2018年1月10日水曜日

フランス・ギャルとアフリカ

「La Française la plus Sénégalaise(最もセネガル的なフランス女性)」と現地の人たちに慕われたフランス・ギャル(1947 - 2018)。死のニュースの翌日の1月8日、ウェブ版ル・モンド (Le Monde . fr)に掲載された、フランス・ギャルとアフリカの親密な関係をまとめた記事を紹介します。「燃えるようなアフリカ = L'Afrique flamboyante」を愛し、人道的活動に身を投じ、夫と娘の死に翻弄された心に「真の平静」を再び見出すことができた島(ンゴール島)での穏やかな日々...。
 1987年のヒット曲「ババカール」についてはこの記事も軽く紹介してありますが、重要なので補足します。セネガルの路地で出会ったファトゥーという名の若いシングルマザーは、自分は貧しく職もないのでこの赤ん坊男児ババカールを差し上げると言ったのですね。衝撃を受けたフランス・ギャルは最初この子を養子としてギャル/ベルジェ家に迎え入れることを考えます。セネガルからパリに帰ってこのことを夫のミッシェルに話したところ、この子の文化的ルーツも母子の関係も絶つことはこの子にとって不幸な結果になると二人は結論します。彼らにとってできることは何か。それはファトゥーにこの子を自分で育てられるような生活力を得られるよう援助することだ、と。ファトゥーに職業技術を身につけるよう学校に行く費用を与え、その職業に必要な道具(裁縫ミシン)を買い与えます。並行して、ババカールのような貧しい子たちにも開かれた学校を建設し、村になかった医療施設も開設します。1曲のヒット曲にとどまっていたわけではない、具体的で長期的な「行動」が背景にあったのです。
以下ル・モンド紙による「フランス・ギャルとアフリカ」の記事の全文翻訳です。

フランス・ギャルと「燃え上がるような」アフリカ
ある特恵な関係

ウェブ版ル・モンド紙2018年1月8日
(文:Le Monde . fr とダカール駐在記者マテオ・マイヤール)

1月7日日曜日、フランス・ギャルの他界した日、セネガルのニュースサイト「ダガーラクチュ Dakaractu」のトップは「最もセネガル人的なフランス女性が亡くなった」と題された記事が飾り、このアフリカ西海岸の小さな国への彼女の「愛」をしのばせた。1980年代以来、その後の生涯を通じてフランス・ギャルはアフリカ全体そしてとりわけセネガルと特別な関係を築いてきた。
1985年、当時エチオピアを襲っていたききんの被害者たちを救済するために結団された音楽家団体「国境なき歌手たち(Chanteurs sans frontières)」に彼女は身を投じた。この団体は当時「国境なき医師団 Médecins sans frontières」の代表だったロニー・ブローマンに率いられたもので、フランス・ギャルはそのチャリティー・アルバム「SOS エチピニア (SOS Ethiopie)」の制作に参加し、アルバムは100万枚を越すセールスを記録した。
その同じ年、彼女は、夫であるミッシェル・ベルジェ、ダニエル・バラヴォワーヌ(歌手)、リオネル・ロカージュ(ジャーナリスト)、リシャール・ベリー(俳優)と共に、「アクシオン・エコール」と称した人道的行動の発起人となった。フランス全土で中学・高校などの教育機関の中で数千に及ぶ小委員会が立ち上げられ、アフリカの学校建設や水供給設備などのプロジェクトの資金援助をするための募金活動が行われた。

セネガルの魅力にとりつかれ、フランス・ギャルとミッシェル・ベルジェ夫妻は、首都ダカールに近い、キャップ・ヴェール半島の沖にあるンゴール島に家を買った。1990年代に夫妻は島の向かいにある漁村に小学校を建設し、現在もその学校は存在している。1月8日、フランス・ギャルの死の翌日、「生徒たちは歌で彼女にオマージュを捧げた」と、村のガイドで漁師でもあるサンバ・ディオップは伝えている。
この土地で撮影された2012年ケーブルTV局PLANETE+ の番組でヤン・アルチュス=ベルトランとの対談でフランス・ギャルは「アフリカを含む今日の世界で起こりうる数々の問題に自覚的であること」を訴えた。

そしてその地で彼女はババカールと出会っていて、それは1987年に、彼女の芸歴上最も代表的な楽曲の一つの主人公になった。その当時フランス・ギャルは「アクシオン・エコール」の活動のためにセネガルにいた。ある夜彼女がある村を通っていると、「暗闇の中に」「小さな赤ん坊が眠っている」のを見た。彼女はその母親に「あんたの赤ちゃんきれいだね」と言うと、母親は「欲しかったらあげるわよ、持って行って」と答えた。
「パリに戻って、私はこのことをミッシェルに語った。6ヶ月後、彼はこの歌”ババカール”を私に差し出した」と今から数年前彼女はラジオRTLのインタヴューで語った。
この歌のヴィデオクリップを撮影するために現地に戻った彼女はババカールと再会し、その母親に「職業につけるようになるための教育訓練のためのお金」を援助することを決めたのだった。「良い結末の美しい物語」。

