2011年3月23日水曜日

Choeur は coeur なり,と。



 久々にサントラ盤のライナーノーツの仕事を受けました。2010年カンヌ映画祭の大賞を取り,2011年セザール賞も最優秀作品賞(+2部門)に輝いたグザヴィエ・ボーヴォワの『神々と男たち(Des Hommes et des Dieux)』(どうして原題と邦題で人と神の順番が逆なのかしら)です。映画は3月から日本上映されているので,概要は日本の公式サイト『神々と男たち』をご覧ください。
 ちょっとこれからここに書くのはライナーの下書き的なものになると思いますが,サントラ盤を聞き,映画のDVDを見た感想みたいなものを思いつくまま。
 アルジェリアの首都アルジェから90キロ南にある山岳地帯に,映画の舞台ティビリン修道院はあります。シトー修道会によって1938年に建てられたこの修道院で共同生活を送っている8人のフランス人修道士たちの1993年から1996年までの日々をこの映画は追います。最後はイスラム原理主義武装集団GIA(の犯行とされていますが,謎の部分があり確定はしていない)によって7人の修道士が誘拐され,暗殺されるという悲劇が待っています。
 その背景にある状況を説明すると,91年のアルジェリア初の普通選挙で圧勝したイスラム救国戦線(FIS)を,軍部によるクーデターが制圧し,選挙が無効化され,FISは非合法/解散を余儀なくされ,その勢力が地下で武装化して反政府テロ活動を開始し,イスラム武装集団(GIA)と政府軍との戦闘は多くの市民の巻き込んで,92年から約10年間に10万人を越す犠牲者を出すという,文字通りの内戦状態でした。GIAの標的は政府側だけでなく,イスラムの教えに背くすべての者を粛清するものであり,外国人,異教徒などに多くの犠牲者を数えました。
 徐々に激化していくGIAのテロ,これがこの映画の通奏低音です。当然これは映画の進行と共にクレッシェンドしていきます。修道院の近くの村でクロアチア人労働者がイスラム原理派集団によって襲われ,喉を切られて殺されます。修道院まで魔の手が伸びるのは時間の問題と誰もが思います。アルジェリア政府とフランス大使館が修道士たちに避難帰国を勧告します。躊躇する修道院長クリスチアン(ランベール・ウィルソン)に両国の役人たちは強制帰国を辞さぬと脅してきます。
 修道士たちは迫り来る脅威に,初めは院長の独断で留まるか去るかを決めてはならぬ,と合議制を提案します。修道士たちの中には立ち去ることを希望する者もいました。
 ここからサントラの話です。このサントラ盤はそれだけ聞くとよくわからないかもしれません。セリフのトラックが2つ。そしてクライマックスとして修道士たちの「最後の晩餐」に流れるチャイコフスキーのバレエ音楽『白鳥の湖』のトラックが終盤にあります。あと11トラックは修道士8人によって無伴奏で歌われる聖歌です。
 ちょっと聞いただけで,これは数年前から時々驚異の売上を記録する一連の「XXX修道院のグレゴリオ聖歌」とは違うということはわかります。歌唱のうまい下手ではない,合唱のユニゾンは一糸乱れることなしなどということはなく,一糸も二糸も乱れても構わない,私たちはここですべすべしたレコード録音を聞いているのではなく,生身の人間たちの声を聞いているのだ,ということに気づきます。これは既にレコード/CD化された録音を借りてきたものではありません。この映画に修道士として出演した8人の俳優たちが歌っているのです。すなわち,ランベール・ウィルソン,ミカエル・ロンダル,オリヴィエ・ラブールダン,フィリップ・ローデンバック,ジャック・エルラン,ロイック・ピション,グザヴィエ・マリー,ジャン=マリー・フラン。この8人の中で,歌唱の勉強をし,プロとして歌った経験があるのはランベール・ウィルソン(ミュージカルにも出たことがあるし,CDアルバムも出している)だけです。
 この聖歌合唱のコーチとなったフランソワ・ポルガールは,このサントラ盤の解説で,経験のない俳優たちに2ヶ月間徹底した歌唱訓練を行ったと記しています。その目的は合唱の完成度を高めることではなく,実際の修道士たちの生活により近づけることだった,とも書いています。修道士たちの日課の中でこの合唱は重要な位置を占めます。ランベール・ウィルソンもこのサントラ盤の解説を書いていて,その役作りのために他の俳優たちと訪問したある修道院では,一日に7回の礼拝に修道士たちはのべ4時間も歌い続けている,と証言しています。おそらく俳優たちはそれに近い歌唱訓練を繰り返しながら,映画撮影に臨んだはずです。
 ここが映画のマジックです。俳優たちが合唱練習を繰り返すことによって,修道士たちにどんどん近づいていくわけです。共同生活をし,共同で歌うこと,13曲あったという挿入賛美歌が,一曲一曲歌として出来上がっていく課程で,俳優たちは心がひとつになっていく,という神秘的な体験をしているのです。
 これはフランスではよく言われることですが,合唱を指す言葉「Chœur」 ([kœr]無理にカタカナ読みをふると「クール」)は,心,心臓を指す言葉「Cœur」と同じ発音なのです。翻って,ひとつの合唱団はひとつの心,と例えられるのです。
 それと映画は同じ進行をしていくのです。つまり,テロの脅威に曝され,修道士たちの心は最初バラバラなのです。ここを去って違う場所で神に仕える仕事を続けたい,いや,神に命を捧げたのだから,留まるべきか去るべきかは神の意に問いたい...。ひとりひとりの意見の違いもあり,ひとりの人間の中での葛藤もあります。映画は修道士たちの議論と問答の間あいだに聖歌のシーンを挟んでいきます。聖歌のひとつが終わる度に,何か小さな変化があるのです。その聖歌も,最初はユニゾンの比較的単純なメロディーのものに始まり,徐々に複雑な音階が加わり,難しい息継ぎが要求され,高音の限界から低音の限界までを使い,二声のポリフォニー,三声のポリフォニー...難度をどんどん極めていきます。1曲1曲と進むうちに,その歌の神への祈りの言葉のように,修道士たちはひとつになって神に近づいていくのです。
 その果てに彼ら8人は,全員この修道院に留まることに同意するのです。それは皆が殉教を覚悟したということでもあります。
 その同意の夜,彼らは葡萄酒の栓を抜き,「最後の晩餐」を催すのです。たぶんその1本しかなかったのでしょう,カセットテープを古いラジカセに入れ,スタートボタンを押すと,チャイコフスキーの『白鳥の湖』が流れてくるのです。陳腐と言わば言え。この聞き古されたロマンティックな旋律をバックに,修道士たちはそれまでにない顔で談笑し,飲み,黙考し,また談笑し,というシーンになり,観る者はここで大粒の涙を流すことになるわけです。

