2018年1月13日土曜日

生まれついての「豚」

「男はみんな狼」という表現と似てはいるのだが、今や「男はみんな豚」と見なされる傾向が現れている。それは例のハーヴェイ・ワインスタイン事件以来のことなのであるが、傷ついた女性たちが勇気を持って一斉に声を挙げるようになったこと、それは革命的な変化であり、女性の二人に一人が性暴力やセクハラの被害に遭っている現状では、徹底的に変えるべきことにようやく動き出した人間たち(女性たち+男性たち)を私は応援する。その動きにやや反して、男はみんな豚というわけではないでしょう、とか、女性たちだって誘惑されて嬉しいでしょう、とかそういう水を差すような論を立てる人たちもいる。1月9日にル・モンド紙上に掲載された100人の女性たちによるトリビューン『私たちは性の自由に不可欠な「口説き」の自由を擁護する』がそれであり、その旗手的な役割を果たしたのが作家・美術評論家・複数自由恋愛実践者のカトリーヌ・ミエ、女優・文筆家・BDSMイヴェントの主宰者のカトリーヌ・ロブ=グリエ(ヌーヴォー・ロマンの旗手であった故アラン・ロブ=グリエの未亡人)、保守系タカ派のジャーナリストで月刊誌Causeurの創刊者/編集長のエリザベート・レヴィで、あろうことか国民的女優・世界的銀幕のスターであるカトリーヌ・ドヌーヴが賛同署名したことで大いに話題になった。
 上に「口説き」と訳した、このトリビューンのキーワードは "Importuner"(アンポルチュネ)という動詞で、この100人の女性たちは、男が女に"アンポルチュネ”する権利と自由を擁護すると言っているのである。手持ちのスタンダード仏和辞典には、こういう訳語が出ている。
(人の)迷惑(邪魔)になる。(を)うるさがらせる、悩ます。(女性に)しつこく言い寄る。
つまり、少しくらい女性に誘惑的で、執拗につきまとったり、愛の言葉を繰り返したりというのは「セクハラ」に当たらないのではないか、むしろ男女関係に不可欠なアプローチではないか、というような論法なのだ。
 この反動的な切り返しに対して、それまでの #BalanceTonPorc (#豚を告発せよ)、#MeTooのムーヴメントに関わったり賛同してきた人たちは大反論している。

 1月12日、2016年度ゴンクール賞作家のレイラ・スリマニは、リベラシオン紙への投稿で「私は"アンポルチュネ”されない権利を求める」と論じています。その中で、男性たちはすべてが生れながらにしての「豚」であるわけがない、とも言及しています。この「生れながらの"豚”」という表現を
”Un porc, tu nais"(アン・ポール、チュ・ネ)
と綴っていて、"importuner"(アンポルチュネ)と地口にしている、というところがミソ。
 ではレイラ・スリマニの素晴らしいトリビューンを全文訳してみます。シャポー!

《 Un porc, tu nais ? 》
 テクスト:レイラ・スリマニ
通りを歩く。夜にメトロに乗る。ミニスカート、デコルテ、ハイヒールを身につける。ダンスフロアーでひとりで踊る。誰にもわからないような厚化粧をする。少し酔っ払った状態でタクシーに乗る。ヒッチハイクをする。深夜運行のバスに乗る。ひとりで旅をする。カフェテラスでひとりで一杯飲む。誰もいない小道を走る。ベンチに座って人を待つ。男を誘惑し、気が変わって、家に帰る。RER(高速郊外路線)の混雑の中に身を置く。深夜働く。公衆の場で自分の子に授乳する。賃上げを要求する。毎日のことであり、ありふれたことであるこのような生活の様々な瞬間に、私は ne pas être importnée 「しつこく言い寄られない」権利を要求する。これまで考えもしなかったような権利である。私は人に私の態度、私の衣服、私の歩き方、私のお尻の形、私のバストのサイズについてつべこべ言わせない自由の権利を要求する。私は静穏でいること、孤独でいること、恐れることなく自分を前に進めることの権利を要求する。私がこれが単に内なる自由にとどまることを望まない。私は外で自由に空気を吸って生きる自由が欲しいし、その世界は少しは私のものでもあるのだから。