1997年、娘のポーリーヌの死後、フランス・ギャルは生活をフランスとセネガルの半々で過ごすことを決めた。前述のヤン・アルチュス・ベルトランとの対談で彼女は「この国で私は平和と真の晴朗さを見出した」と述懐している。

現地での彼女は目立たないものであったが、フランス・ギャルはダカールの半島の漁師たちの集団であるレブーと呼ばれる人たちと親密な関係を結んでいた。ンゴール島の村で、裸足で浜辺や丸木の釣り舟だまりを散歩する彼女のことを懐かしむ人々は多い。サンバ・ディオップはこう回想する。
「彼女が若かった頃、よく私たちと海に出たもんだ。セネガルにやってきたらすぐに私たちに会いに来た。乳がんの知らせを受けて、彼女は私たちの聖なるバオバブの木にやってきてその治癒を祈っていた。その場所はジェラール・ドパルデューら彼女の友人たちも一緒にやってきて、一種の巡礼地となった。私たちはみんな彼女ととても親しい関係だったから、その死去をみんなとても悲しんでいる。私たちは村の老人たちと、どうやって彼女の名誉を讃えようかと話し合っているところだ。」

彼女の死のニュースに、多くのアーチストたちも彼女にオマージュを捧げたが。その中にセネガルの名高い自作自演歌手であるユッスー・ンドゥールもいた。
「彼女はセネガルにあって私たちの姉だった。私たちの国を愛する気持ち、とりわけダカール市とンゴール島への愛着を表現して証明もした人物だったのだから。」

数年前フランス・ギャルはあるドキュメンタリーの中で、アフリカに関して、「あらゆる存在の美しさが、誰の目にも明らかだ」と説明していて、「私が伝えたいこの大陸のイメージ、それは燃えるようなアフリカだ。」と結んでいる。

(↓)テレビ FRANCE24のコラージュ映像「フランス・ギャルとアフリカ」(1月8日 YouTubeにアップされたもの)





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追記:
1月7日のウェブ版パリジアン紙に掲載されたユッスー・ンドゥールのフランス・ギャルへのオマージュ。向風三郎のFB上で翻訳紹介された全文をそのまま再録します。

ユッスー・ンドゥール:フランス・ギャルはフランス人で最もセネガル的な女性だった

フランス・ギャルはフランス人の中で最もセネガル人的な女性だった。」
その母国セネガルにおけるフランス・ギャルという人物が象徴するものについて、ユッスー・ンドゥールはこう要約した。アフリカ大陸で最も有名なアーチストの一人であるンドゥールは、フランス・ギャルの死去による心の動揺を本紙に告白した。数十年前から1年の数ヶ月をこの国で過ごしている彼女の死のニュースは、すぐさまこの国のニュースサイトの一面を飾った。
「彼女はセネガルと自分の住むンゴール島(ダカールから丸木舟で数分のところにある)への類稀な愛情を示したフランスのアーチストである。私たちはその島で彼女が仕事に取り組んでいる姿を見た。彼女はダカールの人々とまさに一体化していた。彼女の私の国への愛は疑いの余地がない。私はンゴール島の対岸にあるレストランが並ぶ海岸道であるアルマディー街で、隣接する店屋の中でフランスと出会った。彼女はセネガル女そのものだった。彼女はそこの常連で、とても活き活きと人々と接触していた。彼女がここの地で自由に振舞っているというのがよく感じられた。今日、私たちは大きな悲しみに包まれている。彼女のセネガルとのストーリーは非常に深いものだった。この地で彼女には全てがあった。彼女の好きだった場所、友だち。彼女は何度も行き来したけれど、とても多くの時間をかけていたのだ。」
ンゴール島で、フランス・ギャルは海辺のハーフティンバー様式のヴィラに住んでいた。彼女は密かに島の一軒のレストランを買い取り、学校を建設した。
「今日、住民の悲しみは目に見えて感知でき、みんなそのことばかり語り合っている。このニュースはプレスの一面になったし、人々は深く悲しんでいる。ここは”テランガ”(ウォロフ語でもてなしの意)の地であり、セネガルとアフリカを深く愛する人には必ず自分の居心地の良い場所が見つかる。彼女はそういうわれわれの家族の一人だった。私たちの旗印は、"もてなし”である。彼女はそれを体現していた。彼女のおかげで多くの彼女の友だちがダカールを発見することができたのだ。」
1987年、フランス・ギャルは「ババカール」と題する歌を発表したが、この歌はまさにこの国のためのものだった。この歌の中で彼女はダカールの路地で一人の母親が彼女に赤ん坊を贈り物として差し出した話を描いているが、それによってセネガルの首都の路地で生まれた子たちの厳しい生存環境を明るみに出したのである。
「セネガル人たちはこの『ババカール』という歌にとても感銘を受けたし、彼らはこの歌を大変好んでいる。それが彼女の子供たちへの慈善活動へのオマージュである。ここにはババカールのような子供たちがたくさんいる。この歌が多くのセネガル人たちの心に響いたのは、この子供たちを守る闘いにおいて、われわれは孤立していないということがわかったからなのだ。この地にいない人たちもこの問題に目を向けてくれるようになったと感じたからなのだ。この歌によって彼女はその関心を高めてくれたし、私たちの興奮は絶大なものだった。音楽は力であり、音楽は人々の意識を高めることができる。」
「彼女は私たちにとって姉である。その業績を称えなければならない。」

2 件のコメント:

Atsuko Barouh さんのコメント...

