2011年11月19日土曜日

渡るべきたくさんの川がある

『キリマンジャロの雪』
"Les Neiges du Kilimandjaro"
2011年フランス映画 
ロベール・ゲディギアン監督  
主演:アリアーヌ・アスカリード、ジャン=ピエール・ダルーサン 

フランス公開 : 2011年11月16日 

 Many rivers to cross...
 この映画で流れるのはジミー・クリフではなく、ジョー・コッカーのヴァージョンです。そしてその目の前にあるのは川ではなく地中海であり、場所はマルセイユで港湾労働者たちのいる地区です。男たちは皆(ムッスー・T&レイ・ジューヴェンのような)青色の作業着を着ています。その背後にある建物はCGT(労働者総同盟)の寄り合い所です。こんなスローガンが見えます:「La crise c'est eux, la solution c'est nous(経済危機は彼らのことであり、解決はわれわれにある)」。映画の時代背景は2011年的今日であり、経済危機とグローバリゼーションを理由に、人が簡単に職業を失う、私たちの生きる現在時です。
 映画の始まりは象徴的です。20人の解雇を決めた会社の、その20人を決めるのが組合(CGT)によるくじ引きです。不幸にしてそのくじに当たってしまった人が解雇されるのです。組合執行委員のミッシェル(ジャン=ピエール・ダルーサン)は、その抽選による解雇者の名前をひとりひとり読み上げていきます。その当たってしまった解雇者の中に、自分(ミッシェル)もいたのです。執行委員としてその中に名前を入れないこともできたはずなのに、ミッシェルはその特権を嫌って拒否し、いさぎよく解雇され失業します。
 50と数歳、筋金入りの組合活動家、定年前の失業、 結婚して30年、子供たちも孫たちも近くにいる。妻マリー=クレール(アリアーヌ・アルカリード)は若い日に看護婦になるための勉強を断念、主婦/子育てが終わってからは、パートとして家政婦、老人介護、広告チラシの配布などの仕事をして家計を助けています。失職したミッシェルは望みのない求職活動を形式的に続けながらも、孫たちの遊び相手になったり、息子の家の修繕をしたり、というゆったりとした時間を過ごしています。それが海と浜辺のある南の町マルセイユで進行するわけですから、この高年失業も危機的様相が見えません。ベランダでバーベキューを焼き、夕陽を浴びながらパスティス酒をすするミッシェルとマリー=クレールを人が見るとき、この夫婦はつましいながらも幸福に生きていると思うでしょう。
 労働者階級であっても30年も働いたあとには、こういう生活が待っているもの、というのが私たちの前世紀までの社会通念だったと思います。 ところが、今日そういう通念はないのです。ミッシェルとマリー=クレールの生活ですら「ブルジョワ」と見て妬む人たちが増えてしまったのです。
そんなある日曜日、岸壁にあるミッシェルの古巣であるCGT組合寄り合い所の建物と敷地を使って、家族/親戚/元仕事仲間たちなどを大勢集めて、ミッシェルとマリー=クレールの結婚30周年のパーティーが開かれます。よく冷えたロゼの瓶がボンボン開けられ、屋外のライドスピーカーからブロンディーの「ハート・オブ・グラス」が流れ、防波堤の上で何十人という老若男女が踊り狂っている ー なんて美しい! われわれ労働者階級のシンプルかつ効果甚大なパーティー歓喜を絵に描いたような図です。その宴のクライマックスに、巨大なピエス・モンテとプレゼントの「宝箱」が現れ、孫たちが声を合わせてなにやら謎めいた歌を歌います。よく聞くとそれは1966年のパスカル・ダネルの大ヒット曲『キリマンジャロの雪』 :
もはやこれ以上遠くに行くことはできない
もうすぐ夜になってしまうから
遠くかなたに見えるのは
キリマンジャロの雪
それは白いマントのようにおまえにふりかかる
それに包まれておまえは眠るだろう
   なんのことやらわからないマリー=クレールとミッシェルに息子のジルが「その宝箱を開けてみろよ」と言います。その中には家族友人たちが入れたお祝いの現金札がぎっしり詰められ、その底にはタンザニア/キリマンジャロ行きの旅行クーポンが入っていたのです。旅行どころか、二人でレストランで食事することでさえ稀だったマリー=クレールとミッシェルの夫婦に、息子と娘らが共同出資してのプレゼントでした。涙、涙...。
 しかし事件は数日後にやってきます。ミッシェルの自宅で親友ラウール(ジェラール・メイラン)の夫婦と4人で食後のトランプを楽しんでいたところに、拳銃で武装した覆面強盗の二人が乱入し、宝箱を奪い去ります。強盗たちは前もってこの夫婦が現金の詰まった宝箱を持っていることを知っていたのです。
 椅子に縛り付けられたままその夜を明かした4人の精神的ショックは計り知れず、この強盗を絶対に許せないと思うのです。特にラウールの妻ドニーズ(マリリーヌ・カント)は神経衰弱に陥り、立ち直れません。しかしミッシェルがふとしたきっかけで強盗の片割れの身元をつかみ、警察に通報して逮捕したところから事情が変化していきます。その若者クリストフ(グレゴワール・ルプランス=ランゲ)は、 映画の冒頭のCGTによるくじ引きの結果解雇された20人のひとりでした。身勝手な母親に放棄され、幼い二人の弟を養い、勉学の手伝いもして、3人でひとつ屋根で暮らしていましたが、解雇され、家賃も食費も払えない状態に陥り、経験ある町のワルと組んでの初犯でした。主犯はクリストフではなく、相方なのですが、クリストフの報酬は巻き上げた金の10%というなめられ方でした。
 マリー=クレールとミッシェルはそれぞれ別々の方法でこの事件を「理解」しようとします。ミッシェルはラウールに言います「やつも俺たちと同じような労働者なんだ」。するとラウールは「おまえはやつと同じように人を襲ったり金を奪ったりしたことがあるのか?」とミッシェルの態度の変化を理解できません。ミッシェルはクリストフへの告訴を取り下げますが、刑事事件では事情は変わらず、クリストフへの刑罰は裁判によって確定します。武装による強盗は最高で禁錮15年。マリー=クレールは援助の手を一切断ち切られたクリストフの二人の弟、ジュールとマルタンに接近し、お世話おばさんを買って出ます。
ミッシェルは取り戻されたキリマンジャロ行き旅行クーポンを、マリー=クレールに黙って旅行会社で払い戻してもらって現金化します。これをジュールとマルタンの養育費にしようじゃないか、とマリー=クレールに打ち明けると、マリー=クレールはクリストフが出獄するまで二人の少年を私たちの家に受け入れよう、という考えを明らかにします。
 息子たちの反対も消え、ラウール夫婦の全面的な理解も得られるハッピーエンドが待っています。キリマンジャロの雪は見なくても、マリー=クレールとミッシェルはまたひとつ大きな川を渡ったのです。

