彼女によって、彼女のために)自分の実力以上の力を出させるという西壁があったようだ。男が彼女との恋に落ちる時、男は狂おしいまでの讃歌を彼女に捧げ、彼女から別れられると、男は絶望的な鎮魂歌を作った。クロクロ(クロード・フランソワ)はこの喪失から二度と立ち上がることはなかったが、その復讐のために彼は自分の運命を切り拓いたのだ。フランスはそんなそぶりを見せなかったが、その間違いによって才能が開花してしまった男が、彼女に最低限の愛情と最大数の歌を捧げにやってくるのを待っていた。彼女はエンジンとしても燃料としても大したものではなかった。そのスタイルは? それは揺するのだ。腰を揺すり、両足の小さなサイドステップで揺らし、首を縦揺りさせるやり方はまるで地面を注視しながら頭で釘を打つようで、同時に指を鳴らし、それらは大いなる才能を持ったこの小さな体にうってつけのコレグラフィーをかたち作った。フランスは「リズミック」だ。「サンバ・マンボ」、「ババカール」、「すべては音楽のために(Tout pour la musique)」は体を動かすために作られた曲だ。汗をかくためだ。しかしメランコリーも彼女にはよく似合う。”Si maman si”,“Bébé, comme la vie”,  “Cézanne peint ”のような曲。彼女の最良のアルバムは議論の余地なく『パリ、フランス』(1980)であり、”Ii jouait du piano debout(彼はピアノを立って弾いていた)をはじめとして収められた曲は全て傑作である。イエイエの中でイエイエによって生まれたフランス・ギャルは、70年代から80年代に差し掛かるカーヴを永遠に記録するアーチストである。その時代は、ある種、私たちが無邪気でいられた最後の時であった。

 私にとって彼女の最も偉大な曲は永遠に”Viens, je t’emmène(来て、あなたを連れていくわ)であり続ける。この歌のはっきりとした行き先はわからなかったが、私たちは即座にフランスについていった。彼女は真に世界に興味を持っていた。アフリカや人道活動について彼女の語る言葉は決して空虚なものや見せかけではなかった。他の多くの歌手たちのように、彼女は20年かけて10回の引退ツアーなどせずに、意欲が失せた時にきっぱりと引退した。彼女の生涯の伴侶ミッシェル・ベルジェが1992年テニスの試合の最中に心筋梗塞で命を失ったことは、まだ続けていこうという気力を与えもしたが、嚢胞性肺繊維症に冒された娘ポーリーヌの死は、彼女のゴチャマゼのスウィング踊りを二度と見せなくさせたのである。希望と夢が宿っているのは未来であり、彼女はその中で残りの人生を過ごそうと決めた。音楽、録音スタジオ、ステージは彼女にとってあまりにも死んだ年月、黒々とした瞬間の数々、消えていった人たちを思い出させるものでしかなかった。彼女は一度はガンを克服したのである。しかしこのガンが、カーテンコールのように呼び戻され、最後のアンコールの1曲のように復活した。電気仕掛けのリスのようにかわいい顔、丸い栗色の目は死神ばばあの手に奪われてしまったが、このクソばばあには、私たちの青春が記憶する彼女の歌のリフレインは絶対に渡さない。フランス・ギャルの歌が聞かれ続ける限り、私たちの過去の夏は生き続けるだろう。私たちと、自転車に乗って、田園を駆け抜けていったあの夏は。 すべては音楽のために(Tout pour la musique)。

(↓ヤン・モワックス最愛の歌として挙げられた "Viens, je t'emmène" 1978年)

(↓ヤン・モワックスのオマージュの結語として引用された "Tout pour la musique" 1982年)

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