 この映画は歴史的事件を題材としているため,ある種「予め結末を知らされた映画」です。ただここまで述べておわかりの通り,事件の真相を追求したり,政治的問題に言及したりする映画では全くありません。この映画がこれほどまでの感動と反響を呼んだのは,バレエ『白鳥の湖』が善悪・聖俗の二元の問題を劇的に音楽化した舞踊劇であったように,神の位置と人間の位置が縮まっていくことを合唱音楽で表現することができた「音楽映画」だったからではないか,と結論したいのです。さて,これからどんな原稿が書けますでしょうか。

(↓日本語版の映画予告編)


(↓修道士たちによって歌われる聖夜典礼歌 "Voici la nuit")

 

2 件のコメント:

Tomi さんのコメント...

この映画、観たいと思っていましたので、何とか時間を作って観に行きたいです。
ノンフィクションのようで実は音楽映画だったわけですね。
テーマにベートヴェン交響曲第7番2楽章が使われているのも映画の内容に(多分)合っているように思います。 観に行かれたらまたここに感想を書き込みに来たいと思います。

Pere Castor さんのコメント...

Tomiさん、コメントありがとうございます。ベートーヴェン交響曲第7番は予告編のみの挿入で、本編映画では使われていません。「音楽映画」というのはあくまでも私の解釈による表現で、映画をそういうふうに見る人はそんなに多くないと思います。2004年クリストフ・バラティエ映画『レ・コリスト(邦題コーラス)』を絶賛した人間のひとりとして、合唱は人々の心をつなぐというテーマが、このような生と死の間の極限状態でも「可」とするこの映画の力には強烈な衝撃を覚えます。ぜひ観てください。