私はかよわいこわれものではない。私は保護されることを求めてはいないが、私の権利が保障され尊重される価値のあるものにしたいのである。男性たちはすべて豚ではない。全くそんなことはない。この数週間、(セクハラ糾弾の動きに関して)今起こっていることを理解する能力において、どれほど多くの男性たちが私を驚嘆させ、歓喜させたことか? 彼らの共犯者であるまいという意思。世界を変えたいという意思、そして彼ら自身がこのような男性世界の慣習から解放されたいという意思に私はどれだけ心動かされたことか? いわゆる「しつこく言い寄る自由」の背後に隠されているのは、男性に関する恐ろしいほど断言的な観点、すなわち「男は生まれながらにして豚である」という見方である。私を囲む男性たちは、私に罵りの言葉を浴びせる男たちに強く抗議し、怒りを表明する。朝の8時に私の外套に射精する男たちに。私が昇進するために何をしなければならないのかを理解させようとする社長たちに。研修の代価にフェラチオを要求する教授たちに。通りすがりに私に「あんたおまんこする?」と聞き、しまいには私を「色気違い」扱いする男たちに。私が知っている男性たちはこのような時代に逆行する男性精力のヴィジョンに対して著しく嫌悪している。私の息子は、自由な男になるだろうし、私はそれを強く望んでいる。自由であるということは、女にしつこく付きまとう自由ではなく、制御不可能な性衝動に憑かれた女性の天敵と自分を定義しない自由を持つということである。私たちを魅惑する男性たちが持っている何千もの素晴らしい魅惑の方法を知る男になってほしい。

私は被害者ではない、しかし何百万もの女性たちは被害者である。これは道徳的判断でも女性たちの本質化でもなく、一つの事実なのである。そして私の中では、世界中の何千もの都市の街々でこうべを垂れて歩くすべての女性たちの恐怖と同じ、早い心臓の鼓動を感じている。男たちに追われ、脅され、暴行され、罵しりを浴びせられる女たち、公衆の場所で闖入者のように扱われる女たち。私の耳には地面にひれ伏す女たち、恥じ入る女たち、名誉を汚したという理由で道に投げ出される卑賤の女たちの叫びが反響している。その肉体がしつこく誘惑されたいという誘いである可能性があるという理由で長く黒いヴェールに身を隠すことを余儀なくされた女たち。カイロ、ニューデリー、リマ、モスール、キンシャサ、カサブランカの通りで、女たちが誘惑されたりちやほやされたりしなくなるのではないかという心配のためにデモ行進するであろうか?この女たちは男を誘惑したり、選んだり、しつこく言い寄ったりする権利があるのだろうか?

私はいつの日か私の娘がミニスカートとデコルテを身にまとって夜の街を歩けるようになるよう願っている。一人で世界旅行をし、恐怖することもなく、そんなこと頓着することもなく真夜中に地下鉄に乗ることができるようになることを。すなわち私の娘が生きるであろう世界はピューリタンな世界であってはならない。私が確信しているのは、その世界は今よりも公正で、愛情の領域では、快楽や誘惑のゲームがより美しく、より豊富であるはずなのだ。現時点で想像すらできないほどの水準で。
(リベラシオン紙2018年1月12日)

追記(2018年1月14日)
人は豚に生まれるのではない、豚になるのである。
(↓ 1月14日国営テレビFrance 5の政治討論番組 "C politique”に出演したレイラ・スリマニ。)
「女である私たちは、働き、戦い、男たちと同じ抑圧の下に置かれ、男たちと同じ義務を課せられていて、税金を払い、子供たちを育てる。しかし私たちは男たちと同じ給料をもらっていないし、同じように重視されてもいない。そして世界の大部分のところで、女たちは男たちと同等の権利もない。」
「私たちは男たちよりもずっと多くの経済的不安定の被害者であり、ずっと多くの暴力の被害者である。私たちは世界における私たちの均等で公正な分け前を要求したいだけなのである。私たちは最も大きな誇りのうちに安全に外に出て暮らしたい。」
「私はジェンダー間の戦争は望まない。私はみんなが共に生きることを望んでいる。」「私は人々が愛し合い、狂おしいまでに愛し合うことを望んでいる。しかし平等という条件で。相互の尊重の上に。各々の人格の尊重の上に。」
「人は"豚”に生まれるのではなく、"豚”になるのである。私たちの子供たちが生きていく世界を変えることはできる。性的関係における捕食と暴力を一掃できた日には、人はもはや欲望を空にする必要もなく、禁欲的な世界に生きることもない。人はより良く愛し合えるはずだし、もっと良くセックスすることができるはず。そして一緒に生きるということをもっと幸福に営めるはず。それゆえに私はこの暴力と戦わなければならないと考える。一人一人がお互いにより良く生きるために。」

2 件のコメント:

UBUPERE さんのコメント...

Un porc, tu nais. Bravo! Chapeau!

Pere Castor さんのコメント...

Ubu-pêre さん、コメントありがとうございます。
レイラ・スリマニは2年前からずっと追ってきた作家ですが、作品のたび、発言のたびに圧倒されますし、まさに膝を叩いて「そうなんだよ」と言いたくなります。今後も注目しましょう。