 私がこうやって書くと映画はチープな人情もののレヴェルにとどまってしまうかもしれません。しかしこのゲディギアンの映画は、労働者が労働者を妬み呪い、失業者が失業者同士で職のために敵対を余儀なくされ、貧者が貧者から奪うこともやむなし、という21世紀的現実を直視した作品です。2011年夏、私たちはイギリスの大暴動で、誰が味方で誰が敵なのか分からない状態で貧しい人々が貧しい人々を襲っている映像をたくさん見せつけられました。それはモニターの彼方の問題なのか。私たちの地下鉄で、交差点で、路上で、そうなっても当り前という「今」が見えませんか?
 この映画は古いサンディカリスト(組合活動家)の夢です。労働者たちが団結すれば世界は変えられるという古い古い世代の考え方です。この古い夢は今日ひとかけらの有効性を持っていないのでしょうか? ミッシェルな何十年もの長い間そういう夢を持ちながら、人に嘲笑されながらも、その夢を持ち続けながら生涯を閉じるでしょう。それはキリマンジャロの雪に包まれながら眠ることと同じなのです。
 若いクリストフのこの世への憎悪は映画の最後まで消えません。これは別の映画の主題となりましょうが、クリストフもまたいつかは川を渡るのだ、ということは考えられないわけではありません。団結とは何か? それはマリー=クレールの言うように「理解する」ことであり、ジミー・クリフの歌が言うように「川を渡る」ことでもあるわけです。陳腐であることを恐れずに、私は言えます、これは L'humanité (定冠詞つきのユマニテザ・ヒューマニティー。太字で書かれるべき人間性)に関わるものなのだ、と。

(↓『キリマンジャロの雪』予告編)

2 件のコメント:

kay さんのコメント...

こんにちは。

重たいテーマですね。

貧しくても、人間性だけは失いたくない。。

そう思いつつ、わたしもクリストフを
責める気持ちにはなれません。

このような映画が創られること自体、まだ希望はあるのかな、と思いたいです。

Pere Castor さんのコメント...

おお、北海道のkayさん、コメントありがとうございます。マルセル・パニョル同様ゲディギアンも生粋のマルセイユ人です。母親ドイツ人&父親アルメニア人で、ドックで働く労働者の家庭で育ちました。彼がマルセイユで映画を撮り続けるのは,マルセイユという場の持つ温度や色彩や抱擁力に多くを語らせることができる監督だからじゃないかな、と思います。どんな緊張した人間ドラマになっても、背景にあるこの町の家並や岸壁や行き交う船がふ〜っと映画を優しくしてくれる、そういう名人芸ができるんですね。それとゲディギアンのドリームチームと言うべき役者陣ですね。ゲディギアンの奥さんでもあるアリアーヌ・アスカリード,ジャン=ピエール・ダルーサン,ジェラール・メイラン,この3人の持つ朴訥/シンプルなキャラクターから発せられる人生の皺の数が多そうな言葉のやり取りと体温です。
映画のひとつのエピソードで、沈痛な顔でマリー=クレールが偶然入ったカフェで、そういう時にはこの飲み物,と客の顔を見て飲むべきドリンクを当ててしまう、すばらしいギャルソンが出てきます。それ以来マリー=クレールはこのカフェの常連になって、飲み物を当ててくれるギャルソンの魔力を楽しむのです。こういう話もマルセイユだったら,本当にありそうだなあ、と思わせてしまう、ゲディギアンのマジックです。
ポジティヴな映画です。日本で観れるようになったらいいですね。