彼女の歌は良質の歌謡曲だったなあ、と今になって思います。私も実はレコード買っていたし。そして彼女の金髪で丸顔がノーテンキでインテリに見えないので彼女は不当に馬鹿にされていたと思いますね。彼女がバルバラみたいなルックスだったらずいぶん尊敬されたと思います。フランスってそういう所あります。夫の急死と娘の病死というとんでもなく辛い試練をへて強く生きた女性だったのですね。ピエールのお墓のすぐそばに彼女の旦那さんのお墓があって、そのお墓がまた凄く変わっているのです。ガラスの大きなボックスに桃の花らしき枝が生けてある。なんだかとっても美しいのです。その又そばにはリタミツコのギタリスト、フレッドのお墓があって、お墓の上に小さなギターが置いてあって。でもこの前見たら誰かが盗んだ。ひどい事をするやつがいます。話は移りましたが、私の人生を豊かにしてくれた音楽家たちが、つぎつぎ消えて行くのは自分の人生も消えて行くようで悲しいです。まあしょうがない、他の多くの生き残っている同士もいるから、前を見て、まだまだ発見のある人生をおくりましょうかねえ。

Pere Castor さんのコメント...

敦子さん、コメントありがとうございます。本年もよろしくお願いします。
初めて会った時のこと覚えていますか? 83年か84年頃だったと思います。確かピエールさんが使う(ムーンライダース等が録音したバックトラックだったと思う)録音テープがCDG空港の税関で止まっていて、当時私が勤めていたCDGのカーゴ会社が通関して、私がパリ6区のお宅(cherche midi通りだったかな?)に届けたんです。少ししかお話できなかったんですが、配達のお礼にアントワーヌ・トメのシングル盤をいただいた。
なんでこういう古い話しますかって言うと、敦子さんも私も多分あの80年代からフランスの空気が変わったということを感じていたんじゃないかなと思うからです。フランス・ギャルの追悼番組や追悼記事をいろいろ目にしましたが、やはり大方のところでは、イエイエのロリータ人形アイドルよりも、ベルジェ/ギャル(74年からカップル)期の大人になって、音楽的にもちゃんと歌唱パフォーマーになって、人生や世界状況や音楽及び芸術全般なんかをテーマにした歌詞を歌えるようになって、という70年代後半から80年代のフランス・ギャルの方が偲ばれているのですね。ベルジェは92年に亡くなり、ギャルは娘ポーリーヌの死後97年に歌手を引退している。だから、フランス大衆が記憶しているのはとりわけ80年代であるわけです。ヒット曲もめちゃくちゃ多かったですし。で、この80年代というのが、それを体験した多くのフランス人にとっても、おそらく私たちが無邪気で無頓着で(敦子さんの表現を借りると"ノーテンキ"で)ある種ポジティヴでいられた最後の10年だったんじゃないか。左派の大統領が誕生したり、FM電波が解放されたり、音楽の日やゼニットが出来たり、TGVが開業したり、フランスから「ワールドミュージック」が世界的に発信されたり、FNの台頭をSOSラシスムが黄色いバッチで蹴散らしたり、アフリカの飢饉を救うために歌手たちが集まったり、コリューシュが「心のレストラン」始めたり、革命200周年を祝ったり...。なんでこんなにナイーヴなやり方でみんな動けたんだろうか?と今からは想像できないようなポジティヴな雰囲気があった。このど真ん中にフランス・ギャルはいたのです。
Résiste (抵抗するのよ)
Prouve que tu existes (きみが存在するということを証明するのよ)
Cherche ton bonheur partout, va (きみの幸せをどこにでも探しに行くのよ)
Refuse ce monde égoïste… (このエゴイストな世界を拒否するのよ)
ぷぁぁっ!よくこんな歌詞歌えたもんだ、と今日の人たちは思うでしょうが、これがフランスの80年代だった。ボブ・ゲルドフとコリューシュは生きた聖人のように見えていた。こういうフランスはもうないのですよ。
同時代人のフランソワーズ・アルディやヴェロニク・サンソンが60歳過ぎても歌い続けているのと違い、フランス・ギャルはしっかりと引退してしまったから、「老歌手」にならずに、いつまでも若い(+成熟年代で止まっている)アイコンでいられたんです。それがいつまでも「80年代」でいられた理由だと思います。
他の記事で訳したテレラマ誌のヴァレリー・ルウーによるオマージュが、フランス・ギャルの死を泣くのは、80年代の名残りが遂に消え去ることも泣いているのだ、というような結語で終わっています。とてもよくわかるのは、多分、私もあの時代へのノスタルジーが強烈だからなんだと思います。敦子さんなら、たとえ共感はしなくても、あの時代の共同体験者として「それもありね」と了解してくれるのではないか、と。
またお